2. 蝶(ちょう)と自由(じゆう) (21)
蝶と自由 (21)
〔準備中でした。ご心配なく。〕
「了解。」
アベルはその言葉に、端末の操作ボタンから手を離す。
そして片手で——拳銃を構えた。
〔ドカン!〕
デッカードが迫撃砲に射撃コードを入力する。
直後、車がガクンと揺れた。
地面から2mの地点で展開される煙幕弾。
それは効果的に視界を遮断した。
道路を封鎖していたギャングたち。
彼らは突如の攻撃に驚き、慌てふためき始める。
アベルは左手に拳銃を握る。
そのまま、窓の外へと突き出した。
この状態での射撃は——見ずに撃つのも同然。
アベルの長所である精密射撃は、ここでは無意味だ。
むやみに撃ちまくるしかない。
敵を遮蔽物の後ろへと追いやる——それがせいぜいだろう。
〔ウイルス浸透……完了しました!〕
屋上から狙いをつけていた敵たち。
彼らは突然慌てて銃を下ろす。
そして、目をこすり始めた。
ウイルス——その効果の現れだった。
「よくやった。それでも簡単にはいかないだろうがな。」
道路脇、両側の団地。
それはギャングの所有物だった。
ナビゲーションに見える赤い建物。
画面の北側にいくつか並んでいる。
少なくとも四つの建物——
そこからこちらへ、集中射撃をしてくるだろう。
〔煙幕を展開する前のデータに基づいて、予想される障害物をフロントガラスに表示します。〕
「了解。透明度は50%で。」
フロントガラスの下部から放たれる光。
それは疑似的なホログラムを作り出す。
予想通りだ。
急造の障害物や鉄筋の構造物。
それらが道路をまばらに埋め尽くしていた。
アベルは歯を食い縛る。
ギアを下げたまま、低速での走行。
障害物を巧に避けながら進み始める。
それでも幸いだった。
敵も、完全に道路を塞ぐことまではできていない。
周囲で鳴り響く大きな轟音。
今まさに連絡を受けたのだろう。
急いで道路を封鎖している——その最中らしかった。
〔ターン!〕
「チッ!」
予想通り。
デッカードとて、全ての眼球をハッキングすることは不可能だ。
一発の銃弾——
それがトラックの窓にぶつかる。
蜘蛛の巣のような亀裂が残された。
もちろん、たかが一発。
クルックスが怪我を負うことはなかったが。
「おお。防弾ガラスって思っていたより頑丈なんだな。大口径の弾丸も防げるし。」
有栖あらが助手席の窓をそっと撫でる。
そして、小さく呟いた。
弾丸が撃ち込まれた箇所——そこは深く凹んでいる。
車の内側から触れても、熱を持っているほどだった。
凄まじい運動量の物体。
それを無理やり受け止めたのだ。
熱を帯びるのも——当然と言えた。
「高価な代物だからな。」
アベルは顔をしかめ、そう呟く。
冗談ではない。
窓や防弾装備——それに費やした金額は莫大だった。
普段なら、決して使わない代物。
だが、今回の仕事のためだ。
予備の装備まで——根こそぎ持ち出してきたのだから。
道路に出ている障害物。
その数が次第に増え始める。
アベルがハンドルを切る角度——
それも徐々(じょじょ)に、急になっていた。
「あ。機関銃だ。小口径だね?」
有栖あらはそれを見る。
素早く車の窓を上げた。
〔タタタタッ!〕
結局、小口径の機関銃。
それが車を激しく叩き始めた。
車の内部に響く音。
まるでポップコーンが弾けるような軽快さだ。
銃弾がガラス窓とフレームを穿つ。
無数の、蜘蛛の巣のような亀裂。
それでも——救いはあった。
454弾を使う重機関銃がないことだけが。
〔ピン!〕
「うわあああっ!」
防弾板の隙間。
そこから、一発の銃弾が飛び込んでくる。
耳元を掠める鋭い飛翔音。
一瞬にして、総身に鳥肌が立った。
「気をつけろ!」
それでも、アベルの予想よりはずっとマシだ。
車のフロントガラス——
まだ十分に、視界の確保が可能なレベル。
どの窓も、完全には割れていない。
集中砲火を受ければ、10秒も持たない。
