2. 蝶(ちょう)と自由(じゆう) (5)
蝶と自由 (5)
「でも才能ってなんだ? DNIや義体じゃカバーできないのか?」
「場面一つ一つに対する記憶力が必要なのよ。全てのディテールと情報をすべて記憶する記憶力が必要なの」
「ふーむ……」
「思ったより記憶修正用の機材は高くないし、DNIのソフトウェアもたくさん出回ってるわ。暇なら一度使ってみる?」
アベルは首を横に振った。
特に気乗りはしない——。
記憶修正には、思ったより多くのディテールが必要なようだ。
「人工知能は? こっちの分野の人工知能は見たことがない気がするけど」
「ええ。意味がないからよ」
「え? なんで?」
「まず違法だし、写真やそれらしい画像を記憶に植え付けることは可能よ。実際に運転ができなくても、DNIでダウンロードすれば運転技術が身につくじゃない?
だけど、人工知能は人の『現実感』っていう部分を理解できないの」
「現実感……か。触覚とかそういうの?」
「ううん、それよりも少し複雑よ。人の記憶は完璧じゃないわ。それに人間は現実をありのままに受け入れるんじゃなくて、一度フィルターを通して受け入れるでしょ?」
「感覚的な部分ってことか?」
「そう。人工知能はあまりにも完璧に記憶を植え付けてしまうの。人工知能のアルゴリズムじゃ『自然なぼやけ』をうまく表現できないわ。
だから作られた記憶を見分けるのはすごく簡単なのよ。完璧な記憶は、ほぼ間違いなく人工知能が植え付けた記憶よ」
「一言で言えば、記憶は人工知能がほとんど手を出せない分野ってことか?」
「少なくとも私が知る限りではそうね。機械が唯一手を出せない分野って言うべきかしら」
アベルは頷いた。
生成型の人工知能——。
それはノイズからキーワードを利用して復元する方式だ。
中途半端な段階で終わらせれば、ノイズが残る。
白っぽくぼやけた、曖昧な記憶は生成不能。
敵対的生成ネットワーク(Generative Adversarial Networks、GAN)の特性そのものだ。
「それでも記憶を削除すること自体は可能よ。記憶の前後が途切れて違和感が強くなるだろうけど」
「酒を飲んでフィルムが切れたみたいに?」
「そう」
ランシーはアベルのグラスに自分のグラスをぶつけ、一口飲む。
中身はただのオレンジジュース——。
勤務中だから当然だ。
だが、スタイルが良くて露出の多い彼女が飲むと、まるでカクテルのように見えた。
「とにかく、新しい記憶を作るには前の記憶を参照するのは必須なの。これを修正士たちは『頭の中に入る』って表現するわ。事実上、同じようなものだし」
「その人の心によって記憶が変わるからか? 心が一種のフィルターみたいに働くってわけだな」
ランシーはアベルの言葉に、思わず目を丸くした。
「だから、前の記憶や心、感情を参照して、できるだけその人の他の記憶と似たような記憶を作らなきゃならないんだ。その全てのディテールと細部の事項を考えれば、文字通り凄まじい記憶力と分析力が必要になるだろうし。その人が記憶を保存する習慣をそのまま模倣しなきゃならないから」
「何? 本当に知らなくて聞きに来たの?」
「アラン・バドリー(Alan Baddeley)がワーキングメモリ(Working Memory)のモデルを提案してからどれくらい経つと思ってる。人の記憶は百パーセントそのまま情報を保存するんじゃなく、長期記憶に移行しながら記憶の情報が制限されるってのは、もう常識じゃないのか?」
アベルはクスッと笑いながら、ランシーに告げる。
彼女は少し顔をしかめた。
そして——。
アベルがコーラを飲む隙を突き、その首へ手刀を落とした。
「ぶふっ! おい! この、イカレたバーテンダー! 何すんだよ?!」
前へ中身を吹き出すアベル。
激しい咳を交えながら、大声で叫んだ。
「ムカつく。頭がいいって自慢してるわけ?!」
「違うって、俺は基本的に時代遅れなんだよ! お前らの会話や知識に追いつくためには限りなく努力しなきゃならないんだからな?!」
「何言ってんのよ! 六十過ぎの老人じゃあるまいし!」
「似たようなもんだろ?!」
「前はアイスマンとか言うし……変なことばっかり言ってるわね」
「変なことじゃなくて……」
「コーラでも飲んでなさい!」
ランシーは注文もないコーラを、アベルのグラスに注ぎ込む。
一応はタダの飲み物——。
アベルはありがたく、両手でそれを受け取った。
「あ、どうも……」
それにしても——。
咳込む人間に、炭酸のコーラを渡すとは。
これは謝罪か。
それとも、攻撃か。
「とにかく。対象の習慣や心、感情に合わせて生々(なまなま)しい記憶を植え付けるのは難しいってことだろ?」
「ええ。現実と差がないようにするには、ほぼ完全な記憶能力が必要よ」
ランシーが記憶修正士を辞めた理由——。
アベルはそれを察した。
完全記憶能力は、ごく少数の人間にのみ許された力。
難易度が高く、才能に依存する職業。
ならば、手遅れになる前に手を引くのが正解だろう。
「すごく役に立ったよ。ありがとな」
「いいのよ。お金をもらってやってる事だし」
アベルはランシーに情報費用を送金する。
そしてコートを羽織り、静かに立ち上がった。
「ちょっと多いんじゃない?」
最初から情報料の取り決めはなかった。
支払いはアベルの良心次第。
だが、送金された額——。
それはランシーの予想を、優に二倍も上回っていた。
「個人的な話だったろ。それに対する感謝の印だよ」
「おっと。私は友達だと思って話したのに。冷たいわね、アベル」
アベルは困惑し、顔をしかめる。
彼とて、ただの情報提供者と購入者という冷たい関係だと思っていたわけではない。
金のやり取り抜きで、数多の言葉を交わしてきた。
共に過ごした時間——。
その絆を感じ、友達だと思っていた。
「記憶修正士ランシー・ガルシアはもう死んだんだろ。気の毒な故人に対する葬儀代だとでも思っておけ」
コートの下には、サイレンサー付きの拳銃。
アベルは否定したものの、戦闘を想定した臨戦態勢——。
その前に、情報を得に来たのだろう。
「とにかくムカつくわ。一言も負けないんだから、ホントに」
ランシーは笑顔で文句を言いながら、アベルを見送った。
2.
「ふーむ。最近買ってくれたゲームとほとんど同じね。記憶修正士っていうのは」
有栖 あらは助手席でそう呟く。
アベルとランシーが交わす会話を、彼女は全て聞いていた。
「どんな職業なのか少しは理解できたか?」
「うん。何か面白そう! 今回の仕事は受けてみよう!」
アベルは、慎重に動きたい立場だった。
だが、有栖 あらはその危険性を理解していない。
メッセージとデータ原本を受け取っても——。
特に気にする気配すらなかった。
[エデンの東、夕焼けの窓辺でお待ちしております、アベル。]
整備する客の頭の中に、テキストを仕込む気味の悪さ。
それに加えて、相手はすでにアベルを知っていた。
ならば逆に——。
アベルを狙い、罠を仕掛けた可能性もあるだろう。
『もちろん俺を攻撃しようとする人間がいる気はしないが』




