2. ガラクタ機械(きかい)の存在価値(そんざいかち) (11)
ガラクタ機械の存在価値 (11)
むさ苦しい毛布を被った路上生活者。
そんな者に関心を向ける者はいない。
それが「最悪のどん底都市」という異名を持つアスフォデルであればなおさらだ。
施しをする人々(ひとびと)はとっくに消えていた。
その路上生活者を騙そうと近づく者ばかりが溢れている。
だからいまや逆に、路上生活者のほうが人を避けるようになっていた。
ただ静かに朽ちていく自由をくれ——。
とでも、言わんばかりに。
「こんにちは。」
しかし今日は、ひどく奇妙な光景が広がっていた。
アスフォデル内部のチャイナタウン。
中でも最も奥まった路地裏にいる路上生活者に、誰かが声をかけていた。
一日前にここへ流れ着いた、茶色の布を被った平凡な路上生活者だ。
変わった点といえば、袋小路で何もせずただ立っているということくらいだろうか。
訪ねてきたのは一人ではなく、男と女のカップルだった。
女は暴力を受けたのだろうか。
左のまぶたが青紫色に腫れ上がっていた。
服の上からも、所々(ところどころ)に青い痣が見える。
そして左手だけに手袋をしているのが、少し異質だった。
「うぐ……」
男は歩くのが不自由なのか、少し足を引きずっている。
時折、青い痣だらけの腰を手で揉んでいた。
「あの、お名前はありますか?」
女は非武装状態だった。
男は腰に拳銃を一つ差している。
——だがそれは、この都市では必需品なので誰も怪しまない。
むしろこれほど路上生活者が多いスラム街に来るには、手薄な武装ぶりだった。
「……」
路上生活者は黙ったまま、動きもしなかった。
「わたしは有栖と申します。こんな形でお会いすることになって、本当に申し訳なく思っています。」
有栖は左手を差し出した。
そして外套をわずかに下げ、左腕がまだ万全ではないことを見せる。
アベルは有栖の後ろで少し引き下がった。
両手を頭の高さまで上げ、武器を持っていないことを示した。
「何のつもりですか。」
毛布の下から聞こえる声。
それは、思いのほか人間的で自然だった。
自然で男性的な声に、アベルと有栖は驚いた表情を見せた。
「思ったより声がいいですね。握手というものをご存じですか?」
「中世の騎士たちが相手と戦う意思がないことを示すために、手に武器がないことを証明しようと右手を差し出して握ったことが、挨拶の作法の由来となった。と言われていますね。」
情報を述べるときの声には、抑揚がまったくなかった。
百科事典を機械が代読しているような感覚に近かった。
「よくご存じですね。わたしと握手するのは嫌ですか?」
有栖の言葉にも反応がなかった、毛布の中の者。
しばらくの後、恐る恐る左手を伸ばした。
その手は銀色の金属製だった。
大きな亀裂と長い穴が開いている。
冷たく温もりのないその手は、有栖の義体と握り合った。
包帯と手袋でかろうじて手の形を保っている、有栖の義体と。
「あはは。ありがとう。わたしの義体が壊れているから、どんな感触なのかよくわからないんですけどね。」
「わたしも、人の感触は……わかりません。」
互いの感触がわからない二つの機械が、手を握り合った。
お互いの体温はわからない。
しかし、握手の意味は十分に伝わっていた。
「見ての通り、戦う気はないよ。俺たちはただ……話がしたいだけだ。」
アベルが割り込んで言う。
すると、毛布を被った者は慎重な態度で毛布を脇へ払いのけた。
アベルと有栖がロボットに与えた損傷が、そのまま残っている。
左の肩と腹部は、内部が丸見えになるほど大きく壊れていた。
「どんな話がしたいのですか?」
目の前にいるのは感情のないロボットのはずだ。
それなのに、話し方の抑揚と仕草から怒りが滲み出ていた。
アベルは、自分が壊したロボットの赤い瞳をまっすぐ見つめた。
「あなたは自分を人間だと思っているでしょう?」
ロボットからパチパチと火花が散った。
過熱した回路と、不安定な動作反応による軽い短絡だ。
すでに昨日の戦闘で、ロボットの体はボロボロになっていた。
——わずかでも動きにエラーが生じればこうなる。
「いいえ。人間ではありません。わたしの体を見ればわからないんですか? わたしは……」
