2. 蝶(ちょう)と自由(じゆう) (22)
蝶と自由 (22)
「それに『助けてくれ』と言ったよな? 事の主体はあんただ。俺たちはあんたに足りない部分を手伝うだけだ!」
お金を払いはしたが、クルックスは確かに『助けてくれ』と言った。
クルックスが全てをこなせる二人を雇ったわけではない。
アベルと有栖あら。
彼らがクルックスを手伝っているのだ。
「じっと座っているだけで手に入るものなんてない! 祈る手で銃を握れ!」
弾倉を交換しながらアベルの言葉を聞くクルックス。
そして、自分の手を暫く見つめた——。
何もしてこなかった手。
何かを握ったり、振り回したりしたこともない。
傷一つない、綺麗な手——。
'お前は何もしなかったじゃないか。'
白くて綺麗な手が、そう叫んでいるようだった。
クルックスは初めて、自分の手を恥ずかしく思った。
歯を食い縛る。
片手で拳銃を握る。
そして——窓の隙間へと突っ込んだ。
〔ターン! タンタンタン!〕
クルックスの射撃は、見栄えが悪かった。
しかし、それだけでも敵たちは引き下がる。
煙幕が広がる場所——。
標的の位置がわからず、とりあえず身を引いたのだ。
これまで、クルックスの手は綺麗だった。
監視がつき、被害者が出ても——。
自分の手で、直接誰かを傷つけることはなかった。
犯罪の隠蔽。被害者の量産。人の命を奪う事。
全て同じであるにも関わらず。
一度も銃を持ち、抵抗しなかったのだ。
'やろうと思えばできた。'
記憶修正師——。
それは、相手のDNIへ勝手にアクセスする者。
それができなければ、記憶の修正も、覗き見ることも不可能だ。
先天的にDNI防御を無力化するか。
あるいはソフトウェアで防壁を破壊するか。
「うっ?!」
トラックの裏側。
近づいてきた敵が、突然頭を抱え込む。
直後、手と足があり得ない方向へと折れ曲がった。
DNIへの過負荷——。
義体の操作が狂ったのだ。
「ぐわあああっ!」
当然、敵は悲鳴を上げる。
そして、道端に倒れ込んだ——。
「うわ……痛そうだな?」
『よくやった』。
そう言わんばかりに、アベルが親指を立てて見せる。
クルックスは『両方』だった。
近づくだけで、DNIの信号を感知できる能力。
そして、記憶修正で得た莫大な財産。
それらを利用し、DNIを無力化する方法を探して操作したのだ。
「銃よりはマシだろう! 9時の方向に敵!」
クルックスの言葉。
それを聞くや否や、アベルは小銃を構えた。
〔ターン!〕
照準線の先。
そこにいた敵の頭が、瞬く間に消え去る——。
アベルはクルックスの状態を窺う。
毒気を帯びたような表情——。
今までの自分への怒りか。
それとも、群がる敵への怒りか。
どちらかは、分からない。
『そうだな。逃げる者の表情はそうであってこそだ。』
好む現実から逃げる者などいない。
だからこそ、逃亡者の顔は悪に染まる。
悪鬼のような表情でなければならない。
できる全てを注ぎ込む。
道徳的な善も信念も、気にしてはならない。
ただ——逃げることだけに集中するのだ。
『地獄から逃げ出すのだから。』
ここは、アスフォデルが満開に咲き誇る地獄。
この地獄の全てと戦い、打ち勝つ。
そして地上へと戻るためには——。
それ相応の覚悟が不可欠だ。
[ドンッ!]
「うあああああ!」
車の外。
有栖あらが死力を尽くし、20(にじゅう)フィートコンテナの角を押していた。
空の時でも、重量は約3(さん)トン。
しかし彼女の外部義体は、そのあり得ない重量を——。
ゆっくりと、確実に押しのけていた。
アベルは最初からハンドルから手を放していた。
小銃を外へ向け、精密射撃を行う。
煙幕による視界の制限は、敵も同じこと。
むしろ、こちらは防弾車両という遮蔽物がある。
遥かに安定的な状況だった——。
[ギギギギギッ……]
アスファルトを擦る、甲高い音。
20(にじゅう)フィートコンテナが、ゆっくりと押し出されていく。
悪に染まり、涙を流しながら銃を撃つクルックス。
アベルもまた、敵へと小銃の引き金を引く——。
「ふぅぅぅっ!」
有栖あらが、再びコンテナに取り付く。
[ズズズズッ……]
「行くぞ!」
結局、有栖あらは自らの手で道を切り拓いた。
焦点は合わず、手足はガタガタと震えている。
それでも再び助手席に座り、アベルを見つめて笑った。
アベルは無言のまま、ゆっくりと車を走らせ始める——。
「私は……この都市を出て行くと決めたの! 何があっても!」
その唐突な言葉。
アベルはニヤリと笑ってみせた。
荷物のように、後部座席で受動的だったクルックス。
その姿が今、確実に変わりつつある。
全ては——アベルが計画した通りに。
「抜け出すぞ! 有栖あら、煙幕弾を窓の外に投げろ!」
アベルの指示。
有栖あらが煙幕弾のピンを抜く。
そして——窓の外へと投げ放った。
「お前の散弾銃は?」
「え? 見当たらなかったけど?」
「すぐ目の前に落ちていた……いや、いい。気にするな。」
有栖あらの目の焦点が合っていない。
瞳孔は最大限に拡大し、虚ろな瞳を浮かべている。
ともかく、今は脱出が最優先——。
看病はその後だ。アベルはそう決断した。
あちこちに穴が空き、亀裂の走る車体。
エンジンの出力は落ち、一部の操作部は作動しない。
特に窓ガラスは酷かった。
幾重にも蜘蛛の巣を被った獲物のように、白く染まっている——。
涙を流しながらも、前へ進むクルックス。
追手がどれほど多かろうと。
どれほどすぐ背後に迫っていようと——。
蜘蛛の巣の繭を脱ぎ捨てる蝶。
ひたすらに前へと前進する。
だが——。
未だ、蜘蛛の巣から完全には抜け出せていなかった。
「ここはなぜ来たの?」
窓越しに見える、無人モーテルの看板。
クルックスは困惑を隠せなかった。
ついさっき、都市を抜け出したばかりだ。
一体、どこへ行くつもりなのか——。
「必要だからだ。」
短く答えるアベル。
武器を整え、車のエンジンを切る。
そして、助手席の後ろの引き出しへ手を伸ばす。
取り出されたのは——分厚い鞄だった。
「デッカード。都市脱出計画の中からE状況を確認しろ。」
[はい。負傷者及び再整備のための臨時プラン、確認しました。]
「そこでの電子装備確保及びハッキングがお前の役割だ。やれるか?」
[努力してみます。内部網に接続だけさせてください。]
「了解。」
アベルが鞄を開ける。
中から出てきたのは、キーボードとモニターだった。
クルックスは無言のまま——アベルをじっと見つめた。
「これは何?」
「ノートパソコン……というものだ。携帯用端末のようなものだな。」
説明をしながら、深くため息をつくアベル。
これを説明しなければならない状況。
それ自体が、哀しいとでも言うように——。
「クルックス。これだけ持ってくれ。残りは部屋に上がってから……」
「あんたの頭の中にはセックスしかないの!?」
その言葉に、アベルは歯を食い縛る。
ギリッと堪え、怒りを押し殺した。
今すぐクルックスを殴り飛ばしたい。
だが、下手に殴ればクルックスは死ぬ。
死体だけが都市の外へ出て行くことになりそうだ。
それほどまでに——激しく腹を立てていた。




