シーン11:十年の誇り
半壊した黒曜石の古城、その大礼拝堂。 白い魔力の蒸気を吐き出して停車している漆黒の蒸気機関車――【幻影電車】のすぐ奥で、絨毯の上に仲良く伸びていた二人の黒髪の美女が、うう……と小さなうめき声を漏らしながら同時に身じろぎをした。
「い、痛たた……。なんなのよ、急に空間が割れて鉄の塊が突っ込んでくるなんて……っ」
「う、うう……頭がガンガンします……。神崎くん、いったい何をするんですか……っ」
こめかみを押さえながらゆっくりと上半身を起こしたSSランクの魔女・九龍と、高橋優子。 まったく同じ顔をした二人が目を瞬かせ、礼拝堂の中央に鎮座する巨大な蒸気機関車と、その前に立つ俺――神崎恭、さらには俺の後ろにずらりと並ぶ佐々木冬夜や岡田瑞希たち『アニマの器』の五人を見て、揃って目を丸くした。
「なっ……!? ちょっと、なんで私の城の礼拝堂にこんな巨大な鉄の塊が停まってるのよ!? それに、その後ろにいる連中は……『見えざる閃光』のSランク冒険者、瑞希のパーティじゃない!?」
「神崎くん! あなた、いつの間にこのエデンへ到着していたのですか!? というか、駆けつけてくれたのは感謝しますが、いくらなんでも突っ込み方が無茶苦茶すぎます!」
九龍が信じられないものを見るように声を荒らげ、優子さんが頬を引きつらせながら立ち上がって抗議してくる。
俺はバツが悪そうに頬をポリポリと掻き、軽く片手を上げてみせた。
「いや、悪かったよ。アルディシアの宿で『観測窓』を見たら、お前ら二人が城ごと吹き飛びそうな極大魔術を構えてて、その真ん中で美憂が悲鳴を上げてたからな。てっきり美憂が二人に殺されかけてるんだと勘違いして、大急ぎで突っ込んできたんだよ」
「も、もう、恭くんったら早とちりなんだから……っ」
俺の隣で涙を拭ったブロンド髪の侍女――マリアの器に入った美憂が、気まずそうに侍女服の裾を握りしめながら、優子さんの前へと歩み出た。 そして、優子さんに向かって深々と頭を下げる。
「あの……優子さん、さっきはちゃんとお話できなくてごめんなさい! あの夜、元の世界で優子さんと後藤さんを襲ってしまったこと、本当に申し訳ありませんでした……っ!」
美憂の真摯な謝罪を受け、俺も一歩前へ出て、優子さんがエデンへ先発したあとに原典世界で起きた出来事を簡潔に話して聞かせた。 廃工場で俺がメフィストと激突し、奴の左腕を切り落として撃退したこと。 その捨て台詞とともに、メフィストがオリジナルの大鎌【刈り取る者】で美憂を切り裂き、美憂の魂がこの城の侍女マリアの身体へと強制的に飛ばされてしまったこと。 そして何より――あの日、優子さんを庇って大鎌に斬られた後藤光彦は死んでなどおらず、いま空に浮かぶ『青い月(天獄)』の中で、女神ベルゼと共に手負いのメフィストから魂たちを守るため、一週間の籠城戦を戦っているのだということを。
「……そう、だったのですか。後藤さんが天獄で生きていて……美憂さんも、あのメフィストの被害者だったのですね」
すべての経緯を知った優子さんは、胸元に手を当てて深く安堵の息を吐き出すと、頭を下げていた美憂の肩にそっと手を置いて微笑んだ。
「顔を上げてください、美憂さん。あなたも騙されて苦しんでいたのですし、後藤さんが生きていると分かった以上、もうあなたを恨んではいません。無事で本当によかったわ」
「ゆ、優子さん……っ! ありがとうございます……!」
わだかまりが解け、ほっと涙ぐむ美憂。 だが、後藤光彦がいまこの瞬間も天獄で命を削りながらメフィストを抑え込んでおり、残されたタイムリミットがあと数日しかないという事実を知った優子さんの表情は、すぐさま強い焦燥感に塗り替えられた。
「……ですが、後藤さんやベルゼが天獄で持ちこたえられる限界が一週間しかないのなら、本当に一刻の猶予もありません!」
優子さんはバッと踵を返し、すぐ隣で腕を組んで話を聞いていたもう一人の自分――九龍へと鋭い視線を向けた。
