シーン13:崩壊する猶予
原典と鏡像――二つの第一層世界から等しい距離に位置し、高次元の第二層世界との狭間に浮かぶ暗黒と静寂の箱庭【天獄】。
その外郭深部、旧世代の生き残りであるソレイユが張り巡らせた『黒い霧の隠蔽結界』の奥にある小さな部屋で、ひとつの魂がゆっくりと意識を取り戻そうとしていた。
「……ん、う……ここは……?」
簡易的な寝台の上で、向こう側が透けて見えるほど淡く半透明な輪郭をした若い女性の魂が、重たげにまぶたを押し開けた。
傍らで様子を見守っていた冥界の調査員・後藤光彦は、パッと表情を明るくして寝台のそばへと屈み込んだ。
「おっ、目が覚めたっすか! よかった、急に知らない場所へ飛ばされて驚いたでしょ。でもここは安全な避難所だから、まずは落ち着いてほしいっす」
「あ、あの……あなたは……?」
目を瞬かせた女性は、光彦と、その背後で黒銀の重厚な鎧に身を包み、銀のショートヘアを揺らして立つ美女・ソレイユを交互に見つめ、不安そうに身を縮こまらせた。
光彦は彼女を怯えさせないよう、いつもの人懐っこい柔和な笑みを浮かべて優しく問いかけた。
「俺は後藤光彦。こっちのお姉さんは、この避難所を守ってくれているソレイユさんっす。……実は今、あなたの元の身体には、ちょっと事情があって別の世界から来た『如月美憂』っていう女の子の魂が入り込んじゃってるんすよ。必ず元の身体に戻れるように俺たちの仲間が動いてるから、まずはあなたが『エデンのどこの誰なのか』を教えてもらってもいいっすか?」
「わ、私の身体に、別の方が……?」
女性は自分の半透明な両手を見つめて戸惑いながらも、光彦の誠実な眼差しに少しだけ安心したように頷き、静かに口を開いた。
「私は、マリアと申します。……大陸の西、『旧魔導領域ネルガル』の奥地にある黒曜石の城で、城の主である魔女『九龍』様に侍女として仕えておりました」
「……ネルガルの、九龍……? いやあ、俺はエデンの方の地理や事情には疎いんで、言われてもどこだかさっぱりちんぷんかんぷんっすけど……」
光彦は聞き慣れない地名と人物名に目を白黒させてポリポリと頬を掻いたが、すぐにハッとしたように顔を輝かせ、グッと拳を握りしめた。
「でも、それだけ具体的な場所と名前が分かれば十分っすね! つまり美憂さんの魂は、その『ネルガルにある九龍って魔女の城の侍女・マリアさん』の器に入ったってことっすよ! この情報さえ向こうに伝えれば、エデンを走り回ってる神崎さんたちが迷わずに美憂さんを見つけ出せるはずっす!」
光彦は勢いよく立ち上がり、ソレイユへと振り返った。
「ソレイユさん、マリアさんの保護をお願いするっす! 俺は今すぐ最奥の『封印の間』にいるベルゼ様のところへ戻って、エデンにいる神崎さんたちにこの情報を伝える方法を探してくるっすから!」
「ええ、分かったわ。この娘のことは任せておきなさい」
ソレイユが紫の瞳を細めて頷くのを見て、光彦が踵を返し、小部屋の入り口から外へと飛び出そうとした――まさにその瞬間だった。
――ピシリ、と。
避難所全体を優しく包み込んでいた淡い燐光の大気が、突如として凍りついたかのように激しく軋んだ。
光彦の足がピタリと止まり、背後のソレイユの表情が険しく一変する。
「……ッ!? なに……私の黒霧の結界が、外側から強引に抉じ開けられていく……!?」
「えっ……!?」
ソレイユが叫ぶよりも早く、避難所の頭上を覆っていた分厚い『黒い霧の隠蔽結界』に、禍々しい赤黒い亀裂が走った。
――ズガアアアアアアアアアアッ!!
