シーン9:鏡像の邂逅
商業都市連合アルディシアの宿屋、その最上階に設けられた作戦室。
ギルドの特務窓口へ緊急照会をかけてから丸一日余りが経過し、室内のテーブルの上には、大陸各地の支部や裏の情報屋から続々と届き始めた羊皮紙の報告書が山のように積み上がっていた。
「――恭さん。今しがた、北方のヴァルハイト支部と東方の交易都市からも定時外の追加報告が届きました。ですが、やはり『突然昏倒して人格が変わった女性』に関する有力な情報はまだ……」
書類の束に目を通していた岡田瑞希が、悔しそうに眉をひそめて顔を上げる。
向かいの席では、佐々木冬夜や悠希、莉子、夏芽たちも、ルミナスの地下禁書庫から持ち出した『封印指定区画』の古地図と各地の魔力観測データを突き合わせ、険しい顔で頭を捻っていた。
「焦るな、瑞希。これだけ広い大陸だ、辺境や隔離領域の情報が上がってくるまでにはどうしてもタイムラグがある。今はルミナスの教団の不審な動きや、その封印指定区画とやらに美憂の手がかりが隠されていないか、別方面の洗い出しを優先しよう」
俺――神崎恭は、冷めたコーヒーの代わりに宿の主人から貰った苦い薬草茶を一口啜り、部屋の隅の空間に浮かべておいた小さな『観測窓』へとチラリと視線を向けた。
半透明のウィンドウの中に映し出されているのは、黒き瘴気と荒涼とした岩山が連なる大陸西端の危険地帯――『旧魔導領域ネルガル』の深淵。
その最奥にそびえ立つ黒曜石の古城の門前に、一頭の馬を走らせて辿り着いた黒いフード姿の女性、高橋優子の姿だった。
「おっ、恭さん。あの画面に映ってるのって、前に言ってた優子さんって人か? すげえな、もうネルガルの魔女の城まで辿り着いたのかよ」
冬夜が地図から顔を上げ、観測窓を覗き込んで感心したように口笛を吹いた。
画面の中では、馬から降りた優子さんが城の重厚な鉄扉の前に立ち、ちょうど城の内側から扉を開けて出迎えに現れた、クラシカルな白と黒のメイド服を着たブロンド髪の若い侍女と向き合っているところだった。
「ああ。道中で魔獣の群れを蹴散らしたあと、馬に魔力を付与して昼夜を問わず駆け続けてたみたいだからな。予定よりずいぶん早く着いたらしい」
「ねえ恭さん、相手は世界に五人しかいないSSランクの魔女『九龍』なんだよね? 本当に今のうちに電車で助けに行かなくて大丈夫なの?」
夏芽が心配そうに猫耳を揺らして尋ねてくる。
だが、俺は画面の端で優子さんを城の中へと案内し始めた見知らぬブロンドの侍女の背中をなんの疑問も持たずに眺めながら、軽く首を横に振った。
「前にも言った通り、あっちは優子さんが自分の『魂の片割れ』と向き合う個人の問題だ。俺たちが無粋に踏み込むべきじゃない。それに、今の優子さんの出力なら九龍相手でも遅れは取らないだろうし、万が一命に関わるような事態にでもなれば、その時は俺がすぐに飛んでいくさ。……今は単純に二人が対峙するだけなら、このまま静観しておこう」
まさか、画面の向こうで顔を伏せて優子さんを案内しているあのブロンドの侍女の中に、俺たちが血眼になって探している『如月美憂』の魂が入っているなどとは夢にも思わず。
俺は観測窓の音声をミュートにしたまま部屋の隅へと縮小表示させると、「さあ、俺たちは俺たちの調査を続けるぞ」と再びテーブルの上の古地図へと意識を戻したのだった。
◆
――同時刻。旧魔導領域ネルガルの深淵にそびえる、黒曜石の古城。
重厚な鉄扉の向こうに広がる薄暗いエントランスホールへと足を踏み入れた高橋優子は、被っていた黒いフードを静かに下ろし、出迎えに現れたブロンド髪の侍女へと向き直った。
「突然の訪問にもかかわらず、扉を開けてくださってありがとうございます。城の主である『九龍』様に、お目通りを願いたいのですが」
優子が穏やかでありながらも凛とした声で告げた、その瞬間だった。
「っ……!? ひっ……!」
扉の脇で恭しく頭を下げかけていた侍女――マリアの器に入った如月美憂の身体が、まるで雷にでも打たれたかのようにビクリと激しく跳ね上がったのだ。
顔を上げた侍女の碧い瞳が、信じられないものを見るように大きく見開かれ、その顔からスッと血の気が引いていく。
(う、嘘……っ! た、高橋、優子さん……!? 本物の、優子さんだ……!!)
