2. 蝶(ちょう)と自由(じゆう) (8)
蝶と自由 (8)
「でもこれって何よ。任せる仕事があって呼ぼうとしたのに現れない? だから私がこうして家まで招待することになったんじゃないの!」
「え? 任せる仕事?」
そこまで考えて——。
有栖 あらは今の状態を、少しばかり把握することができた。
アベルが持ち帰ったメッセージ。
それを書いたのは、この人なのだろう。
『あ。思わず原本データを受け取っちゃったんだ……』
アベルは外部端末機で、テキストだけを抽出して確認した。
だが、有栖 あらには分析してみろと言って、データ原本まで渡したのだ。
記憶の原本——。
それは平凡な映像ファイルではなかった。
実際の経験のように再生するためには、ある条件が。
DNIが感覚領域と、エピソード記憶領域へのアクセス権限。
それを一時的に開く必要があった。
クルックスは、その正常的な再生手順に——。
一過性の命令を、隠しておいたようだった。
権限が開かれた瞬間に発動する命令。
単純な移動命令の反復。
その間に、新しい記憶が作られないように防いだのだ。
人の性格を変えたり、長期間操ることはできない。
それでも、眠っている人を一人——。
定められた場所まで誘導するには、十分だったのだろう。
[エデンの東、夕焼けの窓辺でお待ちしております、アベル。]
ただのテキストだけがあるのではない。
記憶修正師が扱う、特有の何か。
一種のウイルスか——。
あるいは、遠隔接続プログラムだろうか。
「そう。少し賢ければアスフォデル中部にあるノドという食堂に行っただろうし、宗教に博識なら東側の市の境界にいるでしょうね。無知ならただエデンの東という店に行っただろうし。アスフォデル東部にあるエデンという名前の食堂にも予約をしておいて、宿泊施設もいくつか選んで予約しておいたわ。
でも、どこにも現れないじゃないの?」
「あははは!」
有栖 あらは、笑いを堪えきれずに吹き出した。
光一点ない部屋の中。
一人で放置されたにしては——あまりにも冷静な態度。
「アベルがあなたより賢いってことだよ! ノドっていう店も候補地に入れてたし、都市の東側の境界も考えてはいたの。でもアベルの言葉が傑作だったんだから!」
「……何よ?」
「『困るのは俺じゃない。頼みがあるなら直接来ればいいさ』。アベルが直接言った言葉だよ」
有栖 あらは厳かに、アベルの声の真似を交えて言った。
こうなると、むしろ呆れるのは——。
有栖 あらを捕えて来た、人間の方だった。
「今の状況は分かってるの?! その義体調整師が来なければ、あなたが死ぬかもしれないのに!」
「うん。分かってるから笑えるんだよ。あなたは全くの見当外れだったからね」
「何?」
「アベルは来ないよ。来るはずがないもん」
有栖 あらはぐっと背伸びをしてから——。
壁に背を寄せ掛けて座った。
記憶がない間に、激しく動きすぎた肉体。
すぐにストレッチをして、ほぐしてやらないと。
しばらく筋肉痛に悩まされるだろうから。
「私はアベルがなぜ私を救ったのかも知らない。逆に私も何があったのか話したことがないし。お互いに親しいとは言えるだろうけど、それでもお互いのために命を懸けたりするような仲じゃないんだ。
アベルが危険になったら私が命を懸けるだろうけど、アベルには私に献身したり犠牲になる理由がないの」
「はあ……」
つまり、自ら人質としての価値はないと宣言しているのだ。
どんな魂胆なのかは、分からない。
だが、決して賢い方法ではない。
それならこの事を隠蔽するためにできること——。
有栖 あらを殺害し、証拠を隠滅することだろうから。
「でも一緒に住んでるんでしょ?」
「うん」
「でも命は懸けないと?」
「私は懸けるってば」
「いや、そのアベルっていう男の操縦士!ただのクソ野郎じゃないか?!」
