2. 蝶(ちょう)と自由(じゆう) (12)
蝶と自由 (12)
「仕事の前だから短く頼む。殴るなら、少し手加減してくれ」
「今、私たちって急ぐ状況かな?」
後ろからアベルに尋ねる有栖あら。
『何をどれだけ殴ろうとして、急いでいるかから訊いているのか?』
少し心配になった。
ここで負傷すれば、依頼は確実に不可能になる。
それに、外部義体を装着した有栖あらの腕力——コンクリートをも砕くほどの力。
アベルには、それに耐え抜く自信がなかった。
「それなりに。依頼を受けるなら、日が昇る前に闇の中で動く方が遥かに有利だからな。六時五十分くらいが日の出だから、あと五時間くらい残っていると思うべきだ。お前が監視員たちを皆ぶちのめしてくれたお陰で、時間はまだあるみたいだが……」
アベルはひとまず火器を種類別に揃えた。
狙撃銃、小銃、散弾銃——。
そして常に持ち歩いている拳銃は脇腹へ。
「じゃあ、急ぎでここでしようか?」
「ん? 何を?」
弾丸を準備していたアベル。
彼は有栖あらを振り返った。
軽装だったはずの彼女は——。
「いや、なんで脱いでるんだ?! 装備を準備しろって!」
すでに上半身は全て脱ぎ捨てられた状態。
驚いたアベルは、横にあった防弾服を持ち上げた。
そのまま、有栖あらに被せてしまう。
「うわっ!」
有栖あらはちょうど腕を上げていた。
そのため、防弾服は一度ですっぽりと入り込む。
「アベルは私のために命まで懸けたんでしょう?!」
「いや、それと今のこれと何の……」
「ここまで思ってくれているとは知らなかったの!」
「じゃあ俺がどう思っていると思っていたんだ?!」
「ただの面倒な女の子? たまに一緒に寝る?」
込み上げてくる頭痛——アベルは頭を抱えた。
今すぐ運ぶべき荷物が山ほどあるというのに。
「『ただの面倒な女の子』と一緒に死線を越えたりはしない」
「あ、適当な戦闘員も含まれるのかな?」
「違うって。俺はそれなりに深い話をしたと思っていたんだが」
「そうだった?」
「ともかく、そんな軽い気持ちならそばに置きもしなかった」
全く知らなかったという表情。
有栖あらは、ただアベルを見つめた。
アベルはため息を吐き、彼女の頭を撫でてやる。
「こんな世界じゃ、そばにいる人間は慎重に選ばなきゃならない。はした金のために隣の奴の頭に銃弾をぶち込む事なんて、日常茶飯事な時代だからな。
逆に隣に人を置いたなら、それだけで命を懸けるには十分だろう」
「誰かが私を心配してくれるのなんて、初めてみたいな気がする」
「黙って位置情報を記録していたのはすまない」
「ううん。心配してやってくれたんでしょ。それに隠す事も特にないし」
最も心配していた部分。
そこは上手く切り抜けられたようだった。
少しは殴られると思っていたのだが——。
「だから一回やってから行こう?」
「あー、もう脱ぐな! 仕事しなきゃ!」
アベルが有栖あらの手を掴む。
彼女は防弾服を解こうとしていた。
その下は、まさに裸のはず。
「脱がなきゃ着られないでしょ。防弾服だけ着て行くわけにはいかないじゃない?」
「……それはそうだな」
少し落ち着いた様子の有栖あら。
それを見て、アベルはそっと手を離した。
「そして、脱がなきゃね?」
「?!」
アベルが少し離れた隙だった。
有栖あらの両手に——外部義体が装着される。
「おい、おい! 待て! 戦う前に力を抜いてどうするんだ?!」
「心配しないで! 私が動くから!」
「そういう問題じゃないんだよ?!」
「天井にあるシミを少し数えていれば終わるから!」
「早いよ! それよりそんな日本式の慣用句はどこで聞いたんだ?!」
「ケイトから!」
「あのクソ無免許医者が何を教えているんだ! ちょっと、離せ!」
