25:湖と毒沼
25:湖と毒沼
ゼルギウスに先へ行くように言われた、湖沼の勇者マルスと黒鉄の勇者ラグナは先を急いでいた。
「いやあ。あの怪獣同士の争いに巻き込まれなくてラッキーだったな」
マルスが軽口を叩く。
「いや。そうとも限らんぞ」
急に立ち止まったラグナが冷や汗をかきながら言った。マルスも慌てて立ち止まる。
濃密な魔力の気配を感じる。
「やあ!遅かったね」
待ち合わせしていた友に掛ける様な言葉――二人の行く手を阻むのは、やはり二人の人影だった。
声を掛けてきたのは黒紫のスーツを着た男。燃えるような赤い肌に黒い髭を蓄えている――悪魔王ヴェルゼ。
甲殻に覆われた巨躯はコーカサスオオカブトとカミキリムシを混ぜ合わせたような姿。四本腕の内、二本は腕を組み、あとの二本は長柄の武器を構えている――蟲将軍グラズ。
ここはアビスフェルド南方の湿地帯。
夜の闇が濃く、地面はぬかるみ、腐葉土の匂いが鼻を刺す。
湖沼の勇者マルスは、腰の水袋にそっと触れた。
(……ここは、俺の得意な地形のはずだ)
だが、胸の奥に広がるのは不安だった。
「グラズ。あのゴツいのは好みじゃない。お前にくれてやる。ボクはこっちをもらうぜ」
ヴェルゼが腕を広げると、周囲の湿地が黒く染まり始めた。
水面に浮かぶ泡が破裂し、毒の霧が立ち上る。
(……まずい。あれを吸えば終わりだ)
マルスは腰の水袋に触れ、静かに呟いた。
「――出てこい。リュミエル」
水袋から透明な水が溢れ、空中で渦を巻く。
やがて少女の姿をした水の精霊が現れた。
『マルス、気をつけて。あの魔族……水を腐らせる力がある』
「わかってる。けど、やるしかない」
マルスは魔剣を抜いた。
湖の貴婦人から授かった、青い刃を持つ魔剣――アクアレーヴ。
「おお。怖い。怖い」
ヴェルゼがおどけたように笑う。
地面が揺れ、黒い沼が波打つ。
次の瞬間、沼から無数の触手が伸び、マルスへ襲いかかった。
「リュミエル!」
『うん!』
水の精霊が腕を広げると、透明な水の壁が立ち上がり、触手を弾いた。
だが、触れた部分が黒く濁り、腐り始める。
『マルス……! この毒、強すぎる……!』
「大丈夫だ、無理するな!」
マルスは跳び退き、魔剣を振るった。
青い斬撃が水の刃となって飛び、触手を切り裂く。
だが、切り裂かれた触手はすぐに沼へ溶け、また新たな触手が生まれる。
「無駄だよ。ボクの毒は無限。キミの水は有限……」
ヴェルゼが指を鳴らすと、地面がさらに黒く染まり、毒沼の範囲が広がっていく。
(……このままじゃ、じり貧だ)
マルスは息を整え、魔剣を構え直した。
「リュミエル、俺の魔力を使え。大技でいく」
『でも、マルスの身体が……!』
「構わない。ここで止めないと、みんなが危ない」
リュミエルは苦しげに頷いた。
『……わかった。全力でいくよ』
精霊の身体が輝き、周囲の水分が集まり始める。
湿地の空気が震え、巨大な水の渦が生まれた。
「“精霊術――大瀑布”!」
空から滝のような水が降り注ぎ、ヴェルゼの毒を押し流す。
だが――
「甘いね」
ヴェルゼが腕を広げると、滝が触れた瞬間、黒く濁り腐り始めた。
『マルス! 水が……全部、毒に……!』
「くっ……!」
ヴェルゼの笑い声が響く。
「ボクの毒がが触れた水はすべて腐る。キミの精霊術は、この地では無力だよ」
黒い毒沼が波打ち、巨大な触手がマルスを襲う。
「リュミエル、下がれ!」
マルスは魔剣で触手を切り裂くが、毒の飛沫が腕にかかり、皮膚が焼けるように痛む。
「ぐっ……!」
『マルス! もう無理だよ、逃げよう!』
「逃げられるかよ……! 勇者だぞ、俺は!」
マルスは歯を食いしばり、魔剣を構え直した。
(……水が腐るなら、腐らない水を使えばいい)
マルスは水袋に触れた。
「リュミエル。お前の“本体”の水……使わせてもらう」
『えっ……!? それは……!』
「わかってる。お前の命そのものだ。でも……頼む」
リュミエルは震えながらも、静かに頷いた。
『……マルスのためなら、いいよ』
水袋が光り、純粋な“精霊の水”が溢れ出す。
それはどんな毒にも侵されない、聖なる水。
マルスは魔剣を掲げた。
「“精霊融合――水神剣”!」
魔剣が青白く輝き、刃が水の翼を広げる。
ヴェルゼが初めて焦りの声を上げた。
「な……その水は……!」
「これで終わりだ!」
マルスは地を蹴り、一直線に駆けた。
毒沼から触手が無数に伸びるが、精霊の水を纏った刃が触れた瞬間、すべて蒸発する。
「馬鹿な……ボクの毒が……!」
「“水神剣――断流閃”!!」
青白い光が走り、ヴェルゼの身体を縦に切り裂いた。
黒い毒沼が一瞬で蒸発し、ヴェルゼは崩れ落ちる。
「……見事だ、勇者よ。だが……精霊の水を使い果たしたキミは……もう……」
ヴェルゼの身体が泥へと溶けていく。
マルスは膝をついた。
リュミエルの姿が薄くなっている。
『……マルス……ごめんね……もう……』
「リュミエル! 消えるな!」
『……大丈夫。マルスが……生きてくれたなら……』
精霊は微笑み、光の粒となって消えた。
「……リュミエル……!」
マルスはリュミエルの消えた場所を暫くの間眺めていた。
そして立ち去ろうとしたマルスの胸を背後から悪魔の爪が貫いた。
「……!」
マルスは己の胸から突然生えた悪魔の腕を見て、振り向いた。
「悪いね。往生際が悪くて」
それだけ言うとヴェルゼの頭部は崩れ落ちた。
愛剣のアクアレーヴを杖代わりに地面に突き立て、倒れまいと踏ん張るマルス。マルスはその場で動かなくなった。
主を失ったアクアレーヴは地面に突き立ったままだ。
マルスの死を悲しむ様に、アクアレーヴから、清浄な水が吹き出す。水はこんこんと湧き出て、やがて大きな湖となった――。