次の瞬間、鼓膜を破らんばかりの轟音とともに、七百年もの間誰の目も欺き続けてきた高次元のカモフラージュ結界が、まるで薄いガラス細工のように外側から粉々に砕け散ったのだ。
「きゃああああっ!?」
「な、なんだァッ!?」
突如として天井が吹き飛んだかのような衝撃波と、外郭から雪崩れ込んできたどす黒い瘴気の風に当てられ、集落で身を寄せ合っていた十年前の犠牲者たちの魂が悲鳴を上げて逃げ惑う。
光彦とソレイユは即座に小部屋から飛び出し、マリアや集落の魂たちを背後に庇うようにして、引き裂かれた結界の裂け目へと鋭い視線を向けた。
渦巻く黒霧の向こうから、ゆっくりと降りてくるひとつの影があった。
赤と黒の道化師の装束を纏い、ひび割れた白塗りの仮面の下で愉悦に満ちた笑みを浮かべる悪魔。その右肩には、すべての災厄の原典たるオリジナルの【刈り取る者】が無造作に担がれていた。
「――クハハハハハッ! ご機嫌よう、七百年ぶりだなソレイユ! それから、冥界管理委員会のネズミくん!」
「……メフィスト……ッ!!」
ソレイユが左腕に黒銀の盾を構え、右手に握った剣の刀身に紫電のような魔力を走らせると、光彦も両手に『光』と『闇』の古代魔法を宿して臨戦態勢をとる。
だが、悠然と宙に佇むメフィストの姿を前に、光彦は額に冷たい汗を滲ませて奥歯を噛み締めた。
「チッ……! 神崎さんから、かなりの大怪我を負わせたと聞いてたんすけどね……。俺たちが思っていたよりも、ずいぶんと動き出すのが早すぎやしないっすか……!」
オリジンを発つ前の神崎恭の話では、廃工場で手痛い深手を負わせたとのことだった。だからこそ光彦たちは、奴が傷を癒やして活動を再開するまでにはもう少し時間がかかるはずだと踏んでいたのだが、目の前のメフィストからは、すでに万全と思える魔力の圧が溢れ出している。
「ククッ、そう睨むなよ調査員。たしかにあの【死神】の男に負わされた傷は、私の再生力をもってしても本来なら数日は身動きが取れぬほどの深手だったさ」
メフィストは愉快そうに喉を鳴らし、空いた左手を胸元へと当ててみせた。
その指先には、清冽な『蒼い水の魔光』がゆらゆらと揺らめいていた。
「だがな、転生させた如月美憂が持っていた異能は、すべて私にもコピーされる仕組みになっていてね! この便利な『水』の魔導を治癒に転用させてもらったおかげで、予想よりも遥かに早く傷を塞ぎ、こうして回収に来られたというわけさ!」
「なっ……!? 美憂さんをポゼッションさせたことで、美憂さんの能力をまるごとコピーしたって言うんすか……!?」
光彦が驚愕に目を見張る横で、ソレイユは紫の双眸に絶対零度の殺気を宿し、剣の切っ先をメフィストへと突きつけた。
「……回収、と言ったわねメフィスト。まさか貴様、最初からこの避難所の場所に気づいていたというの?」
「当然だろう、ソレイユ! 七百年前に討ち漏らした貴様がこんな辺鄙な片隅に隠れ住み、十年前に私が弾き出した魂どもを拾い集めて保護していたことなど、最初からすべてお見通しだったさ!」
メフィストは両手を広げ、嘲りに満ちた哄笑を響かせた。
「頼みもしないのに、私の大切な実験資源が天獄の亡者に喰われて散逸しないよう一箇所にまとめ、おまけに貴様自身の魔力の結界で冥界管理委員会の目から十年間も綺麗に隠蔽し続けてくれたのだ! いやあ、実に優秀な『倉庫番』だったぞ、礼を言うわソレイユ!」
「……ッ、この、道化師が……ッ!!」
自分が十年間、誇りを懸けて守り抜いてきた避難所が、最初から悪魔の都合のいい「保管庫」として利用されていただけだったという残酷な真実。
ソレイユの短い銀髪が怒りの魔力で逆立ち、その姿が瞬時に掻き消えた。
「ふざけるなァァァッ!!」
音速を超える踏み込みでメフィストの懐へと肉薄したソレイユが、紫の魔力を極限まで乗せた剣でメフィストの首筋を容赦なく薙ぎ払う。
「ソレイユさん、援護するっす! ――【光よ、貫け】【闇よ、縛れ】!!」
同時に光彦も両手を突き出し、無数の『光の魔力槍』と『闇の荊』を時間差で放ってメフィストの退路を完全に封鎖した。
生身の肉体を持つ旧世代の武神の一撃と、冥界の調査員による古代魔法の挟撃。本来であれば、どれほどの強者であろうと無傷では済まない必殺の連携だった。
