シーン1:蒼月を駆ける方舟
ガタン、ゴトン――と、規則正しくもどこか幻想的な駆動音が、静かな車内に響いていた。
俺――神崎恭は、窮屈な車掌の制服を脱ぎ捨て、着慣れた黒のインナーとラフな私服の上に黒いロングコートを羽織った姿で、誰もいないロングシートの窓枠に肘をついていた。
強化ガラスの車窓の向こうに広がっているのは、見慣れた東京の窮屈なビル群でもなければ、無機質な地下鉄のトンネルでもない。 どこまでも続く分厚い雲海と、無数の星々が煌めく異界の夜空だ。
俺が自身の【死神】の権能をフル稼働させ、空間遮断と時間跳躍、そして光と闇の古代魔法を複合付与して造り変えた次元の列車――【幻影電車】は今、見えない空間の軌道を滑るようにして、鏡像世界『ミラージュ・エデン』のはるか上空を飛んでいた。
ふと視線を上げれば、夜空の天頂には、地上を青白く照らし出す巨大な『青い月』がぽっかりと浮かんでいる。 原典世界から見上げていた時は黄色く見えていたあの月こそが、一層世界と二層世界の狭間に存在する巨大な門【天獄】だ。あの青い月の内側で、いま後藤光彦と女神ベルゼが、手負いのメフィストから魂たちを守るための「最悪の一週間」を戦っている。
「……本当に、デタラメな世界だな」
俺は窓ガラスに額を近づけ、雲海の切れ間から覗く広大な大地を見下ろした。
思えば、最初の転移者である佐々木冬夜を俺の電車でこの世界へ送り出してから、すでに十ヶ月近くの月日が流れていた。 そして、あのバスジャック事件を機に美憂が俺の前から姿を消し、俺が狭いワンルームの自室で『観測窓』という小さな四角い画面越しにこの世界を覗き見ながら彼女の背中を追い続けてから、ちょうど半年になる。
半年間、画面の中でしか見ることのできなかった異界の景色。 だが、実際にこうして次元の壁を越え、自らの肉体で乗り込んでみれば、そこにはモニター越しでは決して伝わらなかった圧倒的な「現実」の質量があった。
遥か西方に広がるのは、夜の闇よりも深い原生林がうねる『辺境樹海国グラニア』。 北方の地平にそびえ立つのは、万年雪と吹雪に閉ざされた険しい山脈『永劫霊峰国ヴァルハイト』。 そして、荒涼とした大地にいくつもの街の灯りが星屑のように瞬き、無数の人間や亜人、魔獣たちがそれぞれの生を営んでいる。
今からおよそ千年前。外宇宙からの侵略と内部抗争によって消耗し、二つに割れてしまった英雄たちの魂を保護・隔離するため、統治者が世界を分断して創り出したもう一つの箱庭――それが、この『ミラージュ・エデン』だ。 オリジンが「記憶と能力」を封じた平穏な世界であるのに対し、このエデンは「本来の強大な英雄の力」を制限しつつも、魔術やスキルという形で異能が息づく裏の世界。
俺は窓辺から身を起こし、自分の右手を目の前に掲げて軽く握りしめた。
――ズキン、と。 心地よい魔力の奔流が、血管の隅々までを一瞬で駆け巡る。
(……身体が、嘘みたいに軽いな)
本来、オリジンにおいては神の定めた理によって、いかなる異能も九割方カットされるはずだった。 もっとも、俺の場合は十ヶ月前にエデンへ送った冬夜たちが強くなり、次々と新しい転移者たちの能力がフィードバックされてシステムとのパスが太くなった結果、オリジンにいながらすでに制限の壁を食い破り、本来の五〇パーセント近い出力を引き出せるようになっていた。だからこそ、あの廃工場でも神であるメフィストを正面から圧倒することができたのだ。
だが――このミラージュ・エデンに渡ってきた今、俺の身体を縛り付けていた「残り半分」の重石すら