「???」
有栖あらは、こてんと首を傾げた。
突然、何の話なのか——。
全く理解が追いつかなかった。
「お前もそうだ!あんな奴と一緒に暮らすのが好きなのか?!責任感も何もないじゃないか!」
「合理的なんでしょ?アベルにとって私はある日突然やって来た女の子に過ぎないから。むしろしがみついているのは私の方よ。」
「それは私も分かっている。お前の記憶を見たからな。だが、お前の考えは理解できない!」
「え?おかしいの?」
「お前の過去に関係なくそれはおかしい。アベルという奴も正気じゃないし。」
「誘拐犯の言う言葉ではないと思うけど?」
図星を突かれたのか、誘拐犯は口を閉した。
有栖あらは誇らしい気持ちで——。
自慢げに、胸を大きく張ってみた。
言葉での勝利。
「とにかくDNIで呼び出したりしてみろ。寝ていてもお前の連絡先なら起きるだろう。どう見ても同居人なのだから……」
「知らない。」
「何?」
「記憶を見たんでしょ?アベルが私に連絡先やDNIのIDを教えるのを見たことある?」
「……え?」
アベルは有栖あらに、連絡先を教えたことがなかった。
以前、ロボットを生け捕りにした時——。
あの時も、通信機による近接通信だった。
普段は二人とも家にいる。
だから、DNIで連絡し合う事などなかったのだ。
必要なら大声で呼ぶだけ。
それで十分だったからだ。
「???何なの、お前たち?」
この状況すら忘れてしまったのか——。
誘拐犯が、本気の込もった声で尋ねてくるほどだった。
「あはは。私の片思いね。」
有栖あらは、困ったような笑いを浮かべた。
それでも今、ただ会話だけをしているわけではない。
問答をしながら、気を逸らす——。
その裏で、有栖あらはDNIを利用していた。
視覚を元に戻そうとする努力。
いくら光がなくても、熱映像ならどうだ。
自分の熱くらいは、捉えられるはずなのに。
だが、見えるのは真っ黒な画面だけ。
正常な視覚情報を受け取っているのではない。
外部的な手段により、視覚を失わされた状態なのだ。
「本当に救いようのないカップルだな。とにかくお前を捕まえていても整備士が来る事はないという事だな?」
「うん。私がここにいるのをどうやって知って来るの?連絡する手段もないし。それに連絡がついたとしても命を懸けて来る理由がないわ。」
しばらくの沈黙。
やがて、有栖あらを捕まえた人物から——。
長い長い、溜息が聞こえてきた。
「分かった、それなら。すぐに解放してやる。目も……」
「うん。目はよく見えるよ。」
「……何?!」
DNIを利用した、眼球義体の再起動——。
それにより、彼女は視覚を取り戻したのだ。
有栖あらは席から立ち上がりながら——。
左腕を大きく回して、ストレッチをした。
体の至る所に装着された外部義体。
それが、一斉に液体の形態に変わる。
左の肘の下へと集まり始めたのだ。
『こうなると思っていたら視覚を取り戻さなければよかったかな。』
白い部屋の中は明るく、一面がガラスになっていた。
取調室のような空間で使用する——マジックミラー。
声がそのまま聞こえるところを見ると、細工があるようだ。
音声はそのまま伝達されるよう、処理が施されているのだろう。
そして、床と手には——赤い血。
色素や、他の液体である可能性は皆無だった。
酷く馴染みのある、血生臭さだったからだ。
「どうやって?」
「教えてあげない。そして自分で出ていくから。ここを壊すのはごめんね。」
DNIからの警告メッセージ——。
それを思い切って、全て消去してしまった。
どういう部屋なのか、扉の類が見当たらない。
そのため、壁を狙うしかなかった。
筋力補正、最大。
衝撃吸収、慣性中和最大。
バッテリー損傷による最大数値制限。
緊急状況によるDNI及び生体電気——。
そして、義手の動力を利用。




