番外編 幻想叡智(イマジナリーミーア)は否と言う。たぶん。
すぐに芽吹かないからと言って、種を蒔くのは無駄だろうか?
すぐに実らないからと言って、水を撒くのは無益だろうか?
今、届かなかった言葉が『種蒔き』ではないと、誰が言えるのだろうか?
今、無益に思える仕事が『水やり』ではないと、明日のことすら知りえぬ何者が嗤うことができるだろうか?
これは、とある種蒔きと実りの物語。
「すべての地から飢饉を失くさんとする宝石のごとき志を持つ仲間を、わたくしは求めておりますの」
その言葉を聞いた瞬間、とある子爵は思わず苦笑いを浮かべた。
――これはまた、ずいぶんと大きなことを言うものだ……。
現実を知らぬ大国の姫と、子爵の目にはミーアはそう映った。
彼は、とある国の地方領主だった。
父から家督を継いで早十年。つつがなく、任された領地を治めてきた。
そんな実務経験豊富な――ある意味では現実を知る子爵の目から見て、ミーアの言葉は浮世離れしていた。
現実を見ていない、足元の定まらぬ、夢見がちな大国のお姫さまの言葉だった。
――かの聖女ラフィーナの友人で、司教たちの覚えも良さそうということで接近してみようと思ったが、これではな……。
せっかく、多くの人脈を作り出せそうな場面を生かさず、あのような言葉で人を遠ざけるとは、愚かにもほどがある。
――しかし、命を懸けろとは……。あのような言葉を恥ずかしげもなく言うとは……。なるほど、確かにラフィーナさまのお気に入りになるだけはある。
聖女ラフィーナも高潔な人として知られている。さぞや気に入られていることだろう。
――綺麗事を口にし、他者から称賛され、尊敬を集めたいか。若いな……。口ではなんとでも言えるということを知る者にとって、その手の綺麗事がいかに空虚に聞こえることか……。
ひっそりとため息を吐き、男はミーアのそばを去って行った。
ミーアの言葉は子爵に、なんの変化も、感銘も与えられなかった。
その心には、小さな波紋すら立つことはなかった。
だから……男がティアムーン帝国の展示会場に足を向けたのは、ほんの気まぐれだった。
いや、気まぐれというには語弊があるだろうか。大国ティアムーンがこのパライナ祭にどのような物を差し出したのか、興味があったのだ。
展示会場の入口を見て、男は思わずげんなりする。
そこに立つミーアの像を見て、どんだけ自己顕示欲が強いんだ! っと呆れたのだ。
されど……その像の由来を見て、ほんの少しだけ印象が変わる。
「少数部族との対立解消を記念して、か」
変に煽るような過剰な書き方ではなく、抑制的で要点を押さえた分析的な文章には好感が持てた。
さて、中には何があるのか……。男は改めて、注意深く展示会場の中に入った。
「貧民街の改革か……」
そこに書かれていたのは、ミーアが行った施政の数々だった。
特に目覚ましいものは、やはり貧民街の改革、寒さに強い小麦の発見、身分にかかわらず学べる施設の設立などだろうか。
特に、貧民街の改革について、その一番のきっかけとなった病院造りの資金のために、自らのかんざしを差し出したという部分に、男はミーアの振る舞いを思い出していた。
――自分の持ち物を惜しげもなく差し出す高潔さ……か。なるほど、言葉だけではないということだな。
であれば、ところどころに立ち並ぶ金の木像にも納得がいく。これらは恐らく、ミーアが命じて作らせたのではなく、彼女を慕う者たちが用意したのだろう。
慕われて当然の振る舞いを、ミーアはしているということだろう。
――帝国の叡智と呼ばれるだけのことはあるか……。
そうは思いつつも、やはり、子爵の心は冷めていた。
静かに首を振りつつ、思う。
自分には、このようにはできない、と。
民のために命を懸けるなど……自身の持ち物を差し出して民を救おうとするなどと……。そのような行いは、決して自分にはできない。
それに、それは選ばれた者の……貴き血族の振る舞いではない、と。
心の中で強弁しつつ、彼は帝国の展示会場を後にした。
この日の出会いをきっかけに、子爵が生き方を変えた……などと言うことはなかった。
統治者としての姿勢も相変わらずだ。目の前の現実を見て冷静に判断し、今まで通りに、過去行われてきたように対処するのみであった。
現実的に、常識的に、保守的に……。
かの帝国の叡智が求めるような……宝石のような生き方をすることはなかった。
だが、それでも……確かに、種は蒔かれたのだ。
すぐに芽吹くことはなくとも、確実に、彼の心に蒔かれていたのだ。
芽吹きの時は唐突に――彼が最も苦しい時にやってきた。
彼の治める領地で大規模な川の氾濫が発生。複数の村が押し流される災害が発生したのだ。
すぐさま、幾人かの家臣を連れ、視察に赴いた子爵は、そこで惨状を目にした。
