45:虚空の賢者
45:虚空の賢者
アルシアの海底で息を潜めていたゼラは、海水と同化しながら必死に再生していた。
(……危なかった……あの勇者……強すぎる……)
雷撃の痛みがまだ残っている。
だが、それ以上に――
(……空間転移……あれがあれば……俺も……)
アンゲラスの動きは、ゼラの心に強烈な衝撃を残した。
“どこからでも現れ、どこへでも消える”、“攻撃を避け、死角から襲う”、“逃げることすら許さない”。
(……あれがあれば……俺は……もっと強くなれる……!誰も傷つけずに済む……!誰も失わずに済む……!)
ゼラの胸に、“空間転移への渇望”が芽生えた。
ゼラは海底を這い、潮の流れに乗って遠くへ移動した。
海水と同化した身体は、雷鳴の勇者の追跡を完全に逃れていた。
(……絶対に手に入れてやる……空間転移の力……!)
その時だった。
海の底――深い闇の向こうから、声がした。
『……空間を求める者よ……』
(……誰だ?)
ゼラは周囲を見渡したが、誰もいない。
ただ、海の闇が揺らめいているだけ。
『……来い……虚空の底へ……空間を裂く術を求めるなら……』
その声は、海流のように静かで、しかし抗いがたい力を持っていた。
ゼラは闇へと吸い寄せられるように進んだ。
やがて、海底の岩盤が裂け、“空間そのものが歪んだ穴”が現れた。
黒い亀裂の中心には、巨大な魔法陣と鎖が絡みついている。
(……封印……?)
その中心に、影のような存在が囚われていた。
そこはまるで海底の牢獄であった。
輪郭は常に揺らぎ、空間そのものが形を作っているような異形。
その存在は、静かに名乗った。
「我は――ヴォイド=エルム。空間魔法を極めし者にして、虚空の賢者と呼ばれ……この世界に“危険すぎる”と封じられた者だ」
(封じられた……?)
* * *
ヴォイド=エルムは淡々と語った。
「かつて我は、空間を操り、世界の境界を越えようとした。その力は魔族にも人間にも恐れられ、“世界の理を乱す者”として封印されたのだ」
ゼラは息を呑んだ。
(……そんな存在が……俺を呼んだのか)
「お前は空間転移を求めている。だが、その力は危険だ。扱いを誤れば、己の核を砕き、消滅する」
「……それでも、欲しいんです」
ゼラは迷わず言った。
「俺は……強くなりたい。誰も傷つけずに済む力が欲しい。逃げずに済む力が……!」
ヴォイドの揺らめく輪郭が、わずかに震えた。
「……ならば、取引をしようではないか。この封印を解け。さすれば代わりに、お前に空間転移を教える」
ゼラは驚いた。
「封印を……解く?そんなこと、俺にできるのか?」
「お前は“核”が柔軟だ。スライムは空間魔法と相性が良い。触れれば、封印の魔力を吸収し、我を解放できるだろう」
(……俺が……封印を……?)
ゼラは迷った。
封印されているということは、ヴォイド=エルムは危険な存在なのかもしれない。
だが――ゼラの胸には、アンゲラスの雷光が焼きついていた。
(……あの力がなければ……俺はまた、大切なものを失う……)
ゼラは決意した。
「……わかった。あなたを解放する。その代わり、空間転移を教えてもらう!」
ヴォイド=エルムは静かに頷いた。
「よかろう。お前は今日より――虚空の徒。我が弟子だ」
* * *
ゼラは封印の魔法陣に触れた。
瞬間、膨大な魔力がゼラの身体に流れ込む。
「う、ぐ……っ!!」
粘体が震え、核が軋む。
空間が歪み、海が揺れる。
だがゼラは離さなかった。
(……負けない……!俺は……強くなるんだ……!)
封印の鎖が一本、また一本と砕けていく。
そして――最後の鎖が砕けた。
虚空の賢者ヴォイド=エルムが、ゆっくりと解き放たれた。
「……よくやった。その“折れぬ核”こそ、空間魔法の素質だ」
ゼラはその場に崩れ落ちた。
(……やった……のか……?)