「聞いたでしょう、九龍! 天獄のメフィストを討ち、後藤さんやベルゼ、そして囚われた魂たちを救い出すには、私たちが今すぐ『ひとつ』に戻って、本来のサラとしての記憶と力を完全に取り戻す必要があります! さっきの勝負は水入りになったけれど、もう戦っている時間はありません。今すぐ私と統合してください!」
詰め寄る優子さんに対し、しかし九龍は紫の瞳を冷ややかに細め、呆れたように肩をすくめた。
「……あなたね、人の話を聞いていたの? 私はあなたの便利なスペアパーツじゃないと言ったはずよ。それに、魔導と魂の研究者である私から言わせてもらうけれど、分かたれた魂の『統合』には、双方の完全な同意が必要なの。二つの確立された自我が反発し合ったまま無理やりひとつに重ね合わせれば、精神が崩壊するか、器そのものが内側から弾け飛ぶだけよ」
「そんな……! でも、元々は一つの魂だったのですよ!? あなたが意地を張らずに受け入れてくれれば済む話じゃないですか!」
後藤光彦を救いたい一心で視野が狭くなり、語気を強めて九龍へ迫る優子さん。
その危ういやり取りを見ていた俺は、小さく息を吐き、二人の間にスッと割って入った。
「――待てよ、優子さん。少し落ち着けって」
俺は優子さんの前に立ち、ここへ来る前、オリジンで女神ベルゼと高橋先輩から聞かされていた『ある事実』を口にした。
「九龍の言ってることは正しいぜ。俺もエデンへ発つ前、お前の親友のベルゼと、兄貴である高橋先輩から『割れた魂の統合ルール』について詳しく聞かされてたんだ」
「え……? お兄ちゃんと、ベルゼから……?」
「ああ。この世界の理ではな、二つに分かたれた魂が再びひとつに統合される際、よほどのイレギュラーでもない限り、必ず『原典世界側の魂』が優位になるように設計されているんだ」
俺の言葉に、冬夜や瑞希、美憂たちがハッと息を呑んで耳を傾ける。
俺はそのまま、焦る優子さんの瞳を真っ直ぐに見据えて続けた。
「オリジンの魂が絶対優位に立つってことは、統合されたエデン側の魂――つまり九龍は、十年間の記憶や魔導の知識だけを優子さんに引き継いで、主導権そのものは優子さんの人格に呑み込まれる形になる。……いくら元が同じ『サラ』だったとしても、別々の存在としてこの世界に放り出された以上、九龍には九龍として生きてきた十年の人生があったんだ。そいつは紛れもない事実だし、簡単に『戻れ』の一言で片付けられる話じゃねえだろ」
俺は九龍の側を庇うように一歩前に立ち、優子さんへと問いかけた。
「優子さん、お前はそこんとこをちゃんと理解してるのか? ひとつに戻るってことは、九龍がこの過酷な世界で泥を啜って築き上げてきた十年の人生を、お前が『奪う』ってことだ。その重みまで背負う覚悟があって言ってるんだろうな?」
図星を突かれた優子さんは、ビクリと肩を震わせて言葉を詰まらせた。
隣に立つ九龍も、まさか突然現れた見知らぬ男が自分の十年間の人生と尊厳をそこまで的確に擁護してくれるとは思っていなかったのか、驚いたように紫の瞳を見開いて俺の横顔を見つめている。
だが――天獄で後藤光彦とベルゼが危機に瀕しているという極限の焦りと、自分の中に蘇りつつある高次元の記憶が、優子さんの理性を狂わせた。
「な、なんなのですか……! オリジンである私の魂が優位になるようにできているのなら、なおさら彼女が私に還るのが世界の正しい理ではありませんか!」
優子さんは拳を強く握りしめ、自分を諭す俺に向かって、決定的な言葉を口走った。
「だいたい、神崎くんは口を挟まないでください! 私たち『第二層世界の住人』でもない、ただの第一層の人間であるあなたに、私たちの魂の何が分かるというのですか!!」
――ピシリ、と。
その言葉が礼拝堂に響き渡った瞬間、場内の空気が絶対零度へと凍りついた。
冬夜と瑞希が顔色を変え、美憂が「ゆ、優子さん……っ!」と悲鳴のような声を漏らす。
俺は、眉ひとつ動かさず、ただ無表情のまま目の前の優子さんを見下ろした。
「……ほう。第二層世界の住人サマは、ずいぶんと偉いんだな」
俺が低く、静かな声でそう呟き、革靴の爪先をコツンと一歩前へ踏み出した――その刹那だった。
――ズオォォォォォォォンッ!!
