シーン14:タイムリミット
砕け散った隠蔽結界の破片が、燐光となって暗黒の宙を舞う。 天獄の外郭深部――十年間守り抜かれてきた避難所の大地を挟み、冥界の調査員・後藤光彦とソレイユは、大鎌【刈り取る者】を担いで悠然と佇む悪魔・メフィストと対峙していた。
「……光彦。私が砕けた黒霧の残滓を地上へ引き寄せ、一帯の視界と魔力探知を狂わせるわ」
黒銀の盾を構えたまま、ソレイユが唇を動かさずに低く囁いた。
「その隙に、貴様は後ろのマリアと魂たちを古い遺構の退避路から『封印の間』の方角へ逃がしなさい。正面からの力押しでは、あの男の多彩な異能と治癒は抜けないわ」
「了解っす。……けどソレイユさん一人を置いて逃げるわけにはいかないっすよ。魂たちを退避路へ押し込んだら、俺もすぐに『闇』の重力で奴の足場を潰して援護に回るっす!」
二人は瞬時に視線で合図を交わすと、同時に大地を蹴った。
「――散らばった我が魔力よ、再び地を覆え!【黒霧の迷宮】!!」
ソレイユが剣の柄を大地へ突き立てた瞬間、頭上で霧散しかけていた隠蔽結界の黒い霧が、まるで生き物のように地上へと滝のように降り注いだ。 視界はおろか、魔力の波長すらも乱反射させて方向感覚を奪う高密度の濃霧が、一瞬にして避難所全体を包み込む。
「マリアさん、みんな! この霧に紛れて、奥の古い遺構の通路から最奥の『封印の間』へ向かって走るっす! 絶対に振り返っちゃダメっすよ!!」
「は、はいっ! みなさん、こちらです、急ぎましょう……っ!」
光彦が両手から『闇』の魔力を広げて魂たちの気配をさらに覆い隠すと、マリアは震える声で十年前の犠牲者たちの魂を先導し、避難所の後方にある退避路へと一斉に駆け出した。
そして、光彦とソレイユは逃げる魂たちの背後にピタリと立ち塞がり、濃霧の中でメフィストの気配を待ち構える。 視界を奪い、ヒット&アウェイで時間を稼ぎながら少しずつ後退する遅滞戦術――それが、圧倒的な手札を持つメフィストに対して二人が取り得る最善の策のはずだった。
だが――。
「クク……クハハハハハッ! 霧に隠れてネズミどもを逃がし、時間稼ぎに徹するつもりか! 小賢しい真似をするではないか、倉庫番ども!」
濃霧の中心から、愉悦に満ちたメフィストの哄笑が響き渡った。 次の瞬間、メフィストの全身から、美憂の器を経由してコピーされた未知の異能――魔力と事象の出力を限界以上に跳ね上げる特殊な波動が爆発的に膨れ上がった。
「――だが、この程度の目隠しなど、今の私の前では児戯に等しいわ! 【共鳴増幅】――吹き飛べッ!!」
――ゴオォォォォォォォォッ!!
異能によって神域の規模へと跳ね上げられた暴風の魔術がメフィストを中心にして炸裂し、ソレイユが展開したばかりの黒霧の迷彩を、大地ごと一撃で吹き飛ばした。
「っ、なっ……!? ただの風魔術の出力を、一瞬で何倍にも跳ね上げて私の魔力の霧を掻き消しただと……!?」
「あれも美憂さんからコピーした異能なのか……!? 魔術そのものの威力を底上げする能力なんて、反則にも程があるっすよ……!」
驚愕する二人の視界の先で、空中に浮かぶメフィストの仮面の奥の双眸が、残酷な弧を描いて細められる。 その視線が向けられていたのは、光彦やソレイユではなく――彼らの遥か後方、退避路の入り口へと駆け込もうとしていたマリアと十年前の魂たちの群れだった。
「ほらほら、どこへ逃げるつもりだ実験資源ども! 貴様らが逃げようとすればするほど、前の二人がどういう目に遭うか教えてやろう!」
メフィストが大鎌を振るい、再度その増幅の異能を重ねた無数の『火と風の複合斬撃波』と『黒紫の呪いの糸』を、あえて光彦たちの頭上を越える軌道で、後方の魂たちへ向けて一斉に乱れ撃ったのだ。
「しまっ……! 狙いは俺たちじゃなくて、後ろのマリアさんたちっすか!?」
「させるものですか……ッ!!」
後ろを走る半透明な魂たちに、あんな高出力の魔術がかすりでもすれば、一瞬で魂の輪郭が砕け散って消滅してしまう。 逃げることも、躱すことも許されない。光彦とソレイユはすぐさま退避路の前へと跳び戻り、自らの身体を文字通りの「肉壁」として暴威の正面へと割り込ませた。
「――【闇よ、呑み込め】【光よ、弾け】ッ!!」
「――我が盾よ、退くなァァァッ!!」
――ドガアアアアアアアアアアッ!!