美憂の頭の中は、パニックと激しい動揺で真っ白になっていた。
数日前、この城の主である九龍の顔を初めて見た時にも同じように驚愕したが、今目の前に立っているのは、魔女の装束を纏った九龍ではない。あの日、原典世界の暗い夜道で、フィストに唆された美憂が【刈り取る者】の大鎌を振るって命を奪おうとし、彼女を庇った後藤光彦を目の前で刈り取ってしまった、あの『高橋優子』本人だったのだ。
(ど、どうしよう……っ! なんで優子さんがこのお城に……!? あっ、そうか、九龍様が言ってた『北の地に降り立った私の片割れ』って、やっぱり優子さんのことだったんだ……!)
美憂の脳裏に、あの夜の路地裏で光を失って倒れた後藤光彦の姿と、彼の名前を呼んで悲痛な叫びを上げていた優子の涙顔が鮮烈にフラッシュバックする。
恭から「光彦は天獄で生きている」と教えてもらっていたとはいえ、目の前の女性から大切な人を奪い、その命まで狙ったという取り返しのつかない罪悪感が、鉛のように美憂の胸を締め付けた。
「……あの? どうかされましたか?」
自分の顔を見た途端、まるで幽霊にでも出会ったかのように青ざめて固まってしまった侍女の様子に、優子が不思議そうに小首を傾げる。
もちろん、今の美憂はエデン側の同位体である『侍女マリア』の肉体に入っているため、顔立ちも髪の色も元の日本にいた頃とは全く違う。優子からすれば、見ず知らずの異国の侍女がなぜ自分を見てそこまで動揺しているのか、見当もつかないはずだった。
「あ、い、いえっ! なんでもありませんっ! わ、私、このお城で侍女をしております、マ、マリアと申します……っ!」
美憂は裏返りそうになる声を必死に抑え込み、優子の真っ直ぐな視線から逃げるようにバッと深く頭を下げた。
(よ、よかった……姿が違うから、私が美憂だとは気づかれてない……! で、でも、正面から顔を見るなんてとてもできないよ……っ!)
「く、九龍様から『もうじき客人が来るから案内するように』と申しつかっております! こ、こちらへどうぞっ!」
美憂は額にびっしょりと冷や汗を浮かべたまま、くるりとぎこちなく背を向けた。
そして、右手と右足が同時に出そうなほど妙にギクシャクした足取りで、長い廊下の奥へと早足で歩き出す。時折チラチラと背後を振り返っては、優子と目が合いそうになるたびにビクッと肩を震わせて不自然に視線を逸らす始末だった。
(……奇妙な侍女ね。主である九龍と私が同じ顔をしているから驚いたのかとも思ったけれど、それにしては随分と怯えているような、何か後ろめたいことでも隠しているような態度だわ……)
優子は前を歩く侍女の不自然な背中に小さな疑問を抱きつつも、城の内部に漂う濃密な魔力の気配へと意識を切り替えた。
黒曜石の壁に囲まれた回廊を進むにつれ、空気の密度が一段と重くなっていく。やがて侍女が足を止めたのは、城の最深部に位置する、天井の高い巨大な礼拝堂のような広間の前だった。
「こ、この奥に、九龍様がお待ちです……っ」
美憂が震える手で重厚な両開きの扉を押し開けると、その奥には、巨大なステンドグラスから差し込む『青い月』の光を背に受けて、黒衣の魔女がひとり静かに佇んでいた。
「――よく来たわね、もう一人の私。ここまで辿り着くのに、もう少し時間がかかるかと思っていたわ」
広間の奥から響いたのは、優子自身の声と寸分違わぬ、それでいてどこか長い歳月の重みと妖艶さを帯びた美しい声だった。
優子は一歩、広間の中へと足を踏み入れた。
祭壇の前に設えられた黒檀の椅子の前で、つば広の帽子を脱ぎ、長い黒髪を揺らしてこちらを見つめているSSランクの魔女――『九龍』。
その顔立ちは、鏡を覗き込んでいるのかと錯覚するほど、高橋優子と完全に同じだった。
「あなたが、九龍……。間違いなく、私の『魂の片割れ』なのですね」
優子が静かに足を止めて見据えると、九龍は紫がかった瞳を細め、どこか懐かしむように、それでいて観察するように優子の姿を眺めた。
「ええ、そうよ。……もっとも、こうして直接向き合うと不思議な気分ね。あなたが『高橋優子』としてあちらの世界で生きていたのと同じように、私もまた、この世界で『九龍』として生きてきたのだから」