ヴォイド=エルムはゼラの前に立ち、静かに手を差し伸べた。
「来い、ゼラ。虚空の底で、空間の理を教えよう。お前が求める“瞬間移動”の力をな」
ゼラはその手を取った。
次の瞬間、世界が裏返り、ゼラは“虚空”へと吸い込まれた。
こうして――ゼラは空間転移を学ぶための修行を始める。
それは、魔王軍の訓練よりも、グラズの地獄の鍛錬よりも、はるかに苛烈で危険な道だった。
* * *
ヴォイドの手を取った瞬間、ゼラの身体は“裏返った”。
上下も前後もない空間に投げ出され、
重力も音も光も存在しない“虚空”へと落ちていく。
(……ここ……どこ……?)
ゼラの身体は粘体であるにもかかわらず、虚空の圧力に押し潰されそうになっていた。
「落ち着け。虚空は“形のない世界”。己の核が揺らげば、存在そのものが消える」
ヴォイド=エルムの声だけが、はっきりと響いた。
「まずは“存在を保つ”ことを学ぶのだ」
虚空では、ゼラの身体は常に分解され続ける。
粘体が霧散し、核が露出し、その核すら虚空に溶けようとする。
(……やばい……! このままじゃ……!)
「核を固めろ。“自分はここにいる”と強く念じろ」
ゼラは必死に意識を集中させた。
(俺は……ゼラだ……!消えない……!)
核が震え、粘体が再構成される。
「よし。虚空で存在を保てるなら、空間魔法の基礎は身についたといえよう」
ゼラは息をついた。
(……これだけで……死ぬかと思った……)
* * *
「次は“空間の流れ”を感じろ」
ヴォイド=エルムが指を鳴らすと、虚空に無数の“裂け目”が生まれた。
それは光でも影でもなく、ただ“空間の継ぎ目”だけが見える奇妙な線。
「空間は常に揺らぎ、歪み、流れている。その流れを掴めなければ、転移は不可能だ」
ゼラは触手を伸ばし、裂け目に触れようとした。
――瞬間、触手が消えた。
「ぎゃあああああああっ!?な、なんで!?」
「空間の流れを読めぬ者が触れれば、存在の一部が“別の場所”へ飛ばされる」
(……怖すぎる……!)
だが、ゼラは諦めなかった。
何度も触手を伸ばし、何度も消され、そのたびに核を震わせて再生した。
やがて――ゼラは“空間の揺らぎ”を感じ取れるようになった。
「……これが……空間……?」
「そうだ。お前はもう、空間魔法の入口に立っている」
* * *
「よし次の段階だ。次は“跳べ”。空間を裂き、別の場所へ移動するのだ」
「いきなり!? 無理ですよ!」
「跳べ」
ヴォイド=エルムの声は冷たく、しかしどこかグラズに似た“信頼”があった。
(……やるしかない……!)
ゼラは空間の裂け目に触れ、核を震わせ、意識を集中させた。
(ここじゃない……別の場所へ……!)
虚空が揺れ、ゼラの身体が引き裂かれ――次の瞬間、ゼラは“別の裂け目”から飛び出した。
「……やった……!?俺……跳んだ……!」
「まだ不完全だ。だが、初めてにしては上出来だ」
ゼラの胸に、確かな手応えが生まれた。
ゼラは、それから何度も空間を跳躍した。
虚空が波立ち、再び静まり返る。
「……終わった……?」
「よくやった、ゼラ。これでお前は――空間転移を扱う資格を得た」
ヴォイド=エルムが手をかざすと、ゼラの核に“空間の紋”が刻まれた。
「これでお前は、短距離の空間転移を使える。だが、まだ未熟だ。あとは実戦で感覚を磨くのだ」
ゼラは拳を握った。
(……やっと……手に入れた……!アンゲラスのような……あの力を……!)
虚空が揺れ、出口が開く。
「行け、ゼラ。お前の戦場へ。そして――必要な時は呼べ。我はお前の師だ」
ゼラは深く頭を下げた。
「……ありがとうございました、師匠!」
ゼラは虚空を跳び、現実世界へと戻っていった。