退避路を守る二人の防壁に、極限まで増幅された幾十もの斬撃波が容赦なく降り注ぐ。 一撃、二撃、三撃と防ぐたびに、ソレイユが纏う黒銀の重厚な鎧が激しく軋んで亀裂が走り、その白い肌から鮮血が飛び散る。隣で黒いジャケットをなびかせながら両手を突き出す光彦も、魂を直接削り取る呪いの糸と衝撃波の余波をモロに浴び、半透明の魂の輪郭がバチバチと火花を散らして薄れていった。
「ぐ、ううっ……! こいつ、俺たちが後ろの魂を見捨てて避けられないのを分かってて、わざと増幅した広範囲の技ばかり撃ってきてやがるっす……!」
「くっ……! それでも、ここを退くわけにはいかないわ……!」
ソレイユは鎧の隙間から血を流しながらも、紫の魔力を纏った剣を振るって呪いの糸を断ち切り、光彦も削れる魂の痛みに耐えながら必死に幾何学的な魔導陣を展開して魔力弾を撃ち返す。 しかし、身動きを縛られた二人の反撃など、空を自在に舞うメフィストには届かない。仮にソレイユの放った魔力の斬撃がメフィストの頬や肩を掠めても、即座に『蒼い水の魔光』が溢れ出し、傷口は一秒と経たずに綺麗に塞がってしまうのだ。
「クハハハハハッ! いいぞ、実に美しい献身だ! だが、いつまでそのボロボロの盾で庇い続けられるかな!?」
メフィストは傷ひとつない姿で嘲笑いながら、空中で大鎌【刈り取る者】を高々と掲げた。
「――そろそろ鬼ごっこは終わりにしよう! 【水土複合・濁流の檻】、さらに【光と闇の重圧】よ、二人を縫い止めろッ!!」
――ズドォォォォォォンッ!!
メフィストの号令とともに、光彦とソレイユの足元の地面が巨大な泥と激流の渦へと変貌し、さらに頭上から降り注いだ『闇』の超重力と『光』の槍の豪雨が、満身創痍の二人をその場へと強引に縫い止めた。
「がっ……、く、そっ……身体が、動かねえ……ッ!?」
「っ、この……離しなさい……っ!」
泥の拘束と重力の檻に阻まれ、二人が膝をつきかけた、その一瞬の隙だった。 メフィストの姿が二人の頭上を飛び越え、退避路へ逃げ込もうとしていたマリアたちのすぐ目の前へと音もなく降り立ったのだ。
「――チェックメイトだ。さあ、私の可愛い資源ども、全員まとめて収納の時間だぞ!」
メフィストがオリジナルの大鎌【刈り取る者】を大振りに一閃した。 空間が赤黒く裂け、逃げ惑うマリアと十年分の犠牲者たちの足元に、避難所の広場全体を覆い尽くすほど巨大な『捕食と回収の黒き魔導陣』が展開される。
「きゃあああああああっ!?」
「あ、ああ……身体が、吸い込まれる……っ! ご、後藤さん、ソレイユ様ぁ……っ!!」
魔導陣から噴き上がった無数の黒い鎖と瘴気の渦が、抵抗する力を持たない十年前の魂たちとマリアの半透明な身体を次々と絡め取り、大鎌が作り出した異空間の檻の中へと強引に引きずり込んでいく。
「マリアさんッ!! やめろ、メフィストォォォッ!!」
光彦が血を吐くような咆哮を上げて重力の檻を振りほどき、手を伸ばして飛び出したが――指先が届くよりも早く、マリアの悲痛な瞳が黒い渦の奥へと呑み込まれ、パチンと音を立てて魔導陣は完全に閉じた。
静まり返った避難所には、もはや一人の魂の姿も残っていなかった。 十年間、ソレイユが命を懸けて守り続けてきた犠牲者たちの魂と、エデンから落ちてきたばかりのマリアの魂。そのすべてが、メフィストの手によって残らず強奪されてしまったのである。
「……そんな……私が、十年間守ってきた魂たちが……っ」
傷だらけの鎧のまま立ち尽くすソレイユの瞳が絶望に揺れ、地面に片膝をついた光彦がギリッと奥歯を噛み締めて拳を大地に叩きつけた。
「くそっ……! 今すぐそいつらを吐き出しやがれ、メフィスト……! お前、その魂を今ここで喰らうつもりか……!?」
睨み上げる光彦に対し、魂を収めた大鎌を肩に担ぎ直したメフィストは、心底愉快そうに腹を抱えて笑い出した。
「クハハハハハッ! 今すぐこの場で喰らうと思ったか、調査員? 馬鹿を言うな、そんな粗末な使い方はせんよ!」
勝利の余裕に酔いしれた道化師は、傷つき膝をつく二人を見下ろしながら、得意げに両手を広げて種明かしを始めた。