魔術の発動などではない。ただ俺が心の中で掛けていたストッパーをほんの数ミリ外し、剥き出しの【殺気】を優子さんへ向けて解き放っただけだ。
だが、それだけで礼拝堂の空間そのものがミシミシと悲鳴を上げて歪み、俺の足元の黒曜石の床がクレーター状にバキバキと陥没した。天井に残っていたステンドグラスが衝撃波にも似た見えない重圧に耐えきれず、一斉に粉々に砕け散る。
「っ、ひ……っ!? あ、が……っ!?」
優子さんの顔から、一瞬にしてすべての血の気が失せた。
第一層の人間から見れば『神』と崇められる、第二層世界の住人。
しかし、いま目の前の青年から放たれているのは、そんな第二層の自称神やサバイバーたちなど文字通り「道端の虫けら」にしか思えないほどの、圧倒的で、理不尽で、絶望的なまでの『次元の断絶(格の違い)』だった。
まるで、質量を持った巨大な暗黒の星そのものに頭上から踏み潰されたかのような錯覚。 神崎恭の異能【死神】の力の深淵が、赤い双眸となって優子の魂を真正面から射抜いていた。
「あ……あ、あ……っ……!」
優子さんは呼吸の仕方すら忘れ、見えない鉛の鎖で全身を縛り上げられたかのようにガタガタと激しく震えながら、成す術もなくその場に両膝から崩れ落ちた。
指一本動かすことすらできない。もし目の前の男がほんの少しでも「殺す」という意思を込めれば、自分の光と闇の古代魔法など発動する間もなく、コンマ一秒で魂の根源ごと塵も残さず消滅させられる――その絶対的な死の恐怖が、第二層の住人としての彼女のちっぽけなプライドを木っ端微塵に粉砕していた。
「な、なんなのよ……この、男は……っ!?」
巻き添えを食らわないよう余波を逸らしていたにもかかわらず、すぐ横に立っていたSSランクの魔女・九龍ですら、顔面蒼白になって滝のような冷や汗を流し、自分の喉元を押さえて一歩、二歩と後ずさっていた。 後方の冬夜や瑞希、夏芽たちも、先ほどアルディシアの中庭で手合わせした時とは比較にならない、神崎恭という存在の「本当の底」を垣間見て、声も出せずに立ち尽くしている。
俺は床にへたり込んで震える優子さんの目の前までゆっくりと歩み寄り、氷のように冷徹な声で言い放った。
「第二層の住人だか女神だか知らねえが、たかがその程度の看板で調子に乗るなよ、優子さん。俺がその気になれば、お前ら第二層の神様気取りなんざ、瞬きする間に魂ごと刈り取って無に還せるんだ」
俺は優子さんの震える瞳を見下ろし、静かに、しかし容赦なく言葉を突きつけた。
「自分の都合で、他人が必死に生きてきた人生や尊厳を軽く見るな。相手を見下して力づくで魂を奪おうとするなら――お前が今やってるのは、俺たちがぶっ潰そうとしてるメフィストの野郎と同じ、ただの傲慢な略奪だぞ」
「……っ……!!」
その言葉に、優子さんの瞳が大きく揺れ、ポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
俺はそこでようやく、全身から放っていた殺気をスッと引っ込めた。
重苦しい死の圧力が消え去ると、優子さんは床に両手をついたまま「はぁっ、はぁっ、けほっ……!」と激しく咳き込み、しばらくの間、震える肩で荒い息を繰り返していた。
俺の殺気によって完全に頭が冷えた彼女の顔には、もはや先ほどまでの焦りも、歪んだ選民意識も一切残ってはいなかった。ただ、自分がどれほど最低で傲慢な振る舞いをしていたかという、深い恥じらいと後悔だけが滲んでいる。
「……ご、ごめんなさい……神崎くん……」
やがて優子さんは、涙で濡れた顔を手の甲で拭い、震える声で俺に向かって頭を下げた。
「私……後藤さんやベルゼを助けたいあまり、頭がおかしくなっていました……。恩人であるあなたに、あんな思い上がった最低な言葉をぶつけて……本当に、ごめんなさい……」
「……いや、俺に謝る必要はないよ。優子さんが本当に頭を下げて、納得してもらわなきゃならない相手は、俺じゃないだろ」
俺が顎で隣を示すと、優子さんは小さく頷き、ふらつく足で立ち上がった。
