2. 蝶(ちょう)と自由(じゆう) (11)
蝶と自由 (11)
「分かってる。それでも、私は行きたいの」
アベルはその言葉に顔をしかめた。
可能性を推し量る——。
そして、首を横に振った。
「逃亡を成功させるには、二十人以上の戦闘員に、まともな交渉ができる交渉人が必要になる。おそらく、都市内のギャング組織の大部分と交渉をまとめる事で、ようやく逃げ切れるだろう。それでも、政府の工作員たちを考えれば、どんな変数があるか分からない」
都市から逃げる事ならアベルにもできる。
実際に何度か経験した事がある。
ギャングと交渉したり、耳目を他に逸らす——。
そうして他の都市に到着する事は十分に可能だった。
しかし、この場合は違う。
クルックスは高位層の弱点となる情報を山ほど知っている人間。
次の都市まで、放置された廃墟を渡る——。
そのためには十分な武装人員が必要になる。
アスフォデルの全ての高位層——。
彼らがクルックスを殺してでも、秘密を守りたがるはずだからだ。
この都市に住む全ての人が捕えにくる。
つまり、クルックスが逃亡したいのなら——。
この都市全体と戦い、勝たなければならないという意味だ。
「それほど多くの人を集めるだけでも、確実に問題が生じるわ。何度も失敗したの。
だから私は、あなたにお願いしているの。私が知っている唯一の運送業者だから」
その言葉に、有栖あらは瞬きしながらアベルを見つめた。
アベルは十分に凄い腕前。
だが、多くの兵力の代わりになれるほどではないはずだ。
せいぜい、銃の扱いが上手い戦闘員レベル——。
そう思っていたのに、目の前の依頼人は全く違う事を口にしている。
「うーむ……」
アベルはしばし顔をしかめて悩んだ。
おかしい状況ではない。
運送業者に自分を運んでくれと頼んでいるだけ。
ただ、アベル一人に任せる難易度ではない。
まず、運送という仕事自体——。
戦場を自由に選ぶのが難しい。
それに、車両に乗っている事自体が甘くない状況。
追跡者たちは武器を使いやすい。
ギャングに金を払えば、道路や施設の封鎖も可能だろう。
しかし、アベルには突破するための手段が極めて限られている。
さらに車両追撃戦ともなれば——。
有栖あらの利点を活かしにくい。
銃の反動を上手く制御する事はできる。
だが、このような車両追撃戦において、近接攻撃手は大きな意味を持たないのだ。
『引き受けるのが正解な状況なのだが……』
アベルの激しい葛藤。
気持ちに従うなら、引き受けるのが正解だ。
こんな事が初めてというわけでもない。
以前にも、似たような依頼をしてきた者はいた。
それでも、今回は命を懸けなければならない——。
クルックスが持つ情報。
それはもちろん、途轍もなく凄いものだろう。
各企業や、政府高位関係者たちの秘密。
その核心に迫る情報があるはずだからだ。
アベルと有栖あらが望むのは、企業の崩壊——。
大いに役立つ事は間違いない。しかし……。
〔ポン〕
有栖あらが近づき、肩に手を置く。
その姿に、アベルはふっと笑ってクルックスを見た。
「でも、俺より先に説得すべき人がいるはずだけど? 俺が依頼を受けるかどうかは、その後に考えよう」
拳を握った有栖あらが、にっこりと笑ってみせる。
外部義体が空回りする機械音——。
自分をクルックス・フィアラと紹介した女。
彼女は結局、トラックの後部座席に陣取った。
どうせ都市を抜け出すのだ。
外から見えない後部座席に乗らなければならないだろう。
「やっぱり、今からでも殺そうか?」
有栖あらは、クルックスを今すぐ殺さない条件を提示した。
それは、忘れていた記憶を全て復元させる事。
そしてその時から、顔をしかめて時折クルックスを振り返っている。
外部義体を装着している彼女の力——。
拳骨を一度落とすだけで、殺すのは難しくないはずだ。
「……私が悪かったわ」
クルックスは何度も頭を下げて謝罪した。
だが、有栖あらの怒りは収まらない。
有栖あらが失った記憶が何なのか——。
それを語ろうとしないため、アベルは仲裁もできなかった。
「もうすぐ家に到着するから、始末するなら始末しろ。家から出てくれば仕事を受けたと思うから、よく悩んでみろ」
有栖あらはため息を吐いた。
そしてアベルをじっと見つめ、首を傾げる。
「ところで、アベルはどうして来たの? 私の居場所はどうやって分かったの?」
アベルは運転に集中するふりをする。
有栖あらの言葉を意図的に無視した。
だが、彼女が大人しく引き下がるはずもない。
太腿を強く掴みながら、威嚇的に見つめてくる。
たまらず、アベルは頷いた。
ハンドルを握っている状態では、逃げられるわけがないからだ。
「目的は当然だろ。お前を救おうとして行ったんだ」
「私を?」
有栖あらは、あり得ないというように首を傾げた。
「なぜそんな表情なのか分からないけど。なんだその顔は?」
「私をあえて救う理由は……なくない? なんで来たの?」
すでにアベルは防弾服を含め、完全武装の装い。
トラックの後ろには重機関銃。
さらには迫撃砲まで用意されている。
命を懸けて戦闘をしなければならない事——。
それを知りながらも、有栖あらを救いに来たのだ。
「……一体俺を何だと思っているんだ?」
「え?」
「一緒に暮らしているし、同じチームなのに、平気で捨てたりはしない。少なくとも確認くらいはする」
「だから……なぜ?」
「言っただろう。始める時はお前の勝手だったが、終わらせるのは俺が終わらせる。俺が望むやり方で、望む時期にだ。お前の好き勝手に飛び出させるままにはしない」
こんな別れ方は、アベルには納得できなかった。
いっそ何か言葉を残して出て行ったなら、理解もできた。
だが、突然の事だった。
有栖あらは跳ね起きると、そのまま飛び出していったのだから。
車をゆっくりと走らせていたアベル。
彼は深い、ため息を吐く。
少し視線を回し、有栖あらを見た。
だが彼女は、呆然とした表情でアベルを見つめるだけだった。
気まずくなったアベルは、静かに顔を背ける。
「じゃあ、私の居場所はどうやって分かったの?」
「前にDNIにプログラムを仕込んだって言っただろ。消すとは言わなかったし……それを起動したんだ。すまない」
アベルは横から飛んでくる拳を予想する。
そして、ギュッと歯を食い縛った。
有栖あらは外部義体を装着している。
当たり所が悪ければ、歯ではなく顎が飛びかねない——。
「なんで? なんでそんな事を?」
「あー……心配だったから?」
正直に言えば、有栖あらの心配というより——。
アベル自身を心配したのだった。
突然有栖あらが誰かと接触するかもしれない。
どこに飛び火するか分からない有栖あら——。
彼女を心配する気持ちも、確かにあったにはあったが。
アベルは車庫の扉を開けながらも、歯を食い縛り続ける。
だが、有栖あらが殴りかかってくる事はなかった。
特に攻撃される気配もない。
そのため、すぐに渋い顔で車のエンジンを切り、外へと降りた。
これから経験するであろう銃撃戦——。
それを考えれば、持ってきた装備では全く足りない。
有栖あらも同様だった。
まともな近接武器を、さらに準備しなければならなかった。
「あのね、アベル」
二階の武器庫に入る。
すると、有栖あらが低い声でアベルを呼んだ。
背後から響く声——。
それに緊張したアベルは、再び歯を食い縛った。




