2. 蝶(ちょう)と自由(じゆう) (10)
蝶と自由 (10)
有栖あらは外部の義体を足に集中させた。
その後、軽く跳んで2階へ。
内部には小さなベッドと机。
そして——。
『これは有栖あらの作品だろう。』
極超短波で焼かれた死体が放置されていた。
その数、六人。
濃いサングラスにスーツ姿——。
どこかの要員か護衛だろう。
アベルは信じがたい内部の惨状に、少し呆然としていた。
この女の仕業だと言うには、戦闘に未熟すぎる。
閃光弾すらまともに回避できないほどに。
未だに両目を押さえているくらいだからだ。
「わ、私じゃないわ。私を監視していた人達なのにあの女が全員殺したのよ。」
しばらくして視覚を取り戻したクルックス。
彼女は有栖あらを指さし、消え入るような声で言った。
「記憶にはないんだけど。それでも私に直接的な害は与えなかったから……」
「助けてくれるの?」
有栖あらの言葉に顔色を取り戻したクルックス。
彼女は希望に満ちて尋ねた。
「遺言くらいは聞いてあげる。」
「……助けて。」
有栖あらは深く溜息を吐いた。
「わ、私は記憶を修正できるわ。忘れてしまった記憶を再び取り戻したり、忘れないように再び記憶を思い出させる事も可能よ!特別に無料でしてあげる!
それにただアベル、あなたの助けが必要で呼ぶ方法が必要だっただけなの……ここにいる人達も私が殺したんじゃなくてあなたが殺したんじゃない!私は生き延びるために有栖あらを1階に落しただけよ!」
床を調べると、トラップドアのような足場。
有栖あらは戦いに夢中で、この罠に気づかなかったのだ。
ここから1階へと落されたのだろう。
どれほど頭に血が上っていたのか——。
「普通助けが必要なら作業場に訪ねてくるだろう。このように同居人を誘拐したり誘き出すのではなく。」
アベルは呆れながら訂正した。
クルックスという人物が、どんな人生を生きてきたかは分からない。
だが、凄じく考えが捻くれているようだ。
そして妙に、自己正当化をしようとしている。
「でも私は監視されているの……あんな繁華街に行けばすぐに監視員達が追いかけてくるわ。」
「ランカ・ストリートは繁華街ではないだろう。」
「私には十分に繁華街よ。ここもギリギリなのに……」
話をするほど、アベルは頭が痛くなった。
これ以上、複雑な事には関わりたくない。
さっさと処理して、家に帰るべきだ——。
そう考えた。
「うむ。遺言にしては長かったわね?」
有栖あらはそう言い放つ。
左腕に外部の義体を集中させた。
辛うじて肘の下まで来る量——。
だが、人の頭を砕くには十分だ。
「ちょっと長かったな。車にビニールがあるから持ってくる。死体を処理するにはどうしてもその方が楽だ。服に血が付く事もそうだし。」
「ふむ。ただこのまま置いておくのは……あ、高位層とコネがあるから困るわね。今日のように記憶と感情に干渉する事もあるだろうし。」
「それに簡単なメッセージでもお前をここまで誘き寄せた。恐らく作業場を攻撃されたら俺は商売を畳まなければならないだろうな。」
アベルと有栖あらは、この人物を殺す事で心を決めたようだ。
クルックスは力なく項垂れた。
「私が悪かったわ……間違っていたわ。」
有栖あらは少し悩んだ。
誰かが自ら非を認め、本気で謝罪するのは初めてだったからだ。
だからといって、被害が消えるわけではない。
記憶を失ったままここへ引きずり込まれた。
一番嫌いな、白い部屋に閉じ込められて。
何より、自分の選択さえ記憶できないまま、六人を殺した。
監視役達が先に攻撃したかどうかは関係ない。
自分の手で人を殺した——その時間自体を奪われたのだ。
「助ける事と許す事は違う。」
「……うん。」
「私の記憶から全部元に戻して。そして二度と許可なく私の頭に手を出さないで。その次にあなたの依頼を聞くか決めるわ。」
クルックスは何回も頷いた。
有栖あらは左腕に集めた外部義体を解かない。
だが、今すぐ頭を砕こうとする姿勢は解いた。
「大企業の高位層から政治、団体……私はこう見えても情報と伝手が多いの。助けられる事は助けるわ! わ、私を殺したって何の役にも立たないじゃない?」
アベルも葛藤した。
後の事を考えれば、ここで殺すのが正解だ。
正解なのだが——。
この女を殺したところで、何の助けにもならない。
彼女の言う通り、凄い情報を持っているはずだ。
記憶修正士は仕事上、顧客の記憶を見る必要がある。
ランシーの言葉を考えれば、完全記憶能力の可能性も高い。
つまり、あの頭の中には、望む情報が眠っているという事。
それも、大部分が損傷なく。
有栖あらが求める情報であれ、アベルが求める情報であれ。
おそらく、この都市で最も手に入れにくい情報——。
それをたっぷり知っているのだろう。
「なら、オルフェウス・グループについて知っている事を……」
「待って」
有栖あらの追及を、アベルが遮る。
情報とは、むやみやたらに聞けばいいというものではない。
「機密情報を漏らして、俺たちを引き込もうとしているんじゃないのか?」
企業の秘密が流出すればどうなるか。
この人だけでなく、自分たちも抹殺対象に含まれるだろう。
死にたくなければ、逃亡を手伝うべきだ——。
そんな展開にならないとも限らない。
「違うわ。私が頼もうとしていた依頼は……この都市を抜け出して、他の都市へ行く事だったの」
アベルは顔をしかめた。
本当に高位の記憶修正士なら、監視と管理が付くはずだ。
それを振り切って他の都市へ行く事は、可能だろう。
米国は住民登録や人的事項の管理が厳格ではない。
別の都市へ行き、別の名前を使えば済む。
完璧ではないにせよ、覚悟を決めて逃亡するなら——。
米国政府の目を逃れる事は可能だ。
『国や政府というものが、あまりに弱くなりすぎたな……』
世界各地で同様ではあるが、政府はもはや機能していなかった。
義体の登場で、企業の力が強大になりすぎたのだ。
人に機能を提供するDNIソフトウェア。
その登場が、さらに政府を追い詰めた。
いくつか企業が連合すれば、政府を屈服させる事ができる。
そして実際に、そうしてきた。
企業は政府の利権や事業、資金を奪う。
その度に政府は、限りなく脆弱になっていった。
特にアスフォデルという最悪の都市においては、なおさらだ。
だから、クルックスが監視網から逃れるのは、不可能な話ではない。
アスフォデルと政府、その両方から逃れるとしてもだ。
だが——。
「簡単な事じゃない」
クルックスは一般人ではなく、要注意人物だからだ。
アスフォデルを抜け出す前から、多くの者が追ってくるだろう。
そして都市の境界を越え、外部へ出た瞬間——。
本格的に攻撃してくるはずだ。
それに、廃墟と化したビル群に住み着く者たち。
こうした依頼を受け、襲撃を生業とするチームも多い。
事前に罠を張って待ち構え、獲物を攻撃するだけ。
彼らにとってそれは、ひどく簡単な仕事だ。
他の都市へ向かう道のあちこち。
蟻地獄のように、敵が潜伏している事だろう。




