1. アスフォデルのまともな一日 (2)
「そう、そうなんだよ!ちょうどその瞬間に照準線が頭の上に上がらずに下を狙うんだ。」
「当然だよ。これはソフトウェアの問題ではなく、とても基礎的な物理法則のせいだ。銃口が前に突き出されることで重心は瞬時に前に傾く。でもその瞬間、脚に埋め込んだ不法イカロスシステムのジャイロセンサーが体が倒れると思って、下半身を強制的に後ろに引っ張るんだ。
上半身は撃とうとして、下半身は逃げようとする。だから照準点が暴れるのは当然だ。」
「うーん……聞いてみればそうだな。ダンベルを持つだけで脚のモーターが勝手にブンブン唸りながら軸を後ろに捻ってしまう。」
警官はアベルが手渡したダンベルを持ちながら腕を伸ばした。彼の下半身義体が荒々しく作動しながら床を引っ掻く音が、耳を刺激した。脚の重心制御プログラムが正規品でないために、フィードバック数値が過敏に設定されているせいだった。
「一つ目の欠陥。イカロスの不法コピーチップには、上半身の重心移動に対する例外処理コードが欠落している。全部商魂だよ。意図的に欠陥を作らなければ正規パッケージを買わないから。」
警官は役所の蛍光灯の下で、染み付いた苛立たしいため息をついた。容疑者を追いかけて路上で転んでしまわないのは幸いだったが、いざ引き金を引かなければならない場面では脚が邪魔になっていた。
「二つ目の欠陥。これはプログラムを単純に補正しただけでは解決しない。そもそもオルフェウスの上半身とイカロスの下半身はプロトコルが違うから、情報のやり取りができないのが普通なんだよ。
二つの大企業がシステムを混在して使えないように、互換性を意図的にめちゃくちゃにして出荷しているから。」
巡査は再び診断チェアにどさっと座り込んで、ヘルメットを放り投げた。
「やれやれ、えげつない奴らだ。じゃあ原因は分かっても直す方法がないってことじゃないか。これのせいで先週の銃撃戦でも容疑者の脚を取り逃がしたんだよ。」
アベルは汗と油で汚れた左手で、ぼさぼさの頭を掻いた。
「俺が直接組んだカスタムファームウェアをDNI設定下部体系に移植するなら、応急処置くらいはできるかもしれない。」
「え?大企業のセキュリティコードを個人が突き破って同期させるって?」
「3Dモーションキャプチャーであなたの身体駆動モデルをデータ化して、義体制御ハブに強制的に注入する方式だよ。互いにプロトコルが違うなら、共通言語を作って仲介させればいいんだ。
あなた専用の身体モデルが動的にコードを翻訳して両方の義体に送るから、二つのシステムが独立して動いても最終的な挙動は一致するようになる。完璧な解決策じゃないが、戦闘で使えるレベルには持っていけるはずだ。」
「そんなことができるのか……」
「試作段階だよ。あなたが第一号の被験者だ。成功したら請求書は弾む気でいてくれ。」
アベルは乾いた声でそう言いながら、すでにキーボードに指を走らせていた。
診断カプセルが静かに起動し、センサーの束が警官の関節と義体のあちこちに接続された。モーションキャプチャーの点群データが画面を埋め尽くしていく。
アベルはその数字の波を読みながら、二つの敵対するプロトコルの間に挟み込む仲介コードの骨格を組み上げ始めた。
作業場は機械の唸り声と古いキーボードの打鍵音だけで満ちていた。
その時だ。
シャッターが再び鳴った。
アベルは手を止めずに外部カメラを確認した。画面に映ったのは……誰もいない路地だった。
「?」
風でも当たったのか。アベルはそう思って視線を戻そうとしたが、カメラのフレームの端に何かが映った。倒れた人間だった。
「……」
アベルは警官に視線を向けた。
「俺は関係ない。行っていいぞ。」
警官はすでに状況を察して、診断チェアから体を引き剥がしながら言った。アベルはため息をついてシャッターを上げた。
転がり込んできたのは若い女だった。
右腕だけを引きずりながら這ってきた女の左腕は……存在しなかった。肩の継ぎ目に残るコネクタのソケットが、かつてそこに義体があったことを示していた。体の各所を覆っていた銀白色の装甲は砕けてはがれ落ち、残った破片がぱちぱちとスパークを散らしていた。
顔を覆っていたらしい機材も外れかけて、床を引っ掻いていた。その下から現れたのは、漆黒の髪と、白いを通り越して蒼白な肌と、ひどく大きな目だった。
全身が赤く染まっていた。
「……助けて。」
かすれた声だった。祈るでもなく、命乞いをするでもなく。ただ事実を告げるように。
アベルは少しの間だけ女を見下ろしていた。警官は無言で作業場の奥に引っ込んでいた。
「入れ。」
アベルは踵を返してキーボードに向かった。
女は這ったまま中に入ってきた。シャッターが下りた。
アベルはモニターから視線を上げずに言った。
「名前は?」
「……有栖 あら(アリス・アラ)。」
「どこからやられた?」
「……色々と。」
短い答えだった。アベルはため息をついて椅子を回し、女の体を確認した。DNIの診断プログラムを走らせようとしたが、女のDNIには軍用規格の暗号化が施されていて、アベルのシステムでは弾かれた。