そう思っていた。
だが、デッカードのハッキングと煙幕弾。
これが大いに役立っていた。
〔ターン!〕
ついに——
アベルの拳銃が、窓越しに火を噴く。
「ぐああっ!」
コンテナの上からの射撃手。
その肩に、的確に銃弾が撃ち込まれた。
一方、助手席方向の軽機関銃。
弾倉の交換中か——射撃が途切れている。
その隙を見逃さない。
有栖あらは短機関銃を突き出す。
単発に切り替え、正確に射撃した。
「ああっ、クソッ!」
ギャングが占拠する領域——その中間地点。
アベルは悪態を突き、急ブレーキを踏んだ。
デッカードのホログラムには映っていない代物。
巨大な障害物が、道路の真ん中を塞いでいた。
煙幕弾が広がった後——
突如として飛び出してきた障害物だった。
——後退は、駄目だ。
そんなものは正気の沙汰じゃない。
周囲を完全に埋め尽くす敵たち。
このままの突破も——極めて困難だ。
敵陣のど真ん中での立ち往生。
あるいは、完全な包囲。
そうなれば——すべてが終わりだ。
ウイルスを浸透させたのは良い。
だが、効果が永遠に持続するはずもない。
いくら絶大な効果があろうと。
義体を初期化してしまえば、それで解決する。
せいぜい、あと二——三分。
それが限界だろう。
「有栖あら、あれ、外部義体で……」
「押してみる!」
アベルの指示を待つまでもない。
有栖あらは散弾銃を手にする。
そのままドアを蹴り開け——外へと飛び出した。
濃密な煙幕の中。
正確な照準射撃など意味を成さない。
適当にぶっ放す散弾銃——それが最も効果的だった。
「うううううっ!」
しかし、クルックスは違う。
こんな地獄のような状況——彼には初めてだった。
歯を食い縛り、両手を強く握りしめる。
まるで祈るような姿勢。
だが、皆が知っている。
こんな時にすがる事ができる神——
そんなものは、どこにもいないと。
アベルはその姿を横目に見る。
そして、クルックスの胸倉を掴んで引き寄せた。
初めての銃撃戦——
完全にパニックに陥った顔。
それが、アベルの鼻先に迫る。
「しっかりしろ! 助手席方向から近づいてくる敵を撃て!」
「僕が?!」
「じゃあ誰が撃つんだ?! 俺は運転しなきゃならないし、助手席方向は同時に見られないんだぞ!」
「うわああああっ!」
クルックスは絶望的な状況に叫び声を上げる。
もはや、完全なパニック状態だった。
〔ターン、ターン!〕
アベルは煙幕の内部を凝視する。
白っぽく浮かび上がる人影。
そこへ向けて、容赦なく射撃した。
有栖あらは目と鼻の先。
そこでコンテナを押しているのだ。
誤射するはずなど——万に一つもなかった。
「うわあああっ! クソッ! 僕を安全に都市の外に連れ出してくれると思っていたのに!」
クルックスは思い切り叫び続ける。
助手席の窓の外へ——無我夢中で拳銃を撃ちまくった。
すでに助手席の窓。
あまりにも多くの銃弾を食らっている。
開閉機能など、とうに作動しない。
それでも——上部に僅かな隙間があった。
銃口を突っ込んで撃つ。
そのくらいなら、かろうじて可能だった。
「元々(もともと)人生なんてそんなもんだ!」
アベルは慣れた手つきで拳銃を構える。
運転席の窓越しに、引き金を引いた。
煙幕の中へ近づこうとする敵たち。
彼らは飛んでくる銃弾に驚き——
慌てて後ろへと飛び退る。
「自分の人生を変えたいなら、少しでもマシにしたいなら! 自分自身で努力して動くしかないんだ! 周りの人間は手助けするだけだ!」
「それでも、僕はお金を払ったじゃないか!」
「金がたくさんあるからって、あんたが後部座席でボーッとしていても連れ出してやれるくらいなら、とうに脱出しているはずだろう! 違うか?!」
アベルの言う通りだった。
何度も試し——そして、一度も成功しなかったのだから。
クルックスも助けてくれとは言った。
だが、安全かつ簡単に抜け出せるなど——
心の底では、思っていなかったのだ。




