亀裂
その日の放課後も愛歌の家で練習をしていた。
今日は金曜日だ。愛歌の家に泊まるから、夜中まで練習できる。
普段の放課後は、早めのうちから合わせ練習をするのだが、金曜は夕飯までの時間それぞれ別のスタジオを使って練習し、夕飯後から合わせ練習を始めるようにしていた。
——だから、その違和感に気づくのが遅くなってしまった。
「どうしたの? 愛歌がミスなんて珍しいよね」
そう真夏が指摘したとおり、愛歌の様子が変だった。
キーボードのミスタッチは多いし、入るタイミングを一番と二番で間違えたり、歌の音を外したり。
らしくないミスだった。
「ずっと調子悪そうだよな。体調、大丈夫か? 今日は休んだ方がいいんじゃ」
俺はそう言って、そっと愛歌の肩に手をのせた。
愛歌の肩がびくりと震えた。
「ひっ!」
パンっ。
愛歌が俺の手を反射的に弾く。乾いた音がそのスタジオ内に響いた。
その一瞬、目が合った。
愛歌の瞳には、恐怖とも悲しみともつかない色が揺れている。何に怯えているのか、俺にはわからなかった。
……少しして、アンプのハム音が耳に届くようになってきた。
「あ、あ……。ご、ごめん、なさい。わ、私、その……。ううん! そう! ちょっと体調悪いの。今日は休むわ」
そう言って焦ったように愛歌は出ていった。
俺は手を弾いた時の愛歌の顔が、まぶたの裏に焼きついて忘れることができなかった。
その出来事が、何か気のせいとか、疲れてただけとか、そんなことで起こった出来事だったら良かったのに。
それから心なしか、愛歌が俺を避けるようになった。目が合うたびに、あの乾いた音が耳の奥で何度も蘇る。
***
ゴシックモダンの部屋に、雨音が静かに染み込んでいく。
薄暗い部屋の片隅に、場違いなほど無機質な、近未来のモニターが光っている。壁に反射したその青白い光が、天井の影をゆらりと揺らしていた。
愛歌は机の上に突っ伏していた。
キィ。
部屋の扉が開く。
「そんなとこで寝てたら風邪ひいちゃうよ。最近、肌寒い夜も増えてきたんだからさ」
その声に反応して愛歌が顔を上げた。その先には寝巻き姿の真夏のシルエットがあった。
「真夏……」
「ほら、声ガラガラじゃん。っておわ、どーしたの?」
真夏が話しながら電気を点けるとそこには、鼻水が垂れ、目は腫れぼったく赤い。その周辺を少し濡らしている愛歌がいた。
「泣いてたの?」
「……うん」
「……そ。あーもう、可愛い顔が台無しじゃん」
真夏は近くからティッシュを数枚取り、そっと愛歌の頬を拭ってあげた。
「で? どうしたの?」
ドアを閉めながら真夏は訊いた。
「え?」
「いやいや今更とぼけるのは無理でしょ」
真夏は椅子を近くに持ってきて、逆座りをする。
「……」
愛歌は一瞬悩んだ。
ここで今日聞いた噂を話してしまうと、それはあの女子たちと何も変わらないんじゃないか、と。
「白となんかあったんでしょ? 見た感じ喧嘩とかじゃなさそうだったけど」
「……うん」
しかし、どうしても一人で抱え込んではいられず、つい……。
「誰にも言わない?」
とこぼしてしまったのだった。
「もち。あたしが友達との約束、破るやつに見える?」
「あはは。見た目って意味なら、見えなくはないと思うけど」
「うわヒド」
「でも信用してる」
そんな軽口で少しでも気を紛らわせてから、愛歌は話す。今日学校で訊いた話を。
愛歌は最初、真夏にも自分と同じような反応をさせてしまうんじゃないか、と思い不安になった。
「あー、なるほどね。まだあったんだあの噂」
「え?」
でも真夏から返ってきたのはそんな、拍子抜けするほど軽い反応だった。
「まだ?」
「うん。あ、そっか愛歌は知らないよね。もう一年以上前からあるんだよ、白のそーゆー噂。で、時々再発するってゆーか。つい一ヶ月前にもあったかな」
「そ、そうなの?」
「うん。まあ高校生の中じゃ流行りそうな内容だからね。インパクトあるし。仕方ないよ」
真夏はなんでもないことのように言った。
「で、愛歌はそれ、信じちゃったの?」
「ううん」
「じゃあどうしたの?」
「どうしたの、って。……わからなくなっちゃった……」
正直に言った。
「何が?」
「白のことも。自分のことも」
「ふーん。愛歌でも、そんなことあんだねー」
「真夏は平気なの?」
「あたし?」
真夏は一瞬だけ考えて、すぐに答えた。
「あたし馬鹿だからさ。自分の肌感で感じたことしか、ホントって言えないんだよ。愛歌みたいに難しいこと考えると、逆に嘘つきになっちゃいそう、っていうかさ。その場のテンションで生きてるとこ結構あって」
「……」
「もち、最初はちょっと警戒したけどね。少なくとも、あたしの前での白は、いいヤツじゃん? あたしはその白が嘘だとは思わない。だから、白を信じてるってより、そのあたしの感覚を信じてるかな」
すごいな……。愛歌は心からそう思った。
自分はそうはできない。
「とはいえ、あたしも中学の頃の白を知らないんだよね。本人があんまり話したがらないし。本当は噂通りの奴だったりして」
イタズラっぽく笑いながら言った。
きっと真夏自身はそう思っていないのだろう、ということがよくわかる。
「あんたら二人ってよく似てるよね」
「え」
「頭はいいのに自分自身にだけは不器用なトコ」
急にそんなことを言われて驚いた。
「気になるなら聞いちゃえばいいじゃん、噂のこと。最初は話したがらないかもだけど、どうしても知りたきゃ教えてくれると思うよ。もちろん、心の整理がついてからね」
「うん……、そうだね」
「それまではまあ、あたしがなんとか、適当なこと言って誤魔化しておくよ」
「……ありがとう」
「案外、大したことなかったりしてね」
「うん……」
しかし、愛歌がそのことを白に聞くまで、一週間近くかかってしまうこととなる。その間も雨はまるで世界を閉ざすかのように、毎日のように降り続いていた。




