シーン8:道化師(トリックスター)の哄笑
古い魔力(神気)によって静かに守られた小部屋で、後藤光彦は寝台に横たわる半透明の若い女性の魂を見下ろしていた。
「……ソレイユさん、ちょっといいっすか?」
光彦は顎に手を当てて目を細め、隣に立つ銀髪の女性――生身の肉体を持つ旧世代の生き残りであるソレイユへと視線を向けた。
「この子、間違いなくエデン側から追い出された『美憂さんの同位体』の魂なんすけど……よく見ると、魂の表層にかなり強い魔導の波長が定着してるんすよね。オリジンの人間には絶対にあり得ない、エデン特有の能力持ちの波長っす」
「ええ、そうね。ここへ運んできた時、集落の連中が妙にざわついていたのもそのせいよ。十年ぶりに『あちら側』の波長を持った新入りが落ちてきたんだから」
何気ないソレイユの言葉に、光彦はポリポリと頬を掻いていた手をピタリと止めた。
「……えっ? ちょっと待ったっす、ソレイユさん。今、十年ぶりにって言いました? ここって、十年前のオリジン大量虐殺の犠牲者たちが集まってる場所じゃないんすか?」
聞き返す光彦に、ソレイユは不思議そうに眉をひそめて鼻を鳴らした。
「オリジンだけの犠牲者? 貴方、さっきから何を勘違いしているの。この集落にいる魂たちを十年も見守り続けてきた私が言っているのよ。ここにいる連中の半数以上は、その『オリジン』とやらの人間じゃない。今そこで眠っている娘と同じ――生まれつき魔導の力を宿した、もう一つの世界の魂たちよ」
「……っ!? な、なんだって……!?」
お気楽だった光彦の表情から、一瞬にして笑みが消え失せた。
小部屋の入り口から見える集落の光景――そこに身を寄せ合う半透明の人影たちを、光彦は食い入るように見つめ直す。
魂の強度が弱く透き通っているせいで一見すると区別がつきにくいが、たしかに集落にいる魂たちの多くが、オリジンの人間には存在しないはずの『異能の残滓』を微かに帯びているのだ。
(うそだろ……。俺たち冥界管理委員会は、十年前の事件を『メフィストがオリジンの人間を大量に刈り取った虐殺事件』だとばかり思ってた。けど、ここにエデンの能力持ちの魂が大量に保護されてるってことは……!)
光彦の脳裏で、恐るべき因果のパズルが音を立てて組み上がっていく。
「メフィストの野郎……十年前からすでに、オリジナルの『リーパー』を使ってオリジンの魂をエデンへ大量にポゼッションさせてたのか……! そして、向こうで身体を乗っ取られた『成り代わりの被害者』たちが、器から弾き出されてこの座標に流れ着いてたってわけっすね……!」
背筋に冷たいものが走った。
もしそうなら、十年前におこなわれた実験の裏で、すでにオリジンから別の世界へと移り、何かしらの能力を得た人間たちが人知れず存在していることになる。そして今回、メフィストがオリジナルの『リーパー』で美憂を切り裂いたことでポゼッションが起き、再び『成り代わりの被害者』となったエデンの魂が、十年前と同じ法則でこの集落へと落ちてきたのだ。
「……つくづく底の知れない野郎っすね。とはいえ、あのメフィストも恭さんに深手を負わされてたっすから、最低でも三日は身動きが取れないはずっす。その間にこの子が目覚めてくれれば、美憂さんがエデンのどこへ飛んだのか手がかりが掴めるんすけどね」
光彦は険しい表情で息を吐き出し、静かに眠り続ける半透明の娘へと再び視線を落とした。
◇
同じ頃――天獄の深淵に広がる、黒き霧と無数の鎖が漂う虚無の領域。
次元の裂け目から転がり出るようにして帰還したメフィスト(フィスト)は、赤と黒の道化師の装束を乱し、激しく抉られた胸元を黒手袋の手で鷲掴みにしながら苦悶の喘ぎを漏らしていた。
「……グ、クソが……ッ! あの男……神崎恭、と言ったか……!」
白塗りの道化師の仮面にまで亀裂が走り、その奥の双眸が血走って見開かれる。
魂の表層はおろか、魔力を内包する『器』の深部にまで達する致命的な裂傷。かつて奪い取った神々の魂を動力源としているメフィストの再生力をもってしても、傷口に焼き付いた異質な力の残滓が修復を拒んでいる。まともに動けるようになるまで、最低でも三日は要する深手だった。
(なぜだ……。第一層の世界では、どんな力であろうと九割もの制限を受けるはずだ。それなのに、複数の神の権能を同時に操る『トリックスター』たるこの私が、なぜたかが人間ごときにここまで一方的に蹂躙された……!?)
痛みに震える思考の中で、メフィストはつい先ほどまで対峙していた神崎恭の姿を反芻する。
苛烈な雷炎、緻密な光と闇の魔導、気配を完全に消し去る隠密に、空間そのものを断ち切る剣閃。恐るべきは、その手数の多さではない。あの男は、本来なら一人の人間が到底扱いきれないはずの複数の異能を、まるで最初から自身の肉体に備わっていたかのように、寸分の淀みも反発もなく同調させて振るってみせたのだ。
(あれは、封印の間に閉じ込めたベルゼの小娘が与えた力などでは断じてない……! あの女の権能は、階層を繋ぐ『門』の力に過ぎん。他者の異能の構造を瞬時に掌握し、自らの力として再現するなどという芸当、あの小娘にすら不可能な領域だ……!)