ロボットは怒っていた。
感情に関わる回路に過負荷がかかっているのだろうか。
むき出しになった腹部の中で、激しく火花が散った。
そして語調と発音の強さは、どう聞いても怒っている人の声だった。
「人間だな、これは。」
「うん。人間だよ。」
アベルと有栖はロボットを無視して顔を見合わせた。
そして、人間だと断言した。
その言葉にかえってロボットが戸惑い、二人を交互に見る。
「あの、何が……?」
「もうアンドロイドというカテゴリーに収めるには、意識体系がかなり変容しているから。」
頭を掻いたアベルは、ため息をついて言った。
有栖はロボットを見て頷いた。
「あなたが答えてみて。ロボットが移送中に固定装置が外れたとしたら、何をするだろう?」
「別途の命令を受けていなければ、そのまま待っているはずです。」
「でも、あなたは飛び出していったでしょう?」
アベルと話していたアルファという要員。
彼は「移送中にトラックを蹴り破って飛び出した」と言っていた。
その状況でアベルを騙す理由もない。
間違いなく真実だろう。
「実験は長期間続いていたはずだよ。部品を替えて、反応を見て、測定して、データを収集して新しい部品を取り付けて……自分の経験から学習する人工知能は、どんな方向に発展したんだろうか?」
痛かっただろう。
悲しかったはずだ。
たとえ部品であっても、自分の一部だったもの。
それが、意思とは関係なく切り離されていったのだから。
「怒ったんだろう。俺たちと戦う前に、捕まえに来た者たちを攻撃したことからも、明らかに怒りが感じられた。死んだ後も遺体を掘り返すほどだったから。合理と効率を優先する機械は、そんなことはしない。」
「どうあれあなたは、自分の境遇と苦痛を理解して自ら脱出したんでしょう? 自分の運命と境遇を切り開いていく存在を、わたしたちは人間と呼ぶ。」
アベルと有栖がロボットに言った。
ロボットは、動かす必要のないあごを動かした。
何か言葉を慎重に選ぶように、口をもごもごさせる。
「そして俺たちが生き延びられたのは……おそらくあなたがロボットではなく人間のように振る舞っていたからだろう。」
アベルが苦笑いしながら言う。
すると有栖はしばらくして、アベルを見て細目を作った。
「うーん。いや、それはちょっと言い過ぎかな。もう少し骨が折れていたと思うけど。」
「どう考えても近接戦はほぼ互角だったんだけど?」
「あんたの射撃が頼りなかったからでしょ! わたしは最後の瞬間まで、まともにダメージを受けずに攻撃を積み上げていたんだから!」
「いや、そもそもお前が『この程度なら余裕』って大口を叩いたから俺は牽制に徹したんだろ! 俺は戦闘開始して一弾倉使う前に、きっちり制圧して無力化できると思っていたんだから!」
「わたしだってそのつもりだったわよ! まさかあんたが一発も当てられないとは思わなかったわよ! それと、なんで後ろから近づいていたのにバレたと思って叫んだのよ!?」
「歪曲場があるから当たるとはお互い期待していない状況だったじゃないか! それに録音を調べたら微かにセンサーの動きがあったんだよ。俺はちゃんと状況を伝えたぞ!」
「ふん。わたしの耳には全然聞こえなかったんだけど?!」
「10年以上センサーとソフトウェアを扱ってきたエンジニアを舐めるな。どんなセンサーかがわかれば、外部に反応がなくても直感でわかるんだよ!」
「へぇへぇへぇへぇ。じゃあその大した直感で戦闘もやってみればよかったんじゃない!?」
「おい。あの状況で誤射せずに、誤差1cm以下で射撃するのが簡単だと思ってるのか?! それに近接戦もそれなりにできるぞ!」
「くそっ!」
「俺はくそじゃ……うぐ!?」
とうとう有栖は、アベルの痛めた左腰をぐっと突いた。
アベルはうぐぐぐ、という声を上げながら、腰を押さえて片ひざをつく。
ロボットと戦って傷んだ腰を突かれたのだ。
——本当につらいだろう。
「あ、ははは……ぷははははは!」
その様子を見て、ロボットが笑っていた。
「うぐ……暴力的な女だな。モテないだろ、お前?」
「繊細さのかけらもない男だな。あんたの口から、誰かにこれほど頼りにしたのが初めてだって言わせたいの?!」