しかし――。
「遅い、遅いぞ! 今の私には、こんな便利な手札が揃っていてね!」
メフィストが大鎌を軽く振るった瞬間、その足元から隆起した分厚い『水と土の複合城壁』が光彦の光の槍を相殺し、同時にメフィストの背中に吹き荒れた『共鳴増幅によって跳ね上げられた風魔術』が、ソレイユの斬撃を紙一重で躱させたのだ。
「っ……!? あの魔術は……!」
「さらに、こいつも使い勝手がいいぞ!」
空中に跳躍したメフィストの指先から、無数の『黒紫の呪いの糸』が蜘蛛の巣のように射出され、踏み込んだソレイユの四肢と剣に絡みついて動きを強引に封じ込める。
だが、ソレイユは絡みつく黒糸を魔力の爆発で強引に弾き飛ばし、光彦も即座に『闇の重力圏』を展開してメフィストの着地地点を押し潰そうと追撃を重ねた。
「逃がさないわよ、道化師ッ!!」
ソレイユが地面を蹴って再度肉薄し、紫黒の斬撃でメフィストの左肩の装束を浅く切り裂く。
しかし、斬り裂かれたメフィストの傷口は、瞬く間に『蒼い水の魔光』に包まれて塞がってしまった。
「クハハハハッ! 惜しいなソレイユ! だが、その程度の浅手など今の私にはかすり傷にもならんよ!」
メフィストは愉快そうに笑いながら大鎌を大きく振りかぶり、その刃に――光彦のものと寸分違わぬ『白い光』と『漆黒の闇』の古代魔法をドス黒い瘴気とともに重ね合わせて、二人へ向けて一閃した!
「ソレイユさん、前に出るのは危険っす! ここは合わせて防ぐっすよ!」
「っ、ええ!」
ソレイユが即座にバックステップで光彦の前へと戻り、左腕の黒銀の盾を大地に突き立てるように構える。そこへ光彦が全力の『闇』と『光』の二重防壁を重ね合わせた直後――メフィストの放った巨大な斬撃波が正面から激突した。
――ドゴォォォォォォォンッ!!
凄まじい衝撃波が避難所の大地を揺らし、ソレイユと光彦は防壁ごと十メートル近く後方へと押し滑らされた。
土煙が晴れる中、盾を構えたソレイユと、そのすぐ横で両手を突き出した光彦は、なんとか二本の足で踏みとどまって荒い息を吐き出した。
「はぁ、はぁ……っ! くそ、マジっすか……。元々の神の権能に加えて、美憂さんが持っていた転生者たちの異能と、俺の『光と闇』まで完全に使いこなしてやがるっすね……!」
大鎌が放つ「魂を削り取る波動」の余波を受け、魂だけの状態である光彦の半透明な輪郭がピリピリと痛みに軋む。
隣に立つソレイユも、盾を持つ左腕の痺れを振り払いながら、冷たい銀髪を揺らしてメフィストを睨み据えた。
「……厄介ね。せっかく一太刀浴びせても、あの『水』の治癒とやらで即座に塞がれる上、これだけ多彩な異能を同時に振り回されては、正面からの力押しではジリ貧になるわ……」
「ええ、その通りっすね。しかも俺たちの後ろには、マリアさんや十年前の魂たちがいるから、無闇に動き回って流れ弾を後ろに逸らすわけにもいかないっす」
二人の背後では、爆発の余波に怯えたマリアや集落の魂たちが身を寄せ合って震えている。ここを死守しながら戦わなければならない二人にとって、広範囲の複合魔術を惜しみなく乱れ撃つメフィストは最悪の相性だった。
対するメフィストは、手に入れたばかりの新しい能力の感触を確かめるように、余裕たっぷりの足取りでゆっくりと地上へと降り立った。
「ククク、さすがは旧世代の生き残りと冥界管理委員会の調査員だ。今の一撃を正面から受け止めて立つとはな。……だが、いつまでその盾が持つかな?」
メフィストが大鎌の柄をくるりと回し、仮面の奥の双眸を妖しく光らせる。
「新しく手に入れたこの異能の実験台として、まずは貴様ら倉庫番二人をじっくりと解体してやろう。そのあとで、後ろに隠れている新入りと十年分の魂を、残らず私の血肉として回収してくれるわ!」
「……ソレイユさん。正面からの正攻法じゃ、あいつの手数と回復は抜けないっす。何か別の手を打って、神崎さんたちが動くまでの時間を稼ぐしかないっすよ」
「ええ、分かっているわ。このまま大人しく解体されてやるつもりはないわよ……!」
圧倒的な手札を誇る悪魔を前に、光彦とソレイユは背後の魂たちを庇いながら再び剣と魔力を構え直し、活路を見出すべく鋭く視線を交わしたのだった――。




