第二百五話 その名を呼んで
『表情を読み、仕草を読み、心を読み……そして操りなさい。パトリシア』
クラウジウス家のメイド長はパティに言った。
『相手が、自分自身で望むことをしていると錯覚させ、こちらの思い通りに操るのが最上。それを成すために、相手の感情を捉え、思考を読み、さりげなく歪めなさい』
そんな蛇の教えに、パティは嫌悪感を覚えていた。
けれど、その有用性も理解できていたから、パティは普段から人をよくよく観察するようにしていた。
近衛の名を呼んだミーア。そして、近衛の表情の変化を、パティはつぶさに見つめていた。
「名前を呼ぶ……」
そういえば、ミーアはよく名前を記憶するようにしている、とパティは思い出す。
特別初等部の子どもたちの名前も、ミーアはきちんと把握していた。
そして、そのことが、子どもたちにとっては驚きであり、喜びでもあったことも。
生徒の一人ではない。孤児の一人ではない。可哀想な子どもの一人ではない。
ヤナとして、キリルとして、カロンとして、ローロとして……。一人ひとりの人格として……ミーアは認めている。そのように感じられた。
この、老近衛に対しても同じこと。
近衛の一人ではなく、デニスという人間として……。
ミーアは名を呼ぶことで、その名前だけでなく、きちんと彼の人格を見ようとしているのではないか、と。
これは、結構すごいことなのではないか……と。
――私の孫……やっぱり、すっごいかもしれないっ!
そう思うと、ちょっぴり嬉しくなってしまうパティである。
同時にこうも思う。
どうせならば、自分も真似してみよう、と。
近衛は皇帝の守りの要だ。良好な関係を築いておけば、我が子や孫の助けになるだろう。
なにより、自分たちを命懸けで守ってくれる存在には、このような敬意をもって接するべきである、と、ミーアが教え、示してくれているように感じたのだ。
孫娘の挙動から学びを得る、賢き祖母パトリシアなのであった。
さて、近衛隊長デニスは、もともとは、とある伯爵家の四男坊だった。
そんな彼が近衛隊に抜擢されたのは、二十歳の時のことだった。
上に三人の兄を持つ彼には、家督を継ぐという選択肢はなかった。
「まぁ、家の人脈を使って、どこかの月省に勤めるか……」
そんな漠然とした想いを胸に、彼は黒月省の門戸を叩いた。
別に、軍事に興味があったわけではない。単純に彼の実家がレッドムーン派に属していたから、人脈を生かして入りやすいところに入ったというだけだ。
流されるようにして決めた職場だったが、そこで転機が訪れる。剣の才能を見出されたのだ。もっとも才能といっても、一人で百人の敵を倒すといった規格外のものではない。せいぜいが、一人半から二人分といった程度の才能で、それだけで成り上がるには到底足りぬものではあった。
けれど、家柄と剣の腕前が揃っている存在は希少であったために、見事、近衛に抜擢されてしまったのだ。
正直なところ、抜擢に値するものが自分にあるなどとは到底思えなかったし、やる気も忠義も、人並み以下しかなかったわけで……。
――しまったな。黒月省で数年務めて箔を付けてから、実家に帰ろうと思っていたのだが……。
自領に戻り、家督を継いだ長兄の下で、私兵団を率いて治安維持活動に従事する……などと、平凡な将来像を描いていた彼だから、近衛隊といっても気後れするばかりだ。
――皇帝陛下をお守りする務めとは……。俺などに勤まるか……?
そう嘆息していたのだが……。入隊の日、さらなる予想外が彼の身に起きた。
皇妃パトリシアが近衛隊の視察に来たのだ。
「近衛は、帝室を守る分厚き盾。皇帝の懐刀。私たちを一番に守護してくださる方たちをこの目で見ておきたいと考えるのは当然のことでしょう」
そう言って、入隊の祝辞を述べた皇妃は、まことに驚くべきことに、新入隊した近衛隊全員の名前を憶えていた。
壇上から降り、一人ずつ顔を見て、名前を呼び、声をかけてきたのだ。
それを見て、デニスは思い出していた。
皇妃パトリシアは非常に冷静で、なおかつ、相当な切れ者であるということ。その知恵は、各月省のエリート官吏たちが舌を巻くほどであるということも。
「あなたが、デニスですね?」
涼やかな声。デニスは思わず背筋を伸ばした。
目の前に立つ皇妃パトリシアは、静かな瞳でデニスの顔を見つめてきた。その青く澄み渡った瞳に、心の中まで読まれているような心地がして、デニスは息を呑む。
いったい、何を言われるのか……緊張していたのだが……。
「……近衛兵デニス。どうか、末永く帝室を守ってください」
意外にも、皇妃が口にしたのは祈りにも似た言葉だった。
氷のごとく沈着冷静。感情などほとんど表に出すことはないと言われた皇妃の口から出たその言葉に、デニスは動揺した。
「我が子を……そして孫を、どうか……」
それは、子を守る母の言葉か。あるいは帝室の血を次世代に繋ぎ、国の安寧を守らんとする国母の言葉か……。
されど、デニスは思う。
その言葉には、それ以上の熱意が込められているのではないか……と。言うなればそれは帝国のみならず世界の未来が懸かっているかのような……そんな熱量。
いずれにせよ、デニスはその言葉に、己が人生を懸けるに足る価値を見出したような気がした。自らの生きる道が見つかったように思えたのだ。
「はっ! もちろんであります」
威勢の良いその言葉に、初めてパトリシアの口元に笑みが浮かんだ。
「……そう。ありがとう」
その、どこか安堵するような顔を、彼は生涯忘れることはなかった。