「え? なに?」
「知らない!」
「うぐ!」
再び有栖が、アベルの腰を右手の指でぐっと突いた。
アベルは何か言おうとした。
だが、これ以上言ったら今日は車椅子で作業場に帰ることになりそうだ。
だから、とりあえずやめておく。
目の前では、ロボットが人間を見て笑っている。
そんな珍しい光景が広がっていることもあって。
「こほん。え……まあ、とにかく。あなたは学習した通りに、人間の動きを真似てわたしたちに対応したんだよね。違う?」
アベルが有栖を睨んでから、あらためて空咳をする。
そしてロボットに問い返した。
片手はまだ腰にあった。
「ははは……はい、そうです。」
ロボットは顔の人工皮膚と塗装がほとんど剥げ落ちていた。
それでも、かろうじて動く口で笑顔を保っている。
まだ慣れていないその表情は、少しぎこちない。
だが少なくとも、その笑顔が純粋なものであることは十分わかった。
「そう。あなたはやろうと思えば体を回転させるんじゃなく、肩を伸ばしたり、腰の部分を回したり、人間には動かせない方向に稼働して圧迫することもできたはずだ。でも……ただ人間の武術を学習した通りにそのまま使うだけだった。」
「うん。わたしが思うに、あれは確かに人間をそのまま移したような動きだった。だからわたしも避けられた。」
有栖が難なく避けられた理由の一つがそれだった。
本当に教本通りに綺麗に決まった動き。
だからこそ、むしろ予測しやすかったのだ。
込められた力が人間の力をはるかに上回っていても。
振り方がひたすら教本通りだから、動きが読めた。
「あなたは人間になりたくて人間を真似ていた。違う?」
アベルはロボットを見上げながら問いかけた。
まさに核心を突かれたのか、ロボットは小さく頷く。
しかしその小さな動きすら無理があるらしい。
駆動系内部の液体が、後ろの壁に飛び散った。
「あなたが本当にロボットで、俺たちを処理しなければと判断していたなら、リアクターを過負荷させて核融合反応で一緒に自爆していたはずだ。でも命令もなしに自律的に動き、自分がしたいことをした。」
「そうです。わたしは人間になりたいです。でも……」
ロボットはわずかに顔を向けて、自分の右腕を見た。
有栖が斧を振るって切り落とした、ひじから下には何もない。
電線と金属の外装がそのまま剥き出しになっていた。
どこからどう見ても人間のものとは言えない、ロボットの体だった。
「俺たちが受けた仕事は人を殺すことじゃない。」
「わたしは……ロボットなんですよ。わたしの、機械としての存在価値は……」
「それとは関係ない。あなたは自分の意志で人間になりたいという願いを抱いた。そして自分が置かれた現実を変えようと努力した。」
有栖はそう言いながらつま先立ちになった。
右手でロボットの頭を撫で……ようとしたが、背が届かない。
真っすぐ立ち直してから、腕を伸ばしてほおを撫でた。
「わたしはそういう人が、嫌いじゃない。人間として自分の価値を探してみたらどうかな?」
ただの金属の感触。
あちこち塗装と皮膚が剥げ、不快感すら覚えそうな外見だったが……。
有栖は気にせず、ロボットを撫でてあげた。
「お互い事情があってぶつかることになったけれど、わたしたちが受けた仕事は人間じゃなくてロボットを止めることだった。でも、あなたが人間だからわたしたちも態度を変えているわけで。」
「わたしは機械……ですよね。」
泣き出しそうな声がした。
今にも泣き崩れそうな子供のように、ノイズがひどく混じる。
ためらいがちな話し方も混ざっていた。
「ここと……」
アベルが指で、ロボットの胸をそっと触れる。
そして自分の胸を指した。
「ここに、どれだけ差があると言うんだ?」
確かに、人の感触を知らないロボットのはずだ。
確かに、何の感情もないはずのロボットだ。
——なのに。
もう機能しない赤い瞳の隙間から、レンズ洗浄液が流れ出た。
「……わたしは月を見て、美しいと思いました。」
ロボットの言葉に、アベルは頷く。
疑問が解けたとばかりに。
「それで戦闘記録を見ると、月がよく見えるビルで戦っていたわけか。隠れるなら下水道や上水道、地下施設のほうがよかっただろうに。」