「やっほー! 久しぶり。ズボンの中で窮屈だったよねえ?」
「何を嬉しそうに挨拶してるんだ?! 今じゃないって! やめろ!」
「そんなにダダこねないでよ! 嬉しいくせに!」
アベルは力を込めて抵抗を試みる。
だが、外部義体を着用した有栖あらの筋力補正は凄まじかった。
ほぼ毎日運動をしていたアベルでさえ、まるで子供扱い——。
「上手くもないくせに何を……」
「それでも以前よりは痛がらないわよ?!」
痛みよりも、得体の知れない危険。
それを察知し、アベルはできる限り抵抗した。
「いや、戦闘を控えて何をしているんだって?!」
「エッチな事!」
「それを訊いたんじゃないんだよ?! 何のつもりかって!」
「ただ今は……アベルが好きすぎてしたいの」
最後の力を振り絞っての抵抗。
しかし、有栖あらが泣きそうな表情で彼を見上げた。
「だめ?」
『これは反則だろう……』
力で押さえつけているのは有栖あら。
だが、まるでアベルが悪い事をしているかのような錯覚——。
「ああ。分かった。こっちに来い」
結局、アベルは頷き、腕の力を抜いた。
有栖あらは明るく笑う。
そして、アベルをぎゅっと抱きしめた。
「あはは。私もそこまで分別がないわけじゃないよ。少しだけ抱きしめているね!」
アベルは有栖あらを突き放さない。
彼の胸に耳を当て、心臓の音を聞きながら笑う彼女。
アベルもまた、優しく抱きしめ返した。
「本当に好きだよ、アベル」
そう言う女の頭を撫でる。
アベルには、返す言葉がなかった。
ただ無言のまま、ぎゅっと抱きしめるのみ。
「馬鹿馬鹿しい……」
二人の話を盗み聞きし、悪態をつくクルックス。
ずっと車内にいるのが息苦しく、作業室に出てみたのだ。
すると、武器庫で交わされる会話が筒抜けだった。
〔ふむ。仲が良いのは良い事ですね〕
車庫にある小型スピーカー。
そこから響く、重厚な男の声——。
デッカードがこの状況を見て、割って入ったようだった。
「うわあっ?! 何! お化け? 幽霊?」
〔……驚かせるつもりはありませんでしたが。この家に居候している情報生命体のデッカードと申します。よろしくお願いしますね〕
クルックスには、この状況が全く理解できなかった。
人工知能が指示もなく自ら判断し、話しかけてきたのだ。
自我を持つ人工知能——そんな馬鹿な。
「え……え?」
〔状況は伝達されました。アベルは忘れているようでしたが、戦闘準備をしながら着用していたマイクがずっとオンになっていたのですよ。今回の仕事で他の都市まで道を探す役割は、私がする事になりそうですね〕
「私の、ナビゲーション(なびげーしょん)…みたいなもの?」
【似たようなものです。相手の位置を割り出し、該当する位置を避けて進むことになりますから。一般的なナビゲーションではないでしょうが。】
今回の仕事で、デッカードは情報管制と経路判断を担う。
一番近い道ではなく、一番安全な道を探し出すのだろう。
デッカードの本体たる主演算サーバーは、作業場に残されている。
トラックに設置されたのは、暗号化された遠隔端末機だ。
デッカードはその端末機を己の目と手のように利用する。
車両と武装を操作するが、トラックが破壊されても自我は消えない。
作業場と端末機の間の通信。
それはデッカードが確保しておいた廃棄中継機と匿名通信ノードを何度も迂回した。
転送する度に周波数と使い捨ての暗号キー、中継経路が変化する。
各中継機は前後一区間の情報だけを受け取り、即座に記録を消去——。
追跡者が電波を捉えても、送信中のトラックの位置を絞り込めるのみ。
何度も折れ曲がった経路を遡り、作業場のサーバーまで辿り着くのは極めて困難だった。