も、完全に消え失せていた。 冬夜の雷炎も、瑞希の空間切断も、松岡の時間停止も、玲奈の刃も、愛奈の具現化も、そして優子さんの光と闇の古代魔法も。今の俺なら、一〇〇パーセントのフルスペックで、まるで呼吸をするようにノータイムで同時行使できる。
「……よし。だが、いつまでも景色に見惚れて感傷に浸ってる場合じゃない。観光に来たんじゃないんだからな」
俺は小さく息を吐き、コートの裾を翻して車内の中央へと歩み出た。 残されたタイムリミットは、光彦が天獄を持ちこたえさせると約束してくれた「一週間(七日間)」だけだ。半年間追い続けてようやく手が届きかけた美憂を、今度こそ完全に奪い返すためにも、一分一秒たりとも無駄にはできない。
「まずは座標の確認だ。……そういえば、高橋先輩から優子さんのことも頼まれていたな」
俺が軽く指を鳴らすと、車内の空間に半透明の『観測窓』が複数展開された。 同じエデンの次元内に入ったことで、俺が転移させた人間たちとのパスは、オリジンにいた頃とは比較にならないほど鮮明に、正確な位置情報を伝えてきていた。
一つのウィンドウに、吹雪が舞う北方の街並みが映し出される。 先んじてエデンへ渡り、『光と闇の古代魔法』に覚醒していた高橋優子――女神サラが降り立っていたのは、『永劫霊峰国ヴァルハイト』の前線拠点だった。画面の中では、フードを目深に被った優子さんが、拠点の古びた酒場で、この世界で独り歩きしているという自分の『魂の片割れ』の手がかりを探して情報収集している姿が見える。
「なるほど。優子さんはヴァルハイトに降り立って、そこから単独で自分の『半身』の行方を追って動いてるのか。力も使いこなしてるし、あの様子ならしばらくは一人でも大丈夫そうだな」
俺は優子さんの無事を確かめてそのウィンドウを縮小すると、次なる本命の座標へと意識を集中させた。
「さて……俺の最初の合流相手、佐々木冬夜たち『アニマの器』はどこにいる?」
メインの観測窓がバチリと切り替わり、すぐ眼下に広がる巨大な石造りの城塞都市――世界中から人と金と情報が集まる『商業都市連合アルディシア』の夜景を映し出した。 無数の魔導灯が輝く街の中心部、冒険者ギルド支部【黄金の天秤】の近くにある一軒の宿屋。その最上階の作戦室として借り切られた広い一室に、五つの強い魔力反応が固まって存在していた。
画面の向こうでは、十ヶ月前に俺が送り出した義手の青年・佐々木冬夜と、世界で十四人目のSランク冒険者となった岡田瑞希、フェリシア族の夏芽、そしてハーフエルヴンの双子である藤原悠希と莉子の五人が、テーブルに広げた地図を囲んで真剣な表情で話し合っている。
「いたぞ。ちょうど今、アルディシアの宿で五人全員揃って作戦会議中か。手間が省けて助かる」
俺の口元に、自然と不敵な笑みが浮かんだ。 美憂の居場所を最短で割り出すには、Sランクとなった瑞希が持つギルドの情報網と、美憂の【刈り取る者】でエデンへ送られた夏芽や藤原姉妹の「魂のバイパス」の共鳴が不可欠だ。そして何より、天獄にいるルナたちの元の魂を救い出すという共通の目的を持つあいつらは、俺が天獄へ突入するための最高の戦力になる。
「行くぞ、【幻影電車】。アルディシアの街中へ降りる」
俺の意思に呼応し、雲海の上を飛んでいた列車が大きく高度を下げ始めた。 もちろん、こんな巨大な鉄の塊をそのまま大都市の真ん中に着陸させれば大騒ぎになる。俺は列車全体に瑞希の【透明な拒絶】の魔力をコーティングし、姿も駆動音も空間から完全に遮断した状態で、夜のアルディシアの街へと滑空させた。
