1. アスフォデルのまともな一日 (3)
その言葉を最後に有栖 あらは、自分のDNIの防火壁をアベルの端末の前に完全に開いた。命をまるごと委ねるという、有栖 あらの無条件の降伏だった。
アベルが旧式キーボードを叩いて脳下垂体麻酔コードを押し込むと、有栖 あらの大きな瞳が徐々に焦点を失って解け、深い眠りの中へと落ちていった。
絹のような黒い髪。白いを通り越して蒼白な肌。疲れているが大きな瞳と通った鼻筋、小さく赤い唇、細い首と華奢な手足——。それだけでアベルの頭を静止させるのに十分だった。
赤く血塗られたワンピースが「この人は危険だ」と叫んでいたが、さっきの戦闘用義体を装着していた時とは違い、無防備で助けを必要としている様子はアベルの心を揺さぶった。
「とりあえず……生かしてみよう。」
アベルはそう内心で呟いて、マスクを装着した。
モニターの画面には有栖 あらのDNIがリアルタイムで送信する心拍数、血圧、酸素飽和度のグラフが、患者監視モニターの代わりとなって張り詰めて走り始めた。
手術は容赦ない速度で始まった。
アベルはまず旧式輸血装置に人工血液パックをかけ、有栖 あらの静脈に太いカテーテルを直接刺した。低血量性貧血を防ぐために手動ポンプを操作し、挿管キットと喉頭鏡を使って気道を確保して、人工呼吸器を接続した。
次は潰れた肺を生かさなければならなかった。アベルは有栖 あらの左胸の呼吸音が完全に消失したことを、肉眼と聴診器で確認した。鎖骨と二番目の肋骨の間の空間を慎重に触れてみて——迷うことなく、14ゲージ穿刺針を有栖 あらの胸に果敢に突き刺した。
〔ピシュッ……!〕
胸の内側に閉じ込められて肺を圧迫していた圧縮空気が、針先を通じて鋭い悲鳴を上げながら噴き出した。潰れていた肺胞がほんの微かに膨らむ信号が、モニターのグラフに捕捉された。
アベルは止まらなかった。仮の減圧が終わるや否や五番目と六番目の肋骨の間をメスで切り、鋭い鋼鉄のトロカールを胸腔の内側へと力強く押し込んだ。
機械的な衝撃に有栖 あらの自動防衛神経系が発作するように体を跳ねさせたが、アベルは体重をかけて彼女の肩を押さえた。
胸腔チューブ(Chest Tube)を深く挿入し、水封式止血吸引器に接続すると、閉じ込められていた血と残留空気が手動ポンプの音とともに不快な泡を立てながら吸い出されていき始めた。
排液瓶を接続したアベルはDNIを参照して、有栖 あらの状態を確認した。当面の大きな問題は見えていなかった。
「ふう……」
荒い息を整えたアベルはすぐに、鎖骨の下の惨たる刺傷部分へと手を移した。肉眼と旧式拡大鏡に頼ってピンセットと鉗子(かんし・Forceps)を動かしながら、裂けた肉片の中から出血点を探った。
アベルは何度も繰り返した機械整備のように、縫合糸を使って破損した鎖骨下動脈の分枝を一本一本手で縛り上げていった。
出血が止まると、外科用ステープラーがカチカチと機械音を立てながら、裂けた有栖 あらの胸の皮膚を細かく綴じていった。
最後は散弾銃の衝撃で痣になった腹部だった。アベルは慣れた手つきで有栖 あらの固くなった下腹部をぐいぐいと押しながら、腹膜刺激の徴候を確認した。
腹腔の内部に大量の血が満ちていると確信すると、彼は迷うことなくメスを取って腹壁の正中線に沿って長く切り下ろした。
厚い腹膜を切開した瞬間、内部の圧力に封じられていた暗黒色の血と巨大な血塊が溢れ出して作業台を濡らした。
アベルは滅菌された止血用ガーゼパッドを腹腔内の四つの区画に隙間なく押し込むガーゼパッキング(Packing)を実施して、一次的な圧迫止血を誘導した。
一時的に出血が和らいだ間、彼は旧式拡大鏡の向こうで、衝撃で裂けて血を噴き出す腸間膜血管を執拗に探し出した。
止血鉗子(しけつかんし・Forceps)で裂けた血管の端をしっかりと掴んだ後、結紮線で粘り強く縛り上げながら内部の隠れた出血点を完全に遮断した。
アベルははんだ用こてのチップの温度を最大限に上げた。メディカルコアギュレーターの綺麗な高周波音の代わりに、ぶうんと唸る武骨なこての熱気が作業場の空気を温めた。
赤く焼けたこての先端が血を噴く腸間膜血管に触れると、ジューッという音と共に蛋白質が焼け焦げる臭いが作業場の中に満ちた。アベルは顔をしかめることなく、煙が立ち上る血管壁を執拗に焼き押さえた。
大出血の急場を乗り越えたアベルはこてを下ろし、素手で有栖 あらの小腸を一本ずつ手繰りながら調べ始めた。衝撃による腸穿孔や壊死がないかを、肉眼で確認しなければならない瞬間だった。
血でぬるぬると滑る臓器を指先でたどっていたそのとき、生臭さと真っ赤な血の視界の向こうから、古い亡霊が忍び込んできた。
「メスはペンのように軽く持つんだよ、アベル。」
耳を刺す幻聴は、肌が粟立つほど澄んで鮮明だった。白く漂白された視界の中で、血の付いたアベルの手の上に、か細い女の手がひとつ重なって見えた。遥か以前に、アベルにこの凄惨な外科的治療と処置法を教えてくれた人だった。
「人の腸間膜は弱くてちょっとした衝撃を受けただけで破れてしまうの。そんな時は慌てずに出血点の根っこから縛るんだよ。分かった?」
