2. 蝶(ちょう)と自由(じゆう) (15)
蝶と自由 (15)
クルックスは首を横に振った。
ピュアリストは義体とDNIを拒否する集い——。
終には宗教集団へと昇華された存在。
もしアベルがそこに所属しているなら、DNIに対する疑問は解ける。
しかし、彼は義体を整備して生きている。
ピュアリストではないだろう。
「そうなんだ。分かった。それに私の記憶は……分かってると思うけど、他の人たちに言うのは駄目だからね。分かってる?」
「分かってるわ。そのことは心配しないで。絶対に言わないから。」
心から悔い改める態度。
それに有栖あらは頷き、屋上の扉へと向かった。
「ふぅ……そうね。私も仕事を引き受けたんだから、これ以上は怒らないわ。一緒にこの都市から出てみましょう。」
有栖あらはそう言って、屋上を降りていった。
クルックスはありがとうと言おうとした。
だが、既に聞こえないだろうと思い、やめた。
【……】
屋上は静かだった。
だからこそ、風が擦れる音の一つ一つ。
それが、そのまま手に取るように聞こえた。
「はぁ……」
そこに一人立ち、公害に満ちた空気を肺に吸い込む。
胸に感じる痛み——。
公害のせいなのか、それとも他のことのせいなのか分からなかった。
クルックスは、こんな平和で静かな風景を久しぶりに見た。
監視と脅迫を避けるため、あらゆる方法で逃げ回るのに忙しかった日々(ひび)——。
こんな風に、のんびりと周りを見る事はなかった。
まばらに点いている街灯の下に見える川。
公害のせいで、ほとんど見えない夜空。
たとえ、そんな風景であっても。
「蝶は羽を失って這い回り、干からびて死ぬのが良いのかな?」
人間は金がなければ生きていけない。
しかし、積み上げられた金は、クルックスが犯した罪の重さと同じだ。
だから……生きていく度、罪に押し潰されそうになった。
クルックスは何度も逃走を試みた。
最初は当然、陸路で車に乗って他の都市へ行こうとした。
しかし、人を集める過程で裏切り者が混ざっていた。
20名を超える人を求めること自体、大きな問題だったのだ。
次は海を利用した密航。
しかし船長が海上で無線を受け取り、最初の港に戻って来た。
あるいは海上警察や国境守備隊に捕まり、再び戻って来ることになった。
飛行機は手続きの段階で搭乗を拒否された。
地下を利用した移動は、道案内を求める時点で妨害が入った。
何よりも、地下は安全を保証できなかった。
『こんにちは。今日から安全の責任を負うことになった……』
逃げる度に監視は次第に厳しくなった。
結局、クルックスの家の奥間にまで、背広を着た者たちが入り込む始末——。
'安心してください、病院です。'
何度かの自殺の試みの末。
クルックスは、自身の望む時に死ぬことさえできなくなった。
あらゆる方法で死のうとしても、誰かが三十秒も経たずに救急車を呼ぶのだから。
結局のところ、個人としての生活は無くなった。
毎日の予定を管理するのは、背広姿の監視員たち——。
他の人が呼んだ時に出向き、記憶を修正する道具と化したのだ。
その度にクルックスを支えてくれるもの。
それは記憶の片隅に辛うじて残っている、他の誰かの笑う姿だった。
'感謝いたします、先生!'
犯罪に関わる仕事であれば、クルックスと会った記憶までも消さなければならない。
それ自体が証拠になり得るからだ。
しかし、治療のために記憶を修正する時には、そんな制約はなかった。
麻酔無しで眼球の手術を受けた記憶を消してあげた。
戦争のPTSDに苦しむ傷痍軍人の助けになった。
幼年時代の虐待を覆い隠してあげた。
記憶は消されても、修正を受ける人たちはその感情をノートに書いた。
そこには『クルックス先生』と記された。
「それとも、優雅なまま蜘蛛の巣に引っ掛かって剥製にされる方がマシなのだろうか?」
一番最初に犯罪に関わったのは、クルックスの意志ではない。
[カチャッ]
あの時、こめかみに触れた拳銃の感触——。
一生忘れられないだろう。
クルックスはいっそ死のうとした。
犯罪の記憶を消せば、確実に被害者が生まれる。
自分が助かりたいがため、一人の無実の人生を泥沼に投げ捨てるような真似はできなかった。
'なら、これはどうだ?'
クルックスではなく、他の人へと銃口が向けられた。
銃口の先には、クルックスが助けた子供が震えていた。
それだけは耐えられなかった。
結局、その状態で捜査機関の記憶探索機を避けられるように記憶を修正した。
成功はしたが……。
'また会おう。'
その事件を起点として、クルックスにはギャングの監視が付いた。
'凄いですね。次もよろしくお願いいたします。'
ギャングが掃討され、空中分解したのち。
今度は法曹界の公務員が脅迫してきた。
検事の不法行為が発覚しないよう、記憶を修正せねばならなかった。
'おかげで助かりました。'
それからは弁護士、検事、判事といった法曹界を中心に噂が広まった。
副作用もなく、本当に完璧な腕を持つ記憶修正師がいる、と。
'議員様が準備された贈り物です。'
それに続き、政府の下院議員、上院議員を含めた高位公務員たち。
彼らもクルックスを訪ねてきた。
多くの人々(ひとびと)の中で、心から罪を悔い改める者は誰一人としていなかった。
記憶を修正し、捜査網を逃れることしか考えていなかったのだ。
そして多くの人と会うほど、クルックスが有名になるほど、監視網は次第に細かくなっていった。
ギャング組織、省庁、政府の監視。
米国の下院議員、上院議員を越え、長官級の要人たちまでがクルックスに監視を付けた。
さらに今では、天文学的な金額を投じている。
人工衛星の観測優先権まで確保していた。
一般の民間人やギャングが手に入れられるのは、撮影後から数時間。
長ければ数日が経った一等級の資料だけだった。
しかし高位公務員たちは違う。
特定地域を優先して探れる、二等級の観測権限を共同で持ち出して使った。
衛星がクルックスの顔を直接見分けるわけではない。
居住地と出入りの車両、熱源と移動経路を定期的に絞り込む。
その後、地上のCCTVとDNIの接続記録、監視人員が身元を確認する。
建物や地下では見逃すことがあっても、道路に出れば遅くとも二時間以内。
たちまち候補の車両が引っ掛かった。
'記憶してください。私たちが毎瞬間、貴方を見ているという意味ではありません。しかし道路に姿を現せば、二時間以内に候補を絞り、地上の人員が確認するでしょう。'
もはや監視網は蜘蛛の巣と同じ——。
クルックスが足掻くほど、息の根を締め付けてきた。
蝶が蜘蛛の巣に捕えられた瞬間だった。




