2. 蝶(ちょう)と自由(じゆう) (14)
蝶と自由 (14)
「さっき私が住んでいた家の壁が崩れたじゃない。それに私を監視していた人たちも根扱ぎ死んだわ。もう私が外部勢力を引き入れて脱出しようとしていると見做すはずよ。」
アベルは呆れ返った。
日が昇れば追跡が遥かに容易になり、一般の人々(ひとびと)も出歩(であ歩)き始める。
だから日が暮れている間に都市を脱出しなければならないということだが——。
果たして、それが物理的に可能なのだろうか?
「監視人員たちの生体信号と定期報告が一気に途絶えたの。今、私を追って来ないのも、現場の監視体系が一瞬にして崩れ去ったからでしょうね。でも、既に政府の管制網に優先観測の要請が入っているはずよ。観測の機会さえ掴めれば、遅くとも二時間以内には私の乗った車両の候補を絞り込めるわ。」
クルックスは深くため息を吐き、首を横に振った。
ともかく、この状態で戦闘をしながら都市を抜け出すなど。
——狂気の沙汰に近い。
場所や敵を特定することもできないまま、時間に追われる状況。
アベルは依頼の放棄すら考えた。
「それに、明日は新しい被害者が出るわ。」
「被害者?」
「明日の午前9時に……犯罪記憶を消さなきゃいけないの。特殊強盗殺人及び死体遺棄、ペットの殺害よ。
助けて。私は絶対にこの生活から抜け出したいの。」
有栖あらは難しそうに頷いた。
状況は、思ったよりも深刻。
「ふぅ……」
アベルはため息を吐きながら悩んだ。
仕事は諦めるのが正解だろう。
難易度が途方もなく高い。
いくら報酬が魅力的でも、命は一つしかないのだ。
——しかし、アベルは以前約束をした。
それに今、クルックスを帰して被害者がさらに生じれば。
それはアベルの責任でもある。
人を都市の外に避難させた経験も何度かある。
こういう仕事をするからこそ、アベルは運送業者なのだ。
『冷静に悩んでみよう……』
アベルは首を思い切り上げ、目をぎゅっと瞑った。
そして、これまで立てておいた多くの計画と戦略の整理。
やるべきではない理由は山積み。
しかし、やるだけの理由も数え切れないほどある。
『政府の要員。』
監視人員の報告が途絶えた瞬間。
政府の要員たちは、管制網に優先観測を要請したはずだ。
衛星が道路上の車両候補を絞り込む。
すると地上の監視網が身元を確認し、都市内部から攻撃してくるだろう。
——だが、都市内部なら。
ギャング団との摩擦を避けるため、火力が制限される。
デッカードがトラックの重機関銃と迫撃砲を使用可能。
都市内部なら、火力支援を頼める人たちも何人かいる。
相手にできる。
『ギャング団。』
連絡を受けた途端に陣地を構築。
射程圏内に入れば、攻撃し始めるだろう。
恐らくは都市の境界や廃墟地域での追撃。
ギャング団ごとに訓練の程度と火力の差は極端だ。
弱体組織を捕え、カウンターを食らわせる戦略。
それを持っていけば、十分に可能性はある。
『廃墟の点組織。』
互いにどこに誰がいるのかも分からない状態。
連帯感など欠片もない連中だ。
まともに連携できるはずがない。
——しかし、一番厄介な相手になるだろう。
この集団を相手にする時は。
むしろ、アベルが点組織の陣地を突破しなければならないからだ。
車に乗って要塞を攻略するほどの難易度。
それでもアベルは何度も彼らを突破した。
そして目的地まで、依頼人を運送したのだ。
『可能ではある。』
容易ではないだろう。しかし可能ではある。
そこに有栖あらもいる。
一人の時よりはマシだろう。
『いつか……よろしくお願いします。』
最後に楔を打ち込んだのは。
古い記憶の中の、一人の子供だった。
アベルは顔をしかめて深呼吸をし、再び目を開けた。
「分かった。とりあえず休め。経路が出てから出発するのは同じだからな。仮眠でも取れ。」
アベルは、辛うじてズキズキと痛む頭を抱えて言った。
結局。
仕事を引き受けることに決定したのだ。
「眠るのは無理そうだし……少し休むだけでもするわ。」
有栖あらはクルックスを案内した。
塞がっている所よりは、少しでも開けた場所が良い。
そう思い、クルックスは屋上へ向かった。
有栖あらは、あからさまに機嫌が悪い素振り。
そのまま屋上への案内。
「何かあったらすぐに呼んで。今度は脅迫しないでね。」
感情がまだ完全に解れていない有栖あらの刺々(とげとげ)しい言葉。
川辺から吹いてくる風が少し冷たかった。
「あの、有栖あら。」
「ん?」
「本当にごめんなさい。私は……人と対話する方法を忘れてしまったみたい。」
有栖あらは大きく息を吸い込んでから吐き出した。
自分よりもずっと年上のクルックス。
彼女は戸惑っていた。
「私の記憶を見たなら分かるでしょ。私がそういう所にどれだけいたか。どれだけ酷く嫌がっているかも。」
「本当に悪かったわ。空間が適当じゃなかったからっていうのも言い訳よね。そもそも頼み事があるなら、正直に打ち明けて頼むべきだった。ごめんなさい。」
それでも、悪い人ではないという気がした。
クルックスは深く頭を下げる。
腰まで折って、有栖あらに謝罪をしたのだから。
「それでも片面が暗いガラスになっていたから耐えられたのよ。外部義体まである状態で正気を失っていたら、ミンチにしてただろうね。」
「分かってる……私が本当に悪かったわ。」
有栖あらはため息を吐く。
クルックスの肩を掴んで起こした。
そして、軽く拳を握って頭を小突く。
「二度と私にそんなことしないで。」
これで許してあげるということか。
有栖あらはクルックスを軽く抱き締めた。
腹部に拳を叩き込みたいという気は少し起きたが——。
一撃で無力化できる位置が、いくつか思い浮かんだ。
「うん……」
「あ、もしかしてアベルの記憶も見た?」
有栖あらが純粋な好奇心で尋ねる。
ところが、クルックスは小首を傾げた。
「あの人、DNIを持ってるの? 全く接続できなかったんだけど? ピュアリスト(Purist、純粋主義者)かと思ったわ。」
「DNIはあるんじゃない? 多分?」
ふと、そんな考えが浮かんだ。
アベルがDNIを使用する光景。
それは一度も見たことがなかった。
彼はいつも、キーボードとマウス、モニターを使用していた。
「DNIがあるから……整備をするんじゃない?」
しかし、DNIを使ったこともないのに、使用感を知ることは可能なのだろうか?
義体を使ったことがなければ。
正確なオーダーメイド型のソフトウェア作成など不可能だろう。
今まさに有栖あらだって、DNIを調整してホルモンを調節している。
その全ての作業はアベルが一人で——。
自ら作ったプログラムと端末機で進行したのだ。
とにかく、DNIが全くないというのは理屈に合わない。
足がない人が靴を作るのと、似たような状況なのだから。
「確かに、ピュアリストなら義体整備なんてするはずがないわよね。とにかく、私が接続できる記憶は一つもなかったわ。」