「冥土の土産に教えてやろう。かつて私が進めていた旧来の計画は、器を持たぬ魂の脆さゆえに失敗に終わった。だが、神崎恭というイレギュラーの出現と、如月美憂のポゼッションを経てアップデートされた我が『ソウルイーター計画・改』は違う! いま回収したこの膨大な数のエデンとオリジンの魂を、ひとつの魂へと練り上げ、古の神々すら凌駕する最高傑作の英霊を創り出すのだ!」
メフィストは仮面の奥の目をギラつかせ、大鎌の刃をコツンと指先で叩いた。
「もっとも――これだけの数の魂を溶かし合わせ、完全なる手駒へと定着させる儀式をおこなうには、こんな吹きっ晒しの外郭では不可能でね。これからこの魂どもを天獄にある専用の『儀式祭壇』へと移し、そこに膨大な魔力を充填するための準備期間が……そうだな、『あと二日』ほど必要なのだよ!」
「……っ!? あと、二日……だと……!?」
光彦の目がハッと見開かれた。 メフィストはそんな光彦の反応に気づく様子もなく、すべてを手中に収めた支配者の傲慢さで二人を嘲笑った。
「そういうことだ! まあ、倉庫番の役目を終えた貴様ら二人に、今すぐここでトドメを刺してやるのも簡単だが……それではあまりにも芸がないだろう? せいぜいその無力さと敗北感を噛み締めながら、二日後に私の最高傑作が誕生する瞬間を、指を咥えて震えながら待っているがいい!」
メフィストは高笑いを上げながら空へと浮かび上がると、去り際に大鎌を大きく振るい、避難所そのものを消し飛ばすかのような極大の『暗黒と暴風の破壊球』を頭上から叩き落とした。
「さらばだ、敗残者ども! クハハハハハハハッ!!」
「――ッ、来るわよ光彦! 退避しなさい!!」
「くっ……、ソレイユさん、こっちっす!!」
――ズガアアアアアアアアアアアアッ!!
避難所の中心で大地そのものが粉々に爆ぜ飛び、十年間存在し続けた集落の遺構が、凄まじい爆風と瓦礫の嵐に呑み込まれて完全に崩壊していく。 すでに魔力も体力も限界に近かった光彦とソレイユは、その圧倒的な破壊の奔流を真っ向から受け止めることはできず、爆風に弾き飛ばされるようにして崩壊する避難所から外郭の暗闇へと撤退(敗走)するしかなかった。
◆
爆音が遠ざかり、冷たい暗黒が支配する外郭の回廊。 なんとか追撃の余波を振り切った光彦とソレイユは、最奥の『封印の間』へと続く通路の途中で足を止め、荒い息を吐きながら壁に手をついた。
「はぁ、はぁ……っ。くそっ、完全にやられちまったっすね……。マリアさんたちを守れなかった……」
削られた魂の痛みに顔をしかめながらも、光彦は悔しさに震える拳を強く握りしめた。隣では、鎧を赤く染めたソレイユが、血の滲む唇を噛み締めて今にも引き返しそうな険しい目で後方を見据えている。
「……待ってください、ソレイユさん。今のボロボロの俺たち二人で無策に追いかけたところで、あいつの思う壺っす」
「……分かっているわよ。でも、あの子たちが……マリアが、あの男の手に……っ」
「ええ、悔しいっす。……けど、今のメフィストの言葉、聞いてたっすよね?」
光彦は顔を上げ、その瞳にまだ消えていない強い光を宿して言った。
「あいつは調子に乗って、自ら大事なことを喋ってくれたっす。――強奪されたマリアさんや十年前の魂たちは、まだ喰われたわけでも消滅したわけでもない。ソウルイーター計画を実行するための魔力充填に『あと二日』かかるってことは、俺たちにはまだ丸二日(四十八時間)のタイムリミットが残されてるってことっすよ!」
「……あと二日……」
「はい! エデンでは神崎さんや優子さんが、オリジンではブラフさんが、絶対にこの天獄へ突入する準備を進めてくれてるはずっす! 今は一刻も早く最奥の『封印の間』へ戻ってベルゼ様と合流し、態勢を立て直して、残り二日のうちに神崎さんたちと全軍でメフィストの祭壇へ殴り込む……それが、マリアさんたちを全員取り戻す唯一の道っす!」
光彦の真っ直ぐな言葉に、ソレイユは深く息を吸い込み、震える手で剣を鞘へと収めた。
「……ええ、貴様の言う通りね。まだ、終わったわけじゃないわ。二日以内にあの道化師の首をへし折って、あの子たちを全員奪い返せばいいだけのことよ」
「そういうことっす! 行くっすよ、ソレイユさん――ベルゼ様とルナちゃんたちが待つ『封印の間』へ!」
傷ついた調査員と黒銀の女騎士は、残された『あと二日』という最後の猶予を胸に刻み、最奥の封印の間を目指して暗黒の回廊を駆け抜けていくのだった――。




