橘七美
愛歌との一件から、四日が経った。
愛歌は次に会った時に、その時のことを俺に謝罪した。しかし、なぜあんなことになったのか聞いても、それは教えてくれなかった。
気にしないようにしても、それ以降の愛歌はどこか余所余所しい。その度に、俺の手を叩いた時の愛歌の顔を忘れられなかった。
「また今日も遅くなるの?」
「うん」
そんな雨の日の朝。靴を履きながらそんなことを考えて、母親の問いにぼーっとしながら答えた。
「何してるのかわからないけど、あまり……」
「兄さんのこと思い出してるの? 同じようになるんじゃないかって?」
「え?」
「……え?」
どうして今、その名前を出したのか、自分でもわからなかった。
「いや。ごめん。行ってきます」
「あ、待って」
ぴしゃりと逃げるようにドアを閉めた。傘を差しながら、イヤホンを耳に入れた。
学校に着き、教室に荷物を置いた。早朝だったためか、まだ人はいなかった。いつもの光景だ。
そのまま図書室に向かった。
「っ!?」
図書室への階段を降りようとした時のことだった。
急に背中を掴まれ、引き倒されるように、上階に引き上げられた。
「おい、なんだよ!?」
そして、屋上前の踊り場の壁にドン、と壁に叩きつけられる。一瞬だけ視界がぐらりと揺れ、息がうまく吸えなかった。
揺れる視界の中で何があったのかを把握しようとすると、5人の影が見えた。
「いった。なんだよ、お前ら」
「あーあ、口の利き方、忘れちゃったんだぁ? 青鏡」
女子高生はどうにもみんな同じに見えてしまうし、名前を覚えるのは苦手なのだが、真ん中のやつだけは知ってる。
「あぁ、なんだ橘か。中学ん時、藤橋の金魚のフンやってた」
そう煽ると舌打ちが聞こえた。
「あんたは、何も変わってないね。こっち見下ろしてるようなその目、ムカつくんだよ」
そう言った次の瞬間、みぞおちに蹴りが入った。
「ゲホッ、ゲホッ」
倒れそうになるのを堪えて、壁に手をついた。
「あはははは!」
「男の癖に、だっさー」
頭にキンキンと笑い声が響く。
痛みとトラウマで履きそうになり、うめきながら体を震わせた。
「ねぇ、ちょっとやりすぎじゃない?」
「いいっていいって、どうせ誰も信じないんだから」
「そうそう。あ、そだカメラの準備しとかないと」
取り巻きたちのそんな声が聞こえた。
「……」
後ろにいる女子たちとは対照に、橘は俺のことを睨んでいた。
「怖い怖い」
手を震わせながら、自分を取り繕うように言って、立ち上がった。
「で、何だよ。今更、俺に用なんかないだろ」
同じ中学だってのに、高校にあがってから一回も話したことなんてないじゃん。
「お前にはないよ。あるのは、あの金髪」
「金髪? ……ああ。愛歌のことか」
うちの学校は髪を染めるのは禁止だ。となると愛歌以外に該当者がいない。
「え、名前呼びなんだけど」
「やっぱそうなんじゃないの?」
? なんだその反応。
「青鏡、あの女と仲いいんでしょ」
「友達ではあるよ」
「へえ、友達ね」
橘が含みのある言い方をする。
「あの女さ。お前のこと好きなんだって」
「……………………は?」
一瞬呼吸が止まった。心臓が感じたことのない音を出す。
(なに言ってんだ。愛歌みたいな、高嶺も高嶺の花が、俺みたいなうじ虫のようなやつを、好きになんてなるはず……)
と状況を忘れ、困惑に思考が沈む。
「っ! 何すんだ!?」
突如、その思考の海から引き上げられ、また橘と取り巻きに俺の体を掴まれた。そして反対側の壁に投げ出される。そこに女生徒がいるのが見えた。
体勢を崩し、その子に覆い被さるかたちになる。
(あれ?)
この子だけ少し毛色が違うな、と思った。橘たちとは違う、見るからにおとなしそうな子だった。
というか、その瞳には少し恐怖が浮かんでいて、体が震えている。
「ご、ごめん……」
消え入るようにその子がそう言った。その言葉とは裏腹に、目は助けて、と言っているように見えた。
「っ!」
困惑していると後ろから橘に顔を押し付けられ、その女の子と無理矢理キスをさせられた。女の子が肩をびくりと震わせながら、目をぎゅっとつぶっている。
冷たい壁の感触を手のひらで感じながら、名も知らぬ女の子の湿った震える唇を受け止めていた。
その最中、耳元でシャッター音がした。視界の端にスマホが見える。フラッシュなんか炊かれていないのに、一瞬世界が白く飛んだように感じた。
「ちょ、これ、ヤバくね」
「え、マジで撮ったの?」
「だって橘に言われたし」
そんな笑い声まで聞こえてくる。
「ち! 何なんだよ!」
力任せに引きはがし、橘にそう言った。
キスをさせられた女の子を背に、また橘と向かい合う形になる。
「あんな女、ずっとムカついてたの。見下ろしてくるような目で笑うのも、優しくしてくるのも、ぜんぶ、腹が立つ。だったら、少し壊してやりたいでしょ?」
少々狂ったような笑みを浮かべながら、さっきと同じ位置にまた投げ出された。
「お前があの女を階段で運んでるとこ、何度も見てるよ。お前だってコキ使われて嫌気差してんじゃないの?」
そう言いながら今度は、橘に顔を近づけられる。
「だからさ。あの女の持ってるもん一個くらい奪ってやりたいわけ。そのためにさ、そこの女と付き合ってよ」
「……は?」
「いいじゃん、お互い陰キャなんだから、恋人出来てハッピーじゃん。むしろ感謝して欲しいんだけど?」
何言ってんだこいつ。
「ちゅーもしたことなかったでしょ? ほら感謝したっていいんだよ? ってかハメ撮りでも送ってよ。そしたらあの女に送ってやるからさ!」
橘がうるさい声でそう言った。
「気持ち悪」
つい軽く呟いてしまった。
「は?」
「別に俺が愛歌を助けてるのは好きでやってることだし。その子に罪はないけどさ。ここで付き合ったらお前らと同類じゃん。そんな風に見られるつもりはないよ」
そう言ってその場から立ち去ろうとした。
「誰もお前のことなんか気にしちゃねえよ! 自意識過剰なんじゃねぇの!?」
そして背中にそう、罵声を浴びせられた。
「自意識過剰?」
その声が雨の中の泥みたいに、胸の奥に貼りついた。
「お前に、……お前に何がわかるんだよ!!」
気づいたら俺は橘の胸ぐらを掴み、そう叫んでいた。
「中学ん時はてめぇらのせいで地獄だった。だからもう、笑われないように、見られないように、って毎日息をしないようにしてた。俺の高校生活の一年半、全部それだよ。それの! 何がわかるんだって! 聞いてんだよ!」
しかし危ないところで冷静になって、それだけを言い放った。早朝の誰もいない学校の廊下に、声が響いていく。
ここまで俺が怒ると思わなかったのか、橘は驚き無言になっていた。
「ちっ」
俺は手を放して踵を返し、もう一度その場から離れようとした。
「返してもらうから……」
橘のそんな震えた声だけが耳に届いていた。それはちょうど今の小雨のように、少し泣いているような声にも聞こえた。
それも雨音と一緒に、すぐに遠ざかっていった。




