16:不戦の約定
16:不戦の約定
アビスフェルド北端――“虚無の裂け目”と呼ばれる断崖地帯は、魔族ですら近づくことを避ける呪われた土地だった。
その中心に、黒い塔が一本、突き刺さるようにそびえている。
魔王ネクロスの居城――【アビスロード・スパイア】。
蟲将軍グラズ・ヴァルナは、その塔の前に静かに降り立った。
本能が告げている。
――ここは“死”の領域だ。
だが、グラズに恐れはない。
(御屋形様の命。たとえ、この命に代えても果たすのみ)
サルヴァンとの会話を思い出す。
「グラズ。北の魔王ネクロスを封じ込めたい。僕らは人間族国家との国交を目指すわけだけど、向こうはそうじゃない。となると、こちら側の国力を示すために、一度は矛を交えることになるだろう。そうなったときに後顧の憂いは出来る限り取り除いておきたい。でもネクロスは強い。力でねじ伏せるには一筋縄ではいかないだろう。そうなると今度は人間族国家に背を見せることになる」
「御意のままに」
* * *
グラズは塔の扉を押し開けた。
中は闇。
光が吸い込まれるような、底のない闇。
その闇の奥から、声が響いた。
「……久しいな、蟲将軍」
低く、冷たく、二重に響く声。
影が揺らぎ、そこから一人の男が現れた。
魔王ネクロス。
白い瞳孔のない目が、グラズを射抜くように見つめる。
「サルヴァンの使いか。あの男は、まだ“共存”などという幻想を追っているのか?」
グラズは無言で頭を下げた。
「御屋形様は、争いを望まれぬ」
「争いを望まぬ……か」
ネクロスは笑った。
だがその笑みは、氷のように冷たい。
「魔族が人間と共に歩むなど、ありえぬ。弱者は淘汰され、強者が支配する。それが世界の理だ」
グラズは静かに言った。
「理は理。だが、御屋形様は“別の道”を示された」
「別の道……?」
ネクロスの影が揺らぐ。
「サルヴァンは甘い。弱者を救い、魔族を“国家”などという枠に押し込めようとしている」
グラズは拳を握った。
「御屋形様の理想を、侮辱するな」
ネクロスの白い瞳が細められる。
「怒ったか、蟲将軍。だが、事実だ。サルヴァンは“魔王”としては優しすぎる」
影が床を這い、グラズの足元に迫る。
「……で?その優しい魔王は、私に何を望む?」
グラズは一歩前に出た。
「アビスフェルド内での争いを避け、互いの領域を侵さぬこと」
ネクロスはしばらく沈黙した。
やがて、影が静かに揺れる。
「……面白い。サルヴァンがそこまでして守りたいものとは何だ?」
グラズは答えない。
ネクロスはグラズの沈黙を楽しむように笑った。
「まあいい。私は争いを好むが、無駄な戦は嫌いだ。サルヴァンが望むなら――しばらくは静観してやろう」
グラズは目を見開いた。
「……不戦協定を、結ぶと?」
「勘違いするな。私はサルヴァンに屈したわけではない。ただ――」
ネクロスの影が、塔全体を揺らすほど膨れ上がる。
「“異界の魂”が気になるだけだ」
グラズの背筋が凍る。
(ゼラ……!)