「わあ。ロマンチックだ。月を見て美しいと思ったから、そこにいたんだね!」
有栖も目をキラキラさせてロボットを見た。
とても興味深くて、ロマンチックな話だと感じているようだった。
「でも、わたしの存在価値はそれではないはずです。戦闘のためのロボットが景色を見て美しいと感じるのは、『不要な』機能のはずです。」
アベルはロボットの言葉に首を振った。
「さあ。人間を機械に例えると……ただのゴミじゃないか? 燃費が悪くて、専用のインタープリタとコンパイラが必要で、通信にも別途機器が要る……アナログしか処理できないゴミ機械だろう。」
「でも人間は機械じゃないでしょう。」
「人間は時に、機械よりもはるかに機械的に生きることがある。自分が進む理由と、生きるための問い掛けを捨てながら。」
「……なぜですか?」
ロボットは明らかに戸惑っていた。
まだ、人間というものを知識としてしか知らないこの存在。
彼にとって、人間は完全無欠な存在なのだろう。
何もかもを主体的に選ぶ、神のような存在だと。
アベルはそこへ向かって「違う」と楔を打っているところだった。
「それでもいいから。人間の存在価値は誰も定めていないから。人生が辛くて、目的地や目標がぶれて、一日一日生き延びることすら苦しい人もいる。だから成り行きで生きるわけだ。」
誰かを捕まえて「あなたはなぜ生まれたのか?」と問えば。
おそらく、誰も答えられないだろう。
地球上に一人として、そんな人間はいないからだ。
歴史的な使命と義務を背負ってこの世に生まれてきた人間など。
「人間の価値は、その人が死んだ後に残された人々(ひとびと)が、思い出しながら定めるものだよ。その人が生きていった軌跡を、わたしたちは人生と呼ぶ。」
ロボットは驚いたようにあごを開け、ためらった。
アベルの言葉が、よほど衝撃的だったようだ。
アベルにとっても、これ以上ないほど衝撃的なロボットの姿だった。
自ら行動を決め、月を見て美しいと感じるロボット。
そんな存在が、どう生きればいいかわからずにためらっているのだから。
ロボットが哲学的な思索をして、悩み、葛藤し、衝撃を受ける。
そうして自分の意識体系を変化させていた。
人間のように世界と向き合うロボット。
それを見て、アベルは心から思っていた。
昨日、このロボットが停止しなくてよかった、と。
「だから……わたしたちはあなたに、選べる余地を与えようとしている。」
アベルは懐から記憶装置を取り出しながら言った。
「わたしが……選択、ですか?」
「もうあなたはあのコンテナから抜け出した時点で選択していた。衝動的な選択だったかもしれないし、自分が選択したという自覚はなかったかもしれないけど。」
その時点から、目の前にいる機械は変わっていた。
単なる無生物のカテゴリーには入れにくい存在に。
——本人が気づいていなかっただけで。
「一つ目は、このまま一生逃げ続けて、結局リアクターが損傷して周囲を核の炎で吹き飛ばす爆弾になること。
おそらく最後にわたしたちを押し飛ばしたのは、隠蔽場と歪曲場モジュールを過負荷させて衝撃波を作り出したものだろう。あなたには確かに自分を破壊する自由もある。だから世界を壊すと言うなら、止める方法はないだろう。」
有栖は、アベルの言葉が不快なのか顔をしかめた。
作業場で話すときは、穏やかに話すと言っていたのだ。
驚くのも無理はない。
ここまで直接的に言う必要はないのに。
「二つ目はここにある記憶装置に入ること。アンドロイドをゼロから作れるだけの技術も資金もないけれど……別の体を用意できるように努力してみる。その間は専用サーバーに置くことになるとは思うけど。」
ロボットは聞くや否や、人工知能で高速処理を終えた。
しかし、この人たちの反応が気になる。
だから、少し間を置いて返答を保留した。
「選択はあなた次第だよ。」
しかし、誰も急かさなかった。
どんな選択でも尊重する。
とでも言わんばかりに。
ロボットとして、人間を殺す爆弾になるのか。
それとも人間として、人生を生きてみるのか。
この存在は、自分の運命を選択する自由さえ持っていた。
「わたしは……」
そしてロボットは、自分の未来を選択した。