一面に押し寄せた泥。半ば埋まった家屋。
家畜は逃げ去り、畑は壊滅。
泥で汚れた村人たちの顔には、隠しようのない憔悴が窺えた。
「あのような村が、他に五つです」
一度、安全地帯である自身の屋敷へ戻り、現状を改めて確認する。
「幸いと言うべきか、ある程度は災害に慣れた者たちだったため、避難はつつがなく行われたようですが……。逆に生存者の数が多く、その分、食料が不足しています」
部下の言葉に、子爵は眉をひそめた。
「近隣の村に負担させることはできないか?」
「五つの村の村人ですから……。あの地域だけではとても……」
「ゆえに今こそ、池で養殖している緊急用の魚を村人に提供し、急場を乗り越えてはいかがでしょうか」
聖ミーア学園・セントノエル学園の共同研究によって提案された、池の魚を利用した食料備蓄は、今や、各国に普及している。当然、子爵の領地でもそれは行っていたのだが……。
「お待ちください。来週には国王陛下が釣りにいらっしゃるのではありませんか?」
待ったをかけたのは、年かさの家令であった。
長年、家に仕えてきた常識人だ。
パライナ祭以来、王侯貴族の間では釣りがブームになっていた。各地に釣り堀が作られ、貴人はこぞって大物釣りに興じた。
子爵領には、特に、面白い地形の池が多くあり、そこで育てた魚は、釣り人にとっては、実に良い獲物になっていた。
「かの池の魚を食料としてしまえば、国王陛下がいらっしゃる頃には池には小物しかいなくなってしまいましょう」
「では、小物のほうを村人に回せばよい」
「小物を回せば、来年、国王陛下がいらっしゃった時に、釣る分が減ってしまいましょう」
家令は、表情一つ変えずに言った。
「民の死は、やむなきことでありましょう。自助のための備えを怠り、互助のための備えにも失敗した……民の自業自得というもの。国王陛下にいらしていただける栄光とどちらを優先するか、考えるまでもありますまい?」
淀むことなく、家令は続ける。
「あるいは、それは自然の理というものでしょう。大雨が降るのも、川が氾濫したのも神の導きの内。であれば、蓄えが押し流されて飢え死にするもまた、神の創りたもうた自然の摂理というものでしょう」
その言葉は、子爵の耳に、ごく自然に聞き入れられた。
実に耳心地の良い、理解しやすい論理だ。
慣れ親しんできた貴族の論理だ。
彼にとっては非常に、都合の良い理屈でもあった。
だが……。なぜだろう? 首肯するのが、ひどく躊躇われるような気がして……。
不意に甦ってきたのは、あのパライナ祭の日の出来事……。
帝国の叡智の言葉。その振る舞いよう……。
それを聞いて、見て……あの時に思ったことはなんであったのか?
綺麗事だと冷笑し、このようには生きられないと、諦めて……。
でも、その底の底にあった感情……それは……自分もそのように生き、そのように語ってみたいという羨望。
このようには生きられないという諦めは、このように生きられたら良いのにという願いの裏返し。
現実を知らぬ小娘と蔑んだのは、踏み出す勇気の持てない自分に対しての言い訳。
「では、家令殿は何もする必要はない、と」
「民は死にやすく、また増えやすきものでもありましょう。陛下をおもてなしすることと、比べるべくもございますまい」
受け入れやすいはずの言葉が、今は上手く肚に落ちてこない。
この地から飢饉を失くしたいと、かの帝国の叡智は言った。
民の命のためには、領主もまた命懸けの覚悟を持つべきであると言った。
民を安んじて治めるのが、領主の役目であると、当たり前のことを言った。
目の裏に、村の惨状が浮かぶ。
村人たちの憔悴しきった顔が、愛する子どもに食べさせることができない親の絶望した顔が、傷ついた子どもたちの悲しげな顔が思い浮かんだ。
そっと手のひらを見つめる。
幸いにも、彼らを再び立ち上がらせる術を自分は持っている。
あの日、パライナ祭の日に得た備えを使い、手を差し伸べる
あと、必要な物は、ただ一つ。
自分が生きたいように生きるために……生き方を変えるための、勇気。
「陛下には私のほうからお伝えしておこう。もしもご納得いただけなければ、我が家の家宝である名品の『釣り竿』を献上すればよかろう」
子爵は、決然とした口調で言うのだった。
今日、蒔いた百の種のうち、芽吹くものが一つだけだとしたら、それは無駄な仕事だろうか?
広い畑に毎日水をまき、芽吹き実るものが一つだけだとしたら、それは無益な行いだろうか?
我らが帝国の叡智は、きっと言うだろう。
否である、と。
なぜなら、それをしなければ、決してこのような実りを得ることはできなかったのだから。
このような、宝石のごとき世界を見ることは、決してできなかったのだから、と。