ネクロスは静かに言った。
「サルヴァンが拾ったあのスライム。あれは“魔王の器”になり得る。興味深い存在だ」
グラズの体から闘気が噴き出す。
「あれは御屋形様の友。手を出すな」
ネクロスは笑う。
「手は出さぬ。今はまだ、な」
影が霧散し、ネクロスの姿が消える。
最後に声だけが残った。
「伝えておけ。――サルヴァンの理想は、いずれ崩れる。その時、私は動く」
グラズは静かに息を吐いた。
(御屋形様……あなたの選んだ道は、険しい)
だが、彼は迷わない。
サルヴァンのために。
ゼラのために。
魔族の未来のために。
グラズは塔を後にし、アビスフェルドの空へと飛び立った。
* * *
アビスロード・スパイアの最上階。
光の届かぬ玉座の間で、魔王ネクロスはひとり、影の中に佇んでいた。
グラズが去った後の空気は、まるで“死”そのもののように冷たい。
ネクロスはゆっくりと手を掲げる。
その掌に、グラズの残した魔力の残滓が揺らめいた。
「……相変わらず、忠義深い男だ」
声は低く、乾いている。
だが、その奥には微かな愉悦があった。
「サルヴァンのためなら、死地にも飛び込む。あの男の“理想”に殉じるつもりか」
影が床を這い、玉座の周囲を蠢く。
ネクロスは目を閉じた。
「理想……か。サルヴァンはまだそんなものを信じているのか」
その声には、嘲笑と――ほんのわずかな羨望が混じっていた。
「魔族と人間が共に歩む世界?魔族国家など幻想に過ぎん」
ネクロスはゆっくりと笑う。
「……滑稽だ。人間族と魔族。勇者と魔王は相反する存在だ」
影が揺れ、塔全体が微かに震えた。
「サルヴァン。お前は“魔王”でありながら、魔族の未来を信じすぎている」
ネクロスは玉座に腰を下ろし、白い瞳を細めた。
「だが……お前の選んだ“異界の魂”。あれは興味深い」
スライムの姿が脳裏に浮かぶ。
スライムという最弱の器。
だが、その魂は異界の光を宿し、魔王因子を受けてもなお崩れない。
「魂が歪み、魔力が暴走し、それでも壊れない……」
ネクロスの声が低く響く。
「――あれこそ“魔王の器”だ」
影が玉座の周囲に集まり、ざわめくように揺れる。
「サルヴァンは気づいていない。いや……気づいていて、目を逸らしているのか」
ネクロスは笑う。
「アレは、お前の理想を壊す。いずれ必ずな」
影が床を這い、塔の外へと伸びていく。
「だからこそ……面白い」
ネクロスは立ち上がり、塔の窓からアビスフェルドを見下ろした。
「サルヴァン。お前の“優しさ”が、世界をどう変えるのか――」
白い瞳が細く光る。
「そして、あの新入りが“何になる”のか……私は楽しみで仕方がない」
影が笑う。
塔が震える。
ネクロスは静かに呟いた。
「世界は、もうすぐ動き出す。光も、闇も、魔も、人も……すべては“異界の魂”を中心に回り始める」
そして――その声は闇に溶けた。
「サルヴァン。お前の理想が崩れる瞬間を……私は見届けよう」
* * *
「不戦の約定は、成立しました」
サルヴァンの表情がわずかに緩む。
「そうか。ありがとう、グラズ。君が行ってくれて助かったよ」
しかし、グラズは続けた。
「……ですが、御屋形様。ネクロスは“協定を守るため”に承諾したのではありません」
サルヴァンの瞳が細くなる。
「理由は?」
グラズは迷いなく答えた。
「ゼラです」
サルヴァンの指が、机の上で止まった。
「……やはり、そうか」
グラズはネクロスの言葉を思い出す。
『異界の魂……あれは“魔王の器”になり得る』
「ネクロスは、ゼラに興味を持っています。“魔王の理想形”とまで言っていました」
サルヴァンは目を閉じ、深く息を吐いた。
「……ゼラは、そんな存在じゃないよ。ただの、優しい子だ」
グラズは静かに言う。
「御屋形様。ネクロスは、ゼラを“奪う”つもりです」
サルヴァンの瞳が鋭く光った。
「奪わせないよ。ゼラは……僕が救った命だ。あの子は、僕の――」
言いかけて、サルヴァンは言葉を飲み込む。
グラズはその続きを聞かない。
聞く必要もない。
サルヴァンがゼラをどれほど大切に思っているか、六幹部は皆、薄々気づいている。
サルヴァンは気を取り直し、グラズに向き直った。
「ネクロスは……ほかに何か言っていた?僕に対して」
グラズは短く答えた。
「“サルヴァンの理想はいずれ崩れる”と」
サルヴァンは苦笑した。
「彼らしいね。でも、僕は諦めないよ。魔族も、人間も……誰もが生きられる世界を作る」
グラズは深く頭を下げた。
「御屋形様の理想、我ら六幹部が支えます」
サルヴァンは微笑む。
「ありがとう、グラズ。君がいてくれて、本当に心強い」
その時、 サルヴァンの表情がふと曇った。
「……でも、気をつけて。ネクロスは、ただの魔王じゃない。“影”そのものだ。彼が動く時は、世界が揺れる」
グラズは静かに頷いた。
「承知しております」
サルヴァンは窓の外を見つめる。
「ゼラを……守らないとね」
その声は、魔王のものではなく――“誰かを大切に思う青年”の声だった。
グラズは胸の奥で誓う。
(御屋形様は我らより、ゼラのことを大切になさるだろう。だが、御屋形様だけは、この命に代えても、守り抜く)
秘めたる決意を胸に、グラズはサルヴァンの居室を後にした。