「……私のことを、どれほど知っているのですか? 十年前に私が魂を割った時の記憶は、ほとんど私が持っていったはずですが」
優子の問いに、九龍は自らの胸元に白い指先を添えて、ふっと苦笑めいた笑みを浮かべた。
「ええ、あなたの言う通り、最初から明確な記憶が残っていたわけじゃないわ。十年前――私は突然、何の脈絡もなくこの『ミラージュ・エデン』の荒野にひとりで放り出されたのよ。自分が何者なのかも分からないまま、ただ胸の奥にぽっかりと空いた『半分欠けている』という強烈な喪失感と、身に覚えのない膨大な魔導の感覚だけを抱えてね」
「……っ」
「この世界の文献や歴史をいくら調べても、私という存在の答えはどこにも書いていなかったわ。……だから私は、このネルガルの城に籠もり、魔術と瞑想によって自分自身の『魂の深層』へと潜り込むことにしたの。欠け落ちた器の底にこびりついていた、潜在的な記憶の残滓をひとつずつ手繰り寄せるためにね」
九龍はゆっくりと祭壇の階段を下りながら、鋭い知性の光を宿した紫の瞳で優子を射抜いた。
「そうして十年の歳月をかけて潜在意識の底を辿り、私は少しずつ『思い出した』のよ。――この世界が千年前に分断された箱庭であること。十年前に『天獄』と呼ばれる狭間の領域で魂の略奪事件が起き、その裏をかいて誰かを救うために、本来の『私』が自らの魂を二つに割って、片方をオリジンへ、もう片方をこのエデンへと逃がしたのだということもね」
「潜在的な記憶を辿って、そこまで……ご自分の力で思い出していたのですか」
優子は息を呑んだ。
表層の記憶を持たぬまま見知らぬ異世界に放り出され、それでもただ流されるのではなく、自らの魂の深淵を掘り起こして世界の真理と自らのルーツを掴み取っていたもう一人の自分。その執念と強靭な精神力に、優子は確かな畏敬を覚えずにはいられなかった。
「なら、話は早いはずです、九龍」
優子は一歩前へ進み出て、真っ直ぐに九龍へと右手を差し出した。
「今、天獄では十年前の元凶であるメフィストが再び動き出し、多くの魂が危機に瀕しています。あちらの世界から私たちの仲間もすでにこのエデンへ到着しました。……メフィストを討ち、傷ついた魂たちを救い出すためには、私たちが再び『ひとつ』に戻り、女神サラとしての本来の力と記憶を完全に呼び覚ます必要があるのです」
真摯な優子の言葉が、静まり返った広間に響き渡る。
扉の脇で息を潜めて見守っていた美憂も、(この二人がひとつに戻れば、すごい力になるはず……!)と固唾を呑んで見守った。
だが――九龍は差し出された優子の手を見つめたまま、すぐには頷かなかった。
やがて彼女の赤い唇が、三日月のように妖しく弧を描いた。
「……ふふ。理屈としては正しいわね、高橋優子。世界を救うために、割れた魂をひとつに戻す。とても立派で大義のあるお話だわ」
九龍が軽く指先を振るうと、広間の空気が一変し、大気がビリビリと震えるほどの濃密な魔力の渦が立ち昇った。
「だけどね、ひとつだけ勘違いしないでちょうだい。私はこの十年間、あなたの『スペアパーツ』としてここで眠っていたわけじゃないのよ。泥を啜り、血を流し、『九龍』という一人の魔女としての自我と誇りを持ってこの世界を生きてきたの」
九龍の周囲に、無詠唱で練り上げられた火・水・風・土の四属性の魔光が、まるで絢爛たるドレスのように渦を巻いて顕現する。
「記憶を取り戻しにきました、はいどうぞと大人しくあなたの中に消えてあげるほど、私は聞き分けのいい女じゃないわ。……もし本当に私を呑み込んで『ひとつ』に戻りたいというのなら、今のあなたが私のこの十年間の研鑽と誇りを上回るだけの器かどうか、その力で証明してみせなさい!」
「……っ! やはり、言葉だけで譲ってはくれないのですね」
優子の表情が凛と引き締まり、差し出していた右手を静かに引き戻す。
自分がどれほど強い意志を持つ人間であるかは、優子自身が一番よく知っている。だからこそ、もう一人の自分がただ従順に頭を下げるはずがないことも、心のどこかでは理解していた。
「いいでしょう。あなたがこの過酷な世界で積み上げてきた十年の重み……私の全力をもって、正面から受け止めてみせます!」
――ゴオォォォォッ!!