「DNIの診断が通らない。直接見る。動くな。」
アベルは医療キットを引き出しながら、女の体に手をかけた。
女……有栖 あらは抵抗しなかった。ただその大きな目でアベルを見上げているだけだった。
その目の中に、白い部屋が映っているような気がして、アベルは一瞬手を止めた。
気のせいだ。
アベルは作業を続けた。
有栖 あらの意識が明確に戻るまでには、少し時間がかかった。
体中を覆っていた義体の破片が作業場の隅の鉄箱に放り込まれていた。銀白色の腕と体の各所を覆っていた義体たちは、あちこちにスパークを散らし、歯車が噛み合う音を立てていた。まるで自我を持っているように。
アベルは銃を手にした有栖 あらを止めた。
「銃を捨てろ。そんな真似はするなって!」
アベルは叫んだ。有栖 あらを捨てるという合理的な判断より、彼の耳を刺す過去の亡霊たちの方が重かったせいだ。
「痛い……」
以前の記憶なのか、それともトラウマの発現なのか、アベルの鼓膜を貫いて他人の悲鳴が混じり込んできた。
「ただ楽にしてよ、アベル。あなたもそっちの方がずっと合理的だと思ってるじゃない?」
「やめろ……」
「私があなたを守れなかったんだから、最後の始末はあなたの手で……」
「やめろって、くそ!」
アベルは叫びながら目を閉じた。作業場の壁に頭を打ちつけながら息を荒くすると、耳鳴りが嘘のように消えた。拳銃を持つ有栖 あらの手を押しやったアベルの手は、冷や汗でびっしょりと濡れていた。
「え……なんでそんなに怒るの?」
有栖 あらは戸惑いながら銃口を下げて、アベルの顔を見上げた。怒る彼の瞳の奥に、深い悲しみを読み取ったから。
「大丈夫?汗が多すぎるけど……」
彼女は無事な右手を伸ばしてアベルの額を拭ってやろうとして止まった。手には冷たい拳銃が握られていて、もう一方の左腕は存在しなかったから。銃口で人の顔を拭うわけにはいかないので、彼女は難しそうに笑うだけだった。
「……もう俺を揺さぶるな。静かに出て行け。」
アベルは落ち着くと、有栖 あらを鉄の扉の壁に寄りかけた。彼の腕はまだ亡霊の重さに耐えられずに、ガタガタと震えていた。
「うん。分かった。どうせこの脚で出て行ったって路上で低体温症で凍え死ぬか、清掃人に臓器を抜かれるかするから、わざわざ苦労する必要はないか。鉄の扉に血を飛ばしてごめん、家主さん。」
有栖 あらは銃口を右のこめかみに押し当てた。そして目を閉じた。長い睫毛の間から透明な涙が一粒、頬を伝って流れた。引き金を引く指に、力が入った。
〔バン!〕
作業場の冷たい空気を切り裂いて火薬音が鳴り響いた。
〔カランカラン……〕
空になった真鍮の薬莢が粗い金属音を立てながら、床を転がった。
「……なぜ?」
目を閉じて死を待っていた有栖 あらが、しばらく後に目を開けながら聞いた。自分のこめかみではなく、コンクリートの天井に穴が開いていたから。アベルは血の流れる手で、彼女の拳銃の銃口を強引に押しのけていた。
彼の顔は、世界のすべての罪悪と悲しみをひとりで背負った者のように、痛ましく歪んでいた。
「……分からない。」
男は押し潰された声で拳銃を奪って床に投げ捨てた。
アベルは冷たい鉄を捨てた。そして温もりを抱き寄せた。
診断プログラムの演算が終わると同時に、アベルの旧式モニターの上に真っ赤な警告灯が滝のように溢れ出した。DNIと内蔵義体チップが吐き出す生体テレメトリーデータは、有栖 あらという脆い生身の体が今どんな地獄を耐えているのかを、リアルタイムで証明していた。
至近距離で散弾銃を防弾義体の上から食らった腹部は、鈍的外傷による腹部内出血が始まって固く固まりつつあった。鎖骨の下部は鋭い刃物に深く刺されて、破損した回路と血管が絡み合っていた。
最も深刻なのは左の胸腔だった。刺し傷を通じて空気が流入し、肺を圧迫する緊張性気胸(きんちょうせいきょう・Tension Pneumothorax)の状態だった。ホルモンバランスはとうに崩れ、体温は低体温症の一線である35度近くへと急落していた。
DNIも義体もない純粋な生身の人間であるアベルが対処するには、ひどく重くて荒々しい外科手術になるだろう。
アベルは1階の作業台周りにある旧式ハロゲン温熱ランプを全て点けて、有栖 あらの裸身の上へと照射した。オレンジ色の熱気が冷たい肌の上へと広がったが、彼女の青白い唇はまだ微かに震えていた。
アベルがメスと14ゲージ穿刺針、そして鈍いトロカールを卓上に並べると、有栖 あらは眠そうに落ちた眼差しでその武器のような医療器具を見上げた。
「……手術の途中で死んでも俺を恨まないと約束してくれ。」
アベルが滅菌手袋を引き締めながら、乾いた声で言った。DNIリンクを使えないアベルは、自分の手技と目だけに頼らなければならなかった。麻酔でさえ、彼女の脳内DNIシステムに迂回命令語を直接入力して強制的に作動させなければならない状況だった。
有栖 あらはぷるぷると震える右手を伸ばして、アベルの服の襟をそっと掴んで、また放した。そして地獄ほど穏やかな微笑みを浮かべた。
「あなたの手で死ぬなら歓迎よ。」