そして、少し離れた場所で立ち尽くしていたもう一人の自分――九龍の前へと真っ直ぐに歩み寄ると、今度は誰に強制されるでもなく、自らの意思で黒曜石の床に両膝をつき、額が床につくほど深く頭を下げた。
「……ごめんなさい、九龍」
静まり返った礼拝堂に、優子さんの震える、けれど澄み切った声が響いた。
「神崎くんの言う通りでした。統合すればオリジンである私が優位になるからこそ、私は誰よりも、あなたがこの世界で生きてきた十年の人生と誇りに敬意を払わなければならなかったのに……。あなたを自分のスペアのように扱い、その人生を力づくで奪おうとした私の傲慢さを、どうか許してください」
プライドを完全に捨て去り、床に頭を擦りつけるもう一人の自分を見て、九龍の紫の瞳がわずかに見開かれた。
優子さんはそのまま顔を上げ、涙を浮かべた真っ直ぐな瞳で九龍を見つめて、心から懇願した。
「私は……あの日、私を命懸けで守ってくれた愛する人――後藤さんを、そして親友のベルゼを、どうしても助けたいんです。天獄で苦しんでいるあの方たちと、囚われた魂を救い出すには、今の私一人の力では到底足りません。……だから、どうかお願いです、九龍。私の人生に戻ってきて、あなたがこの過酷なエデンで磨き上げた十年の知恵と力を、私に貸してください……!」
それは、女神としてでも、オリジンの優位者としてでもない。
ただ愛する人と親友を救いたいと願う一人の女性が、もう一人の自分である誇り高き魔女へと捧げた、魂からの嘆願だった。
九龍はしばらくの間、床に膝をつく優子さんの姿を黙って見下ろしていたが――やがて、その赤い唇からふっと力が抜け、苦笑めいた妖艶な微笑みが浮かんだ。
「……ふふ、まったく。あのデタラメな蒸気機関車の男に感謝するのね、優子」
九龍は俺の方をチラリと振り返って肩をすくめると、優子さんの前へと優雅に屈み込んだ。
「あそこまで完膚なきまでに『格の違い』を見せつけられて、おまけに私の十年の人生まであんな風に立ててもらっちゃ、これ以上私が意地を張るのも野暮というものだわ」
九龍は優しい眼差しで優子さんを見つめ、その白く細い右手をスッと差し出した。
「いいわ、あなたの頼み、同意してあげる。オリジンであるあなたが主導権を握りなさい。ただし――私がこのエデンで泥を啜りながら積み上げた十年の記憶も、魔導の研鑽も、魔女『九龍』として生きた誇りも、すべてあなたの中で一緒に生き続ける。そのすべてを背負って、あなたのその『愛する男』とやらを救い出す覚悟があるなら……この手を取りなさい、高橋優子」
「……はい! あなたの生きた十年も誇りも、私のすべてで背負っていきます! ありがとう、九龍……!」
優子さんが感極まったように頷き、差し出された九龍の手を両手で強く握りしめた。
――その瞬間だった。 手を取り合った二人の身体から、互いの魂が完全に共鳴し合う温かくも荘厳な波動が礼拝堂中へと広がっていく。 優子さんの纏う純白の『光』と漆黒の『闇』の古代魔法と、九龍の纏う絢爛たる火・水・風・土の『四属性魔術』が、反発することなく美しい二重螺旋を描いて天へと立ち昇った。
「すごい……! 二人の魔力が、完全にひとつに溶け合っていく……!」
「なんて綺麗で、底知れない魔力なの……っ!」
美憂と瑞希が、眩い光の奔流を前に思わず感嘆の声を漏らす。 二つの輪郭が光の渦の中でゆっくりと重なり合い、十年前に引き裂かれた魂の欠片と記憶のすべてが、本来のひとつの器へと還っていく。
そして数秒後――礼拝堂を満たしていた眩い輝きが、静かに収まった。
そこに立っていたのは、黒い魔女のローブを光と闇のドレスのように美しく着こなし、優子さんの凛とした慈愛と、九龍の深淵なる知性と胆力を完璧に併せ持った一人の女性――完全なる覚醒を果たした【高橋優子】の姿だった。
彼女は自身の胸元にそっと手を当て、静かに瞳を開くと、俺と美憂、そして冬夜たち全員を見渡して、女神の威厳と魔女の不敵さを混ぜ合わせたような美しい微笑みを浮かべた。
「――お待たせしました、神崎くん、美憂さん。私と九龍の十年の歩み、いま完全にひとつに重なりました。……さあ、天獄への反撃の準備を始めましょうか」