数分後。 賑わう大通りから一本外れた、誰もいない静かな路地裏の空間に、不可視の列車が音もなく滑り込んで停車した。
プシュウゥゥ……と魔力の蒸気が抜け、開いたドアから、俺はアルディシアの冷たい石畳の上へと一歩を踏み出した。 俺が外へ出ると同時に、背後の【幻影電車】は青い光の粒子となって霧散し、俺の権能の中へと静かに収納されていく。
肺いっぱいに吸い込んだ異世界の夜の空気は、どこかスパイスの香りと、遠くの港から吹く潮風の匂いが混ざり合っていた。 俺は黒いコートのポケットに両手を突っ込むと、自身の気配を薄く消したまま、路地裏を抜けて冬夜たちがいる宿へと向かって迷いなく歩き出した。
◆
アルディシアの中心街にある大振りな石造りの宿屋、その最上階の一室。 室内には、ランプの温かい光の下で古地図を睨む『アニマの器』の五人の姿があった。
「――ルミナスの教団からの圧力は瑞希のSランク特権で抑え込めたが、問題はここからだ。この羊皮紙にある各国の封印指定区画をどういう順番で回るかだな」
「ええ。それに、さっきからなんだか胸のあたりがざわつくの……。まるで、私たちがこの世界へ来た時と同じような、強い空間の揺らぎが近くに来ている気がして……」
冬夜の言葉に、空間干渉の異能を持つ瑞希がふと眉をひそめ、胸元に手を当てた。 隣にいた夏芽や、悠希、莉子も「実は私も、さっきから誰かに呼ばれているような不思議な感覚がするの」「ええ、とても懐かしくて、それでいてすごく強大な気配が……」と不安げに顔を見合わせる。
その時だった。
――コツ、コツ、コツ……。
誰も近寄らせないよう、瑞希が周囲に簡易的な気配感知の網を張っていたはずの廊下の奥から、それをまるでそよ風のようにすり抜けて、落ち着いた革靴の足音が部屋の扉の前でピタリと止まった。
「……ッ!? 誰かいるわ、気配が全く読めない……!」
瑞希が即座に立ち上がって小剣の柄に手をかけ、冬夜が左の義手に紫電と火炎を走らせて扉の前に立ち塞がる。悠希も大剣を構え、夏芽と莉子がいつでも魔術を放てるよう短杖を握りしめた。 Sランクパーティとなった五人が一斉に臨戦態勢をとる、張り詰めた静寂の中。
――コン、コン。
拍子抜けするほど普通のノックの音が二つ響き、鍵をかけていたはずの重厚な木製の扉が、空間のロックを外されたかのようにガチャリと音を立てて静かに開いた。
廊下の暗がりから、ランプの明かりが灯る室内へとゆっくりと足を踏み入れた俺を見て、冬夜と瑞希の目が大きく見開かれた。 鍛え上げられた鎧でも魔導師のローブでもない、現代日本のラフな私服の上に黒いコートを羽織った、見知らぬ黒髪の青年。
「……誰だ、あんた。その服……それにその顔つき、まさか……」
冬夜が警戒を崩さぬまま、掠れた声で問いかけてくる。 これまで十ヶ月間、画面の向こう側から何十回、何百回と見てきた連中だ。こうして生身の人間として目の前で向き合うと、なんだか妙な感慨がある。
俺はポケットから手を出して敵意がないことを示すように軽く肩をすくめると、呆然と立ち尽くす五人を見渡し、シニカルに口角を上げて言った。
「――初めまして、と言うべきか。それとも、十ヶ月ぶりだなと言うべきか。佐々木冬夜、岡田瑞希」
俺の口から出た自分たちの本名に、五人の息がピタリと止まる。 俺はそのまま扉を背にして立ち、静かに、しかし確かな響きをもって自らの名を告げた。
「俺の名前は、神崎恭。……お前たちを電車でこの『ミラージュ・エデン』へ送り込んだ張本人であり、お前たちにちょっとばかりデカい仕事を頼みに来た男だよ」




