32:禁忌
32:禁忌
ゴブリンの巣を離れたゼラは、森の奥へと歩いていた。
木々のざわめきが、どこか冷たく感じる。
(……俺は、何をやってるんだろうな)
人間に認められたい。
魔族の未来のために動きたい。
その気持ちは本物だ。
だが現実は――“魔物”として恐れられるだけ。
そんな時だった。
木々の間に、一軒のあばら家が見えた。
軒先には、何かの骨や干したイモリがぶら下がっている。
(うお。めっちゃ怪しい)
家の中を窺っていると、
「お入り」
と、こちらの存在を見透かすような声がした。
「お邪魔しまーす……」
ゼラは恐る恐る足を踏み入れた。
家の中は薬品の匂いで満ちている。
奥には、椅子に腰かけた老婆が、じっとこちらを見ていた。
「お前、魔物のくせに礼儀正しいね。それに魔物特有の荒々しさがない」
「あなたは、俺が怖くないのか?」
ゼラが問うと、老婆は爆ぜるように笑い出した。
「ひゃひゃひゃひゃひゃ。この“森の魔女”に怖いものだって?」
「だって、あなたは人間。俺は魔物だ」
「お前、人間になりたいんだろう?」
ゼラは息を呑んだ。
「……魔族の誤解を解きたい。そのためには、人間と対話して……」
「ふん。お前の姿では無理だね。人間は“見た目”で判断するものだから」
魔女は立ち上がり、戸棚から黒い書物を取り出した。
「ひとつ、忌まわしい方法がある」
「忌まわしい……?」
「“皮衣の術”。未熟な悪魔どもが人間に化ける技だよ。人間の死体の中に入り込み、中身を溶かし、皮を被る。まあ、生きた人間でもいいんだけどね。そうすれば、人間として歩ける」
ゼラは言葉を失った。
「そんな……」
「無理にとは言わないさ。でも、それ以外でお前が人間と話し合う方法なんざ、無いだろうけどね」
魔女の声は、静かで、残酷で、優しかった。
「二つ注意することがある――一つ目は、人間の皮を被ろうとも、その瞳は再現できないってことだ。瞳は魂の窓だから、術では再現できないからね。二つ目はこの術が人間にばれた時には、今以上に忌み嫌われることになるよ?」
「覚悟はしている。俺は……もう後戻りできない」
「まあ、頑張りな。記録によると、不自然な動きで見破られることが多かったそうだ」
魔女は書物を閉じ、ゼラに向き直った。
「人間になりたいなら、“人間らしさ”も学ぶんだよ」
* * *
ゼラは、森の魔女に礼を言い、暗い森を進んだ。
倒木にもたれかかるようにして、若い旅人が息絶えていた。
外傷はない。おそらく、毒か病か、あるいは疲労で倒れたのだろう。
その顔は穏やかで、まるで眠っているようだった。
”敵ではない”人間の死体に手を出すのは、先の戦で多くの将兵の命を奪ったゼラでも、さすがに躊躇われた。
(……ごめん。でも、俺には……これしかないんだ)
ゼラは旅人の前に膝をついた。心の中で手を合わせ、静かに目を閉じる。
「……安らかに眠ってくれ。お前の体は、無駄にしない」
森の風が、わずかに吹いた。
ゼラは深く息を吸い、その死体の鼻腔から中へ潜り込んだ。
皮膚の下へ。
筋肉の隙間へ。
骨の周りへ。
筋肉を溶かす。
骨を溶かす。
内臓を溶かす。
音はしない。
ただ、静かに、静かに――“中身”が消えていく。
残るのは、皮だけ。
かつて旅人だった“殻”。
ゼラはゆっくりと形を整えた。
粘体が皮の内側に広がり、筋肉の代わりとなり、骨の代わりとなり、旅人の姿を“内側から支える”。
皮のたるみと服装の乱れを整える。
指が動く。
腕が動く。
足が動く。
ゼラは立ち上がった。
そこにいたのは――旅人と寸分違わぬ姿の“人間”だった。
ゼラにとって実に久しぶりの人間の姿。
ゼラは震える手を見つめた。
「……これが、“皮衣の術”……」
ゼラは深く息を吸った。
(これで……人間の中に入れる。魔族の未来のために……俺は、やる)
旅人の荷物を拾い、肩にかける。
試しに歩いてみるが、どこかぎこちない動きになってしまう。
水たまりに顔を映してみると、見開いた目には瞳がなく、半透明のスライムの粘体が見えるばかりであった。
「動きは練習でどうにかなりそうだけど……この目は、どうしたものか……」
ひとまず、ぼろ布を両目部分に巻き付け、拾った枝を杖代わりにする。
「こうすれば盲目の旅人に見えなくもないだろ」
森の出口へ向かって歩き出すゼラの姿は、もう“魔物”ではなかった。
だが――その歩みの奥底には、魔族のために禁忌を背負った者の、静かな決意があった。
* * *
森を抜けるまでの道のりは、思った以上に長かった。
いつもより、高い視点は新鮮で楽しかった。
人間の皮をまとった身体は、確かに動く。歩ける。
だが、筋肉の動きひとつひとつを“再現”しているだけで、本物の人間のような自然さはまだなかった。
喋る時にも、意識して口を動かさないと、腹話術師のようになってしまう。
(……これじゃ、すぐに怪しまれるな)
ゼラは歩きながら、腕の振り方、足の運び方を何度も調整した。
皮の内側で粘体が微妙に形を変え、筋肉の動きを模倣する。
だが、ぎこちなさは完全には消えない。
森の出口が見えた頃、ゼラはふと立ち止まった。
(俺は……本当に“人間”になりたいわけじゃない。魔族が虐げられない世界を作りたいだけだ)
そのために、人間の皮を被る。
禁忌を背負い、嘘をつき、偽りの姿で歩く。
ゼラは拳を握りしめた。
旅人の皮の下で、粘体がわずかに震える。
「……よし。やるしかない」
森の外には、人間の街道が続いている。
商人、旅人、兵士――人間たちの世界が、そこにあった。
ゼラは深く息を吸い、盲目の旅人を装ったまま、ゆっくりと歩き出した。