優子の全身から、九龍の四属性魔術に真っ向から拮抗する、純白の『光』と漆黒の『闇』の古代魔法が爆発的に噴き上がった。
SSランクの魔女と、覚醒した古代魔法の使い手。同じ魂のルーツを持つ二人の美女が放つ規格外のプレッシャーが広間の中心で激突し、黒曜石の床や柱がミシミシと音を立ててひび割れ始める。
「っ、くうっ……!? な、なにこれ、二人とも魔力がすごすぎる……! このままぶつかったら、お城ごと吹き飛んじゃうよ……っ!」
凄まじい魔力の暴風に煽られ、壁際で悲鳴を上げた美憂は、反射的に一歩前へと飛び出していた。
自分の特訓相手になってくれた恩人である九龍と、自分がかつて傷つけてしまった優子。その二人が本気で殺し合いのような激突を始めようとしているのを前に、美憂はほとんど無意識のうちに右手を虚空へと突き出し、二人を宥めようと――あるいはその暴威から身を守ろうと、自らの武器を呼び出していた。
「ふ、二人とも、待ってくださいっ!!」
美憂の叫びとともに、闇の粒子が弾け、ブロンドの侍女の手の中に黒銀の巨大な大鎌――【刈り取る者】がギラリと実体化し、その刃から後藤光彦より受け継いだ『光と闇』の魔力が溢れ出した。
その瞬間。
魔力をぶつけ合っていた優子の視線が、横から割って入った侍女の手にある「大鎌」へと向き――その双眸が、驚愕に大きく見開かれた。
「なっ……!? そ、その大鎌と魔力は……まさか、あの日、私と後藤さんを襲った……!?」
◆
――そして、同じ瞬間。
遥か東方、商業都市連合アルディシアの宿屋の作戦室。
「……恭さん! 見てください、部屋の隅の『観測窓』が……!」
テーブルの上で地図を広げていた瑞希の鋭い声に、俺――神崎恭はハッと顔を上げて部屋の隅のウィンドウへと視線を走らせた。
静観するつもりで縮小していた『観測窓』が、ネルガルの古城で発生した異常な高次元魔力の激突に反応し、自動的に拡大されて赤いアラートのように明滅していたのだ。
「チッ、優子さんのやつ、やっぱり九龍とやり合うことになったか……!?」
俺が舌打ちしながら立ち上がり、画面の中を食い入るように見つめた、まさにその時だった。
ウィンドウの画面の中――光と闇を纏う優子さんと、四属性の魔力を渦巻かせる九龍の二人の間に、さっき城門で出迎えをしていたあの『ブロンド髪の侍女』が割って入るのが見えた。
そして、その侍女が両手で構えていた「得物」が画面にハッキリと映し出された瞬間、俺の思考がピタリと凍りついた。
「……え?」
黒銀に輝く、禍々しくも美しい巨大な大鎌の刃。
見間違えるはずがない。つい昨日、オリジンの廃工場で俺自身がその手で触れ、メフィストとの戦いで何度も目にした【刈り取る者】のレプリカ。さらにその大鎌の周囲には、光と闇の魔力だけでなく、夏芽の水土や藤原姉妹の風によく似た複合魔力の輝きが揺らめいている。
「……あれ? ちょっと待てよ、あの鎌……」
俺は目をゴシゴシと擦り、画面の中のブロンドの侍女の姿を穴が空くほど凝視した。
「おい、なんで九龍の城の侍女が、美憂の【刈り取る者】を持ってんだ……!? いや、待てよ……昨日の夜、同位体の器に飛ばされたってことは……あれ、あいつ美憂か!?」
「「えええええっ!? あのメイド服の人が、美憂さんですかァ!?」」
俺の叫びに、画面を覗き込んでいた冬夜たち五人が一斉にひっくり返りそうなほどの大声を上げた。
画面の向こうでは、侍女が抜いた大鎌を見て優子さんの目つきが険しく変わり、九龍も不敵に微笑んで、今にも三つ巴の激しい戦闘が幕を開けようとしている。
「くそっ、灯台下暗しにも程があるだろ! まさか最初から優子さんの向かってた九龍の城の侍女に入ってたなんて……!」
俺はテーブルを蹴飛ばさんばかりの勢いで立ち上がり、黒いロングコートをバサリと翻して吠えた。
「おいお前ら、静観は今すぐ中止だ! 武器を持て、全員俺の【幻影電車】に乗れ!! 今すぐネルガルの城へ飛んで、あいつらの戦いに殴り込むぞ!!」




