2. 蝶(ちょう)と自由(じゆう) (2)
蝶と自由 (2)
そして、この記憶は絶対に忘れることはできないだろう。
これまでクルックスが隠蔽してきた、全ての事件の被害者たちと同じように——。
[通達。ストレス指数——指定数値以上]
「分かってる。分かってるわよ。この最悪な気分も忘れられないでしょうね!」
捜査機関の装備を避けられるほどの高位記憶修正士——。
彼らは、忘却することができない。
どんな記憶であっても絶対に忘れることがない。
ゆえに、対象者の記憶のディテールや状況を全て保存できるのだ。
捜査機関の装備すら誤魔化せるほどの記憶。
それを作り出すことが可能なのだ。
本人が望むか、嫌がるかには関係なく——。
[安全な社会、厳格な法治主義!]
都市の公益広告の標識。
それが風に靡いていた。
クルックスの乗った車が都市を疾走する。
涙で前が見えない。
感情が激しく波打つ。
しかし、DNI(Direct Neural Interface)の運転補助チップ——。
それは強制的にハンドルを調整し、事故を防いでくれた。
「『安全な社会』? クソッ。ふざけないで!」
彼女の運転は、補助機能の限界を試すかのようだった。
わざとアクセルとブレーキを交互に無理やり踏む。
街灯と信号機に向かっての突進。
しかしDNIは、まだ余裕があるかのように車を補助し続ける。
「ええ、そうね。自殺でさえ機械の許可を得なければできない世界だものね!」
上で薬を投与されたとしても、死ななかっただろう。
数分も経たず、待機していた監視者が現れる。
そして、クルックスを病院に突っ込むはずだ。
銃を撃つなどの直接的な傷害——。
それはあまりにも簡単に犯人が特定される。
だからこそ、避けたのだろう。
結局、クルックスはお偉い方々(かたがた)の『刑務所脱出カード』。
皆の公共財であるがゆえに。
逆に、誰からも安全だった。
いっそ、クルックスは狂ってしまいたかった。
あの女性議員は、明日の法廷で無罪を勝ち取るだろう。
被害者は、一生を傷の中で生きていく。
クルックスが、一人の人生を終わらせたのだ。
「人がいる場所はことごとく全て地獄よ!」
地獄で生きているのも、死んで地獄へ行くのも——。
何も変わりはない。
いっそそれなら、死んで他の被害者を減らしたかった。
与えられた仕事をやらないというのは不可能。
金と権力がある者たち。
彼らは『できない』という言葉を聞いて大人しくしているはずがない。
どんな脅迫をしてでも、望むものを手に入れるだろう。
クルックスが、この仕事を始めた時と同じように——。
「ああああああぁっ!」
だから、声を張り上げた。
彼女の仕事によって人生を壊された者。
そして、これから壊される者たち。
彼らは、声を上げることさえできないのだから。
どうせ聞き入れてくれる耳を持たないのは同じ。
せめて声だけでも、張り上げたかった。
1.
「一応、正常数値まで調整は済んだ。確認してみてくれ」
アベルが、カプセル型の椅子に付いた操作端末機を消しながら言う。
カプセルには、有栖 あらが横たわっていた。
「うーん。ありがとう。ホルモンは正常だってさ。これで避妊できるのはラッキーだね。でしょ?」
「でしょ? じゃない……できなければ大問題だ」
有栖 あらはカプセルから出るなり、アベルを抱きしめる。
左腕の義体にもそれなりに慣れ、日常での使用に支障はなかった。
「ホルモンはいつまでこんな感じなのかな? 運動もしているし、規則的に生活しているのにこうなるんだもん」
「半年くらい掛かる人も見たことがある。その間はDNIが提供するホルモン情報も完全には信用し難いから、安心しないでくれ」
「うわぁ……」
思ったより長い期間に驚き、縮み上がる有栖 あら。
だが、アベルはこれも肯定的に答えてあげたのだ。
過去にあった事例——。
それは有栖 あらのように、極限の状況でホルモンを絞り出しはしなかったからだ。
最悪の場合。
ホルモンバランスと恒常性が、二度と戻らなくてもおかしくはなかった。
戦闘を続ける状態で、10日以上も絞り出したのだ。
脳に衝撃がいくのが正常である。
脳の一部が永久的に壊れていても、不思議ではなかった。
「私も整備すること、学ばなくちゃいけないかな? いつまでも頼むのは申し訳ないし……」
「あまり負担に思わないでくれ。そんなに手が掛かるわけでもないし。1週間に1回程度じゃないか」
アベルは何気なく言い、コンピューターの前に座ってデータを入力する。
調整する前の、脳の状態の記録。
しかし、あまり指標が良い状況ではなかった。
毎回測定する度に、数値が跳ね上がったり落ちたりしていたからだ。
ホルモン分泌量と、脳の酸素使用量——。
それでもDNIの機能が生き(い)ているため、なんとか日常生活が可能な程度であった。
「アベルは? 点検しなくても大丈夫?」
「ああ。俺のように立派な人間はしなくても大丈夫だ」
正確には強制的なホルモン調節をしていないということに近い。
だが、アベルはそうやって誤魔化した。
「ふーん。分かった。お客さんが来る時間だから、私は上で遊んでるね」
有栖 あらは2階の生活空間に上がり、ベッドに横になる。
脳に直接信号を送って映像を浮かべる。
そして全身の電気信号を受け取り、キャラクターを操作する。
ゆえに、モニターやコンピューターなしでもゲームが可能だった。
ベッドに寝転がった状態で。
アベルが買ってあげたゲームだが、有栖 あらはお気に召したらしい。
『ストアページを見たら、記憶修正士についての話だったみたいだけど』
もちろん、アベルはプレイしたことがない。
そのため、正確な内容物は知らなかった。
パズル、推理要素——。
そして、シナリオに力を入れたということだけを知っていたのだ。
どうせアベルがやるわけでもない。
ゆえに、あまり大きく気にすることはなかった。
[トントン]
間もなく、作業場の鉄門が開く。
アベルは古くからの常連を、嬉しそうに迎えた。
「元気だったか、アベル?」
リアムは来るなり、アベルに握手を求める。
アベルも全く遠慮することなく手を握り返す。
そして、軽く抱擁まで交わした。
「おかげさまで。あんたは? 警護をしていると険しい事も多かっただろうに」
どれほど親しい間柄なのか——。
アベルはカプセル型の椅子ではなく、車輪の付いた椅子を出してあげる。
リアムも当然のように座り、余裕たっぷりに笑った。
「今月は特に何もなかった。事実上、中小企業の会社員だよ」
リアムは会社次元での公用警護員。
出張や外部ミーティングに出る際に同行していた。
一人だけを専担する個人警護員ではない。
会社の人なら誰でも、理由があれば警護を申請することができた。
しかし、外部業務やミーティングが多くない日。
そんな日は、一般的な事務員一人の仕事をしたりもした。
「ああ、うちのチームから何人か訪ねてきたはずだが。変わった事はなかったか?」
アベルはその言葉に、明るく笑ってみせた。
リアムが紹介してくれた会社員たち。
彼らが、今月だけで10人ほど来ていたからだ。
少し忙しくはあった。
しかし、それよりも感謝の挨拶をする会社員たち——。
彼らを見て、アベルは誇らしく思っていた。




