2. 蝶(ちょう)と自由(じゆう) (6)
蝶と自由 (6)
アベルが危険な仕事を受けない理由は他にもある。
裏世界で恨みを買いたくないという、そんな部分。
逃走や運送の仕事も、誰かを攻撃したり仇になる可能性があるなら引き受けなかった。
——だから。アベルを攻撃する人物が他にいるとは思えなかった。
「でもエデンの東ってどこ?」
有栖 あらはテキストを何度も見た。
だが、答えは全く見つからない。
「俺も正確には分からない。いくつか候補はあるがな」
「おお……候補って何?」
アベルは車のエンジンを掛けた。
そして車のナビゲーションを利用し、数箇所を探してみる。
「市内にある『ノド(Nod)』という店がある。プライベートルームがある酒場だが、静かに話すには良いだろう」
「おお。じゃあそこかな?」
「多分違うだろう。聖書に出てくる『ノド』という場所は、アベルではなくカインが定住した町だからな」
「カインって誰?」
「聖書に出てくる最初の殺人者だが……カインとアベルは兄弟だった」
「え? じゃあカインは誰を殺したの?」
「アベルをだ。神がアベルの供物だけを受け取り、カインの供物は受け取らなかったからな。それに怒って殺したと言われている」
「うわあ。神様が悪かったね……」
「その後にエデンから追い出され、東に『ノド』という都市を作って定住したんだ」
「でもそこじゃないの?」
アベルは大通りへ車を走らせた。
すでに夕焼けが始まっている。
灰白色のコンクリートの森。
それが夕陽を受け、黄金色に輝いていた。
「ああ。違うだろう。ノドはカインが定住した場所であって、アベルが行った場所ではないからな。メッセージで『アベル』と呼んでいるのに、カインが定住した場所に呼び出しはしないだろう」
「うーん……じゃあ二つ目は?」
有栖 あらは首を傾げた。
車の窓から見える道——それは、少し見覚えのある道だった。
「二つ目は都市の東側の境界。海ではなく島の方へ出る方向だろうな。やはり聖書の内容とも関連がある」
「どんな内容? 私、本当に聖書を一度も見たことがないんだ」
特にその部分について、有栖 あらを咎めることはない。
二千年を超える過去の物語——未だに読んでいる人間がいることの方が不思議なのだ。
知らないからといって、何か言うべきことでもない。
「アダムとイブが善悪の知識の木の実を食べたせいでエデンの園から追い出された。東へと追い出し、二度と戻れないように炎でエデンを囲んで防いだんだ」
「なるほど……でもアスフォデルに炎なんてあるの?」
「普通、都市の境界は赤く表示するだろう」
アベルがナビゲーションを指差す。
都市の境界が、赤く表示されていた。
「だが、これも違うだろうな。都市の境界というのは広すぎる」
「ん?」
「都市の東側境界の直線距離は二十キロメートルを超える。どこなのかなんて分かるわけがない」
有栖 あらは首を向け、アベルをじっと見つめた。
顔をしかめる。
怒っているという素振りを、あからさまに見せた。
「次の候補もあるの?」
「言葉通りエデンの東という店はいくつかあるが、俺たちはそこにも行かない」
「アベル……私ちょっとイライラしてるんだけど。それで、どこに行くの?」
有栖 あらが声を低くしてアベルに言う。
しかしアベルは笑みを浮かべ、余裕を持って車を運転した。
「ここは少し見覚えのある道じゃないか? 何度か来たことがあるはずだが?」
「うん。家の前だね」
アベルは頷いた。
そして、車庫のドアを開けるリモコンを押す。
「家に着いた。目的地に到着」
「??? 行かないの? 依頼だって言ってたじゃない?」
本当に行かないと決めたのか。
アベルは車を駐車してエンジンを切った。
「行かない。俺がなぜ?」
「依頼……でしょ?」
有栖 あらが首を傾げた。
さっき仕事を受けようと言ったのに……。
考えてみれば、アベルは受けようとは言わなかった。
ただ沈黙してから、目的地について話しただけ。
「困るのは俺じゃない。頼みがあるなら直接来ればいいさ」
アベルは車から降りた後、ドアを閉めた。
有栖 あらは何度か瞬きをする。
そして、アベルに続いて降りた。
「でも依頼した人がここを知ってるんじゃないの? 大丈夫?」
「知っていればいいさ。俺に仕事を任せるつもりなら攻撃はしないだろう。攻撃されたらその時になって考えればいいことだ」
[ふむ。全て聞いておりました。もしかして連絡を残した人物を探してみましょうか?]
バーから全ての話を聞いていたデッカード。
彼がスピーカーで尋ねた。
しかしアベルは首を振る。
「いや。そのままにしておけ。下手に調査して警戒されたり攻撃的に出られたら、それも厄介だからな」
[承知いたしました。]
アベルは答え、二階の生活空間へ上がる。
すぐに眠る準備をした。
有栖 あらは、むしろそれが不自然に思えた。
作業場に座り、思考を整理する。
『一体目的は何?』
有栖 あらには、アベルの目的が分からなかった。
もちろん企業を崩壊させるという目的があることは、聞いて知っている。
だが、ここにいることは、企業を崩壊させることとは少し距離があった。
『お金?』
お金だけを望むなら、ここで作業場を構えている理由がない。
小規模な作業場を作り、新しい義体や義体代行業者をする方がマシだろう。
そういう人々(ひとびと)もたくさんいるのだから。
どうせ危険な暗黒街に足を踏み入れるなら。
こんな中途半端にすることではない。
暗殺や攻撃の依頼を着実に受け、お金を集め、方法を探すのが正しい。
有栖 あらでもアクセスできる一般的なインターネット空間にも——お金を稼げる仕事は溢れていた。
誰かを攻撃したり、後始末を通じて稼げるお金。
それが、そこそこの正規の職業と同じか、少し劣る程度なのだ。
アスフォデルの会社員の大部分は、違法な仕事を兼任している。
——だから、このような状況なのも不思議なことではない。
しかし、アベルがこのような環境で依頼を受けることに積極的かと考えるなら。
有栖 あらは首を傾げるだろう。
ランシーが話したように、高位の記憶修正師は言い値で決まる。
捜査機関の記憶探知機を避けることもできる。
新しい記憶を本人も知らないうちに植え付けることができるなら、やれることは無限にある。
さらに先天的な能力が必要な分野。
後発組が無分別に生まれることもないため、高額にならざるを得ない。
ところが、アベルは接触場所の候補をたくさん考えながらも、どこかに電話を掛けたり確認してみたりもしなかった。
とりあえずお金を集めているというのは事実。
生活のためであれ、何のためであれ。
——しかし、アベルの計画が何かは分からなかった。
最終的な目的地は知っている。
だが、そこまでどうやって行くのかは全く見当がつかなかった。
「デッカード。アベルはお金を集めて何をしようとしてるのかな?」
有栖 あらがDNIを通じ、人工知能のデッカードと対話する。
アベルが聞いたら陰口を叩いていると思うかもしれない。
そう思い、用心したのだ。
[さあ。弾薬は定期的に購入しているようですが]
「二、三日に一回ずつ地下で銃を撃って射撃術を維持しているのは知ってる。でもお金が結構貯まるんじゃない? どこに使うんだろう?」