では、あの異常な力の正体は何なのか。
胸を焼く激痛の中で思考を巡らせていたメフィストの脳裏に、ふと一族に伝わる古い記録がよぎった。
かつて世界が分断される前、他者の能力を刈り取って構造を解析し、己や周囲の者へと分け与えたという伝説の存在――【死神】。
メフィストの一族が外宇宙の『隕石』を器として加工し、『刈り取る者』として模倣・再現した技術の、まさに『原典』となった力だ。
「……まさか。かつての大戦で魂を二つに割られたはずの【死神】……。あの神崎恭という男は、その割られた魂の片割れだとでもいうのか……!?」
仮面の奥で、メフィストの頬を冷たい汗が伝う。
もしあの男が『リーパー』の原典たる魂の持ち主ならば、神器すら介さずに複数の異能を同調させていた理由も説明がつく。模倣品を振るう自分が、正面からぶつかって勝てる道理などなかったのだ。
「……ハッ、忌々しい化け物め……! まさかオリジンの片隅に、一〇〇〇年前の亡霊が紛れ込んでいたとはな……!」
吐き捨てるように呻き、メフィストは膝をつきそうになる身体を支えるため、傍らに突き立てたオリジナルの黒鎌『刈り取る者』の柄を強く握り締めた。
――その瞬間だった。
ドクン、と黒曜石の刃が脈打ち、大鎌の内部からメフィストの傷ついた器へと、膨大な魔力の奔流が流れ込んできたのだ。
「……む……!? これは……『光と闇の古代魔法』に、複数の異能の波長……!?」
胸を押さえていたメフィストの指先がピクリと跳ねる。
流れ込んできたのは、冥界管理委員会の若造(光彦)が宿していた古代魔法だけではない。黒紫の呪いの糸、ダメージを肩代わりする盾と共鳴増幅、さらには――清冽で濃密な『水と土の魔導』の知識と力だった。
(そうか……! 如月美憂のレプリカに仕込み、十年間裏でアップデートし続けてきた機構……! 私のオリジナルで美憂を切り裂いて刈り取りをおこなった瞬間、大鎌同士の共鳴によって、美憂が得ていた能力を私自身にもそのまま『コピー』できたのか!)
かつて天獄へ弾き出した魂は、肉体という『器』を持たぬがゆえに、どれだけ集めてもただのエネルギー資源にしかならなかった。手駒となる英霊を作ろうにも、器なき魂では顕現すらできずに潰えたのだ。
だが、生身の肉体を持つ美憂にレプリカを握らせて刈り取りを繰り返させたことで、彼女の器そのものが強化され、異能が定着することが証明された。そして今、オリジナルの大鎌で彼女を斬ったことにより、美憂の器に刻まれていたすべての能力が、メフィスト自身の内にも完全に複製されたのである。
メフィストはすぐさま、コピーしたばかりの能力の中から『水魔法』の構造を引き出し、その魔力を生命力の活性化――すなわち『治癒』へと応用して自らの裂傷へと巡らせた。
ジュウウッ、と音を立てて黒い霧が晴れ、清らかな蒼い水の魔光がメフィストの胸元の傷口を包み込む。神崎恭の剣閃によって抉られた魂の亀裂が、水魔法の応用治癒によって見る間に繋ぎ止められていく。
「クク……クハハハハハッ! 素晴らしい、素晴らしいぞ如月美憂! 貴様からコピーしたこの『水』の魔導を治癒に転用すれば、三日は動けぬと見ていたこの深手も、そう時間をかけずに塞ぐことができる……!」
苦悶に歪んでいた道化師の仮面が、歓喜の哄笑に震える。
本来ならオリジンで美憂の肉体ごと回収して人工英霊(手駒)に仕上げる算段だったが、背後に【死神】の魂を持つ神崎恭がいる以上、あちらの世界で直接美憂を狙うのはリスクが高すぎる。
(だが、正面からあの化け物とやり合う必要などない。私のオリジナルで美憂を切り裂いた以上、美憂の魂はエデンの同位体へとポゼッションし、成り代わりの被害者となった『エデンの魂』は、十年前と同じあの座標――ソレイユの縄張りへと落ちているはずだ)
七百年前の戦いで唯一討ち漏らした旧世代の生き残り、ソレイユ。
彼女が黒い霧の奥で、十年前の実験で弾き出された魂たちを集めて保護していたことは、メフィストもとうに把握していた。それでも今まで手を出さずにソレイユの好きにさせていた理由は、極めてシンプルだ。
あの女に任せておけば、貴重な実験資源である魂が天獄の亡者どもに喰われて散逸することもなく『安全に保管』でき、なおかつソレイユ自身が張る神気の結界が、神界や冥界管理委員会の目から実験の痕跡を覆い隠す最高の『隠蔽工作』になっていたからである。
「頼みもしないのに、私の大切な資源を十年もの間、誰の目にも触れさせず厳重に保管し続けてくれたのだ。そろそろ倉庫番の役目は終わりにしてやろう、ソレイユ」
胸元の蒼い治癒の光を見つめながら、メフィストは仮面の奥で三日月のように唇を吊り上げた。
「傷が塞がり次第、まずはソレイユの保管庫からそのエデンの魂を頂くぞ。そいつを餌にして、エデンへ逃げた美憂の器もろとも、私の最高の手駒(英霊)として引きずり出してやる……!」
鎖が揺れる天獄の深淵に、手負いの道化師の不気味な笑い声がいつまでも木霊していた。




