2. 蝶(ちょう)と自由(じゆう) (1)
蝶と自由 (1)
0.
蝶は美しい。
ひらひらとした身のこなし。
優雅に揺れる羽——視線を奪うほどの綺麗さ。
そして、そんな蝶は普通、蜘蛛の糸に掛かって生を終える。
優雅な身のこなしを保ったまま。
羽ばたく姿勢——そのままで。
蝶が羽を失って這い回り、干からびて死ぬのが良いのだろうか。
それとも、優雅なまま蜘蛛の巣に掛かり、剥製になる方がマシなのだろうか。
『正解は分からないわね』
考えるのは人。
決して蝶ではないのだから。
クルックス・フィアラ(Crux Fiala)は雑念を消し、仕事を仕上げた。
閉ざされた部屋の扉。
それを開けると、外にいる警護員たちがクルックスを見つめていた。
「完了しました。行けばいいですか?」
クルックスは目を合わせない。
床を見る視線のまま、警護員たちに告げた。
「少しこちらへ」
警護員は両側からクルックスの手を掴み、別の場所へ引きずっていく。
華奢な腕。
体格と体重の差がありすぎるため、抵抗は不可能だ。
クルックスの細い腕と脚。
義体があったとしても、せいぜい医療用の義体程度だろう。
「お二人とも家族がいらっしゃらないのですね」
しかし、警護員の二人を止めるのに、大きな腕力や義体は必要なかった。
ただ一言——それで、その場に立ち止まらせることができた。
「お二人ともメビウス企業の出身。管理者27号の手で育ちました。兄弟のような間柄ですね。使用している義体は大部分がヘラクレスですね。義体制御プログラムはメビウスで作られていて。最大出力と最小出力は……」
クルックスの言葉は止まらない。
警護員と一度も目を合わせることなく、身体仕様をことごとく知っていた。
警護員は戸惑った。
僅かな記憶——この女はそれを全て知り尽くしていたからだ。
いっそ今攻撃して殺した方がマシではないか。
そう悩んだものの、計画から外れるため判断がつかなかった。
「……中にいらっしゃる議員様とは関係ありません。我々(われわれ)補佐陣の判断に過ぎません」
警護員が引きずっていこうとした小さな部屋。
そこから、黒いスーツを着た人が扉を開けて近づいてきた。
きっちりとしたオールバックの髪。
黒い手袋を嵌めた手。
闇の中で顔だけがぽつんと浮かんでいるようだった。
窓の外の暗い夜が、なおさらそう見せていた。
「分かっています。先程まで記憶を見ていたのは私ですから」
クルックスは淡々(たんたん)と言った。
サラサラと揺れる、赤く長い髪。
固まった警護員を後にし、スーツを着た人に向かって歩き出す。
「私の過去は読まないでいただきましょう」
「……」
クルックスは目を合わせないまま、静かに歩いていた。
ふかふかした靴。
大きなリビングを横切る間、全く音を立てさせなかった。
「私を殺すおつもりですか?」
あからさまに尋ねながらも、目は合わせない。
静かに床を見つめる瞳——自分の最期を質問しただけだった。
「抵抗なさらないのであれば……恐らく薬物になるでしょう。かなり高級な薬品なので、苦痛はないはずです」
すでに殺すことは確定しているかのように、スーツを着た人が言った。
「議員様が消した記憶は、もはや私だけが知っていますね」
「だから仕方ないのです。我々(われわれ)は議員様のためにこのような決定を下すしかありませんでした」
「独断ということですか?」
「はい。独断ですが……議員様は何も知らないでしょう。あなたが記憶を操作したのですから、『少し早く寝て起きた』と思いながら明日を始めるでしょう」
懐からスプリング式の注射器を取り出した男。
彼はクルックスに一歩近づいた。
しかし、クルックスは何の反応も示さず、ただ床を見つめるだけだった。
「私がもっと必要ではないでしょうか?」
しかし、男を止めるには一言で十分だった。
クルックスは肩紐のない白いワンピースを着た女だ。
せいぜい活動用か趣味用の義体程度。
入る前に身体検査をされたが、武器は何も持っていなかった。
2メートルを超える体格の警護員ではない。
義体のない一般人に棍棒を一本握らせるだけでも、殴り殺せるだろう。
しかし——この部屋にいる誰も、クルックスを攻撃できなかった。
「どういう、意味でしょうか……?」
手を後ろに回す男の表情はぎこちない。
震える手を後ろに隠したものの、声の震えまでは隠しきれなかった。
「These Violent Delights Have Violent Ends(このような激しい喜びは、このような激しい終末を迎えるであろう)。〔シェイクスピア ロミオとジュリエット 2幕6場中。ロレンス修道士のセリフ〕
議員様が他の人を強姦するのは……今回が最後でしょうか?」
「……」
「アリバイが成立するように周囲と口裏を合わせられましたが、捜査機関が使用する記憶探索機は避けられないため、私をお呼びになったのでしょう。今回の件については見逃されるかもしれませんが、同じ事が発生しないという保証はありません」
「ならば別の記憶修正士を呼ぶまでだ」
「捜査機関の記憶探索機を避けられる修正士をですか?」
ここにいる全員が知っていた。
そんな記憶修正士は簡単には見つからない。
恐らくこの都市では、クルックスが唯一——。
「では、私は失礼します」
出て行くクルックスを誰も引き留められなかった。
余裕のある足取りで、ペントハウスのエレベーターへ向かう。
「……名刺を一枚だけ頂けないだろうか?」
クルックスはハンドバッグから自分の紙の名刺を取り出して渡した。
「それと、議員様、妊娠と性病の検査は受けておいた方がいいですよ。強姦された男性の方が淫乱だという噂があったそうですから。議員様も心配していました」
エレベーターが閉まった。
「はぁ……」
車に乗ったクルックスは深くため息を吐いた。
全て辞めてしまいたかった。
彼女の仕事は、醜悪な真実を隠蔽する仕事。
捜査機関で使用される記憶探索機を避けなければならないからだ。
大金を払えるほどの上流層が、自分の過ちを揉み消すために。
そして仕事が終われば、その事実を知っているのは彼女だけ。
だから状況を見て殺そうとしてくる。
もちろん、当事者がそう指示を出せば、記憶を通じてクルックスにバレてしまう。
ゆえに、周囲の人間たちが密かに結託したりしていた。
捜査機関ではもう尋問や聞き込み、取調べを行わない。
記憶を直接探索できるので必要なくなったのだ。
当時の意図や感情、思考まで全て見通せるようになったため。
法の執行は透明で潔いものになった——と、マスコミでは主張していた。
「最悪ね」
だから彼女はこの仕事をひどく嫌っていた。
現行の司法体系の穴を作る役割。
そして、被害者を殺す仕事だからだ。
「クソッ。胸糞悪い女……」
たった今記憶を調整した人間は、クズの中のクズだった。
その男に気があることを知っていながら。
薬を飲ませ、眼帯を着けさせたまま強姦した。
他の理由でもない。純粋に自分がもっと気持ち良くなりたかったから——。




