シーン8:雷炎の戦士と碧土の魔導士
大迷宮の淵に構築された第一防衛線は、すでに地獄絵図と化していた。
黒鉄の甲殻をまとった巨獣――この大群の主である【変異種・岩甲獣】が、地響きを立てて防壁を砕く。飛び散る礫と、防衛隊の悲痛な叫び声。後衛部隊の最前線に立つ夏芽は、乱れる猫耳を伏せながら短杖を地面へ突き立てた。
「【土壁】、展開……っ!」
ズズズ、と足元から迫り出す土の防壁。直後、岩甲獣の太い前脚が激突し、爆風とともに夏芽の身体が吹き飛ばされた。泥に塗れ、吐息を乱しながらも必死に立ち上がる。
(強い……! ランクDのパーティじゃ、足止めすら……っ!)
後衛の術士たちが次々と倒れ、前線は完全に瓦解していた。咆哮を上げる岩甲獣が、赤い鋭眼を夏芽へと向ける。逃げようにも脚が竦み、魔法を詠唱する余力すら残っていない。巨獣の質量を乗せた爪が、夏芽の頭上から振り下ろされた。
(ダメ……っ、ここまでなの……!?)
死を覚悟し、ぎゅっと目を閉じた――その瞬間。
バヂィィィッ!!
紫電の嘶きと、大気を焦がす熱風が戦場を支配した。 視界を埋め尽くしたのは、空から降り立った一筋の狂光。落雷のような衝撃とともに、岩甲獣の巨躯が横合いから激しく吹き飛ばされ、硬質な甲殻が砕け散る音が響き渡る。
「ガ、アァァっ!?」
煙が巻き上がる爆心地。そこに立っていたのは、一人の青年だった。 彼の左肩から先――本来あるはずの肉体は存在しない。代わりに、密度の高い紫電と赤熱の火炎が脈打ち、かろうじて「腕」の輪郭を形作っていた。封印帯を固く巻きつけて無理やり抑え込んでいるが、剥き出しの魔力が周囲の大気をバチバチと焦がしている。
「おい……邪魔だ、どいてろ」
低く、擦り切れた声。 青年が残った右手で左肩の封印帯を緩めると、代用の左腕を構成する雷炎が暴れ出し、周囲の地面を溶かしていった。
その背中を見た瞬間、夏芽の息が止まった。 頭の中が真っ白になり、心臓が肋骨を突き破らんばかりに跳ね上がる。髪型も、纏う雰囲気も、その禍々しい魔力の腕も、自分の記憶にある姿とはまるで違う。
――けれど、解ってしまう。
(お兄……ちゃん……?)
魂の根底が、その存在を叫んでいた。 自分だけがこの異常な世界に飛ばされ、兄は元の世界で生きているのだと信じ込んでいた。だが、目の前にいるのは間違いなく、世界でたった一人の兄・佐々木冬夜だった。
「グオォォォッ!」
姿勢を立て直した岩甲獣が、殺気を露わにして冬夜へと突進する。 だが、冬夜は眉一つ動かさず、実体化した雷炎の左腕を前方へ突き出した。
「『雷炎・百連爆』」
ドォォォォンッ!!
紫電の超高速打撃と爆炎が同時に炸裂し、巨獣の身体が内側から破裂する。一瞬で防衛線の脅威を肉塊へと変えた冬夜は、ふぅと短く息を吐いた。代用の左腕から伸びる稲妻が、反動で彼の右腕や胸元の肉体をじわじわと焼き削り、苦痛に眉をひそめる。
血煙が舞う中、冬夜が静かに振り返る。 その冷徹な視線が、地面にへたり込んだまま自分を見つめる夏芽へと注がれた。
「……おい、怪我はないか。フェリシアの術士」
「あ……」
冬夜の瞳には、一切の感慨もなかった。 目の前にいる少女の猫耳と尾、そして【土】と【水】の魔法の残滓を見て、ただの「現地人の支援探索者」としてしか認識していない。
(お兄ちゃん……私だよ! 夏芽だよ……っ!)
叫び出しそうになり、喉まで出かかった言葉。 しかし、夏芽の唇は震えるだけで、音を結ぶことはできなかった。
俯いた視界に入ったのは、自分の華奢なフェリシア族の手。ルナという少女から奪ってしまった身体。 自分はもう、兄の知る「佐々木夏芽」の姿をしていない。それに、もし「自分がルナの体を奪って生きている」という残酷な現実を知ったら、お兄ちゃんはどう思うだろう――。
「……大丈夫、です。助けてくれて、ありがとうございました」
夏芽は必死に声を絞り出し、小さな頭を深く下げた。 ポロポロとこぼれ落ちる涙を、冬夜に見られぬよう泥で汚れた袖で拭いながら。
「そうか。ならいい」
冬夜は興味を失ったように背を向け、ギルドの回収部隊へ向かって歩き出した。その背中はあまりに狂気的で、傷つき、擦り減っているように見えた。
(お兄ちゃん……左腕がなくなってる……。どうして、そんな命を削るような戦い方をしてるの……?)
本当の自分を明かせないまま、遠ざかっていく兄の背中を、夏芽はただ立ち尽くして見送ることしかできなかった。