過去の彼女はアベルの手を取って、精巧に血管を縛る方法を教えてくれていた。最も温かかったその記憶の欠片が、逆説的にも最も惨い手術台の上で幻影となって、アベルの喉を締め上げてきた。
「痛い……」
「ただ楽にしてよ、アベル。」
有栖 あらが頭に銃を向けた時に聞こえた彼女の遺言が、再び腹部の切開創の上へと降り注いだ。彼女が残してくれた唯一の遺産が、皮肉なことにも今別の女性の腹を裂いて命を繋ぎ止める医学的技術となって、アベルの指先に宿っていた。
「……ふう。」
アベルは目をぎゅっと閉じてから開け、亡霊の手触りを払い落とした。充血した目から乾いた涙が一粒頬を伝って流れたが、彼の手は止まらなかった。悲しむ時間さえ、この地獄では贅沢だった。
壊死した臓器がないことを確認してから、アベルは体温に合わせた生理食塩水を有栖 あらの開いた腹腔の内部へと容赦なく注ぎ込んだ。
溜まった血と汚染物質を手動吸引器で吸い取る大量の腹腔洗浄(せんじょう・Irrigation)が、何度も繰り返された。
萎縮していた臓器が再び膨らむのを見ながら、アベルは無理して腹を完璧に閉じないことに決めた。内部圧力で臓器が止まることを防ぐための、ダメージコントロール手術の原則だった。
アベルは外科用ステープラーを取って、腹壁の皮膚表面だけを緩く固定する仮閉鎖で手術を締めくくった。
そして最後に脳下垂体を制御するホルモン補正カクテルを、彼女の首筋の静脈に直接注射して押し込んだ。
地獄ほど冷酷で武骨な手術が終わると、作業場の中には点滴液がチューブを伝って一定のリズムで落ちる、アナログ的な音だけが残った。アベルは汚染されたガーゼ類とはんだ用こてを片付け、汗と血で塗れた自分の顔を荒く拭った。
有栖 あらのバイタルグラフはついに安定した曲線を描いて、順航していた。アベルは毛布を彼女の体の上へ慎重に掛けてやった。
手術は成功だったが、ベッドの傍らの椅子に力なく腰かけたアベルの肩は、限りなく落ちていた。松明のように燃え上がっていた過去の記憶は、冷たい作業場の夜の空気の中で苦い煙となって散っていた。
「新しい左腕はどう?」
「ははは。調整はうまくいっているみたいだけど、まだ慣れないな……外体を左腕だけに適用させるのが初めてだからかな。」
有栖 あらはぎこちなく笑いながら左手を動かした。拳を握る程度はできるが、指を繊細に動かすのはまだぎこちなかった。
「一旦着いたみたいだけど。なんで来たのか話してくれる?」
アスフォデル南部——本格的な治安空白地域だった。警察署などの治安施設はひとつもない。工事は軒並み中断され、まともな公共施設もない街だった。ただし道路網はよく整備されていて、高さのあるビルが多い。戦略的要衝として機能していた。
「ここから1時の方向にある5階建ての建物。そこにギャングがいるよ。名前は『ビーストヘッド』。そこを掃討する。」
アベルは説明しながら小銃の遊底を引いて薬室を込めた。
[カチャ]
軍用小銃が装填される音が薄気味悪く響いた。しかし誰も萎縮しなかった。
「ふーん。理由を聞いてもいい?」
アベルは少し驚いた。「やりたくない」ではなく、戦闘の理由を先に聞いているから。初めて会った時もそうだったが、戦闘を嫌がっている感じはしなかった。軽く見える振る舞いとは別に、血の匂いに慣れているようだった。
「一つ目は……この程度もできないなら近接戦闘員としては失格だよ。荒っぽいことはできるだけやらない主義だけど、それとは別に戦闘力は確かめておかないといけない。」
「ふーん。アベルの作業場に来た20人くらいはやっつけたみたいだけど。足りない?」
「それは近接戦闘員以前に……それくらいもできなかったらアスフォデルで生き残る資格がないよ。」
少なくともアベルの基準ではそうだった。昼夜を問わず銃声の鳴り響く都市だ。爆発物はかなり出回っていて、計画的に動く強盗が壁を爆発物で吹き飛ばして突入してくることも時々あった。
「二つ目はあのギャング。私に運送の依頼をしておいて代金を払っていないんだよ。もっと舐められたら運送業者の仕事を畳まないといけない。」
「え。それでいいの?」
「戦闘中だから運送だけしてお金を受け取れなかったら、完全に馬鹿にするんだよ。私が情報屋を通して正式にお金くれって言っても、『受け取れない奴が間抜け』って言って馬鹿にしてきたからね。」
どうしてもお金をもらえる状況ではなかったから写真を撮って証拠を残していた。それでもビーストヘッドのギャングは代金の支払い(しはらい)を拒み続け、アベルを馬鹿にし続けた。
「私が一人で行動しているのもあるだろうし、どこかを直接攻撃したこともほとんどないし。馬鹿にするのは当然だよ。財布の事情が深刻なわけじゃないから一人だったら私も無視していただろうし。」
アベルは首を回して有栖 あらを見た。外体も装着していない有栖 あらはかなり小柄な背丈に、黒い髪だった。
「私も時間さえあれば狙撃とゲリラ戦で奴らを崩せるよ。でも危険だし、弾丸と爆薬はタダじゃない。割に合わないからこれまではそうしなかったんだ。」
「ああ。今回は私がいるから?」




