幕間12:因果の目覚め
冷たい雨がトタン屋根を叩く音だけが、私の世界のすべてだった。 都内の湾岸エリアに取り残された、誰も来ない廃工場の暗がり。私は錆びた鉄骨の陰にうずくまり、自分の左手に宿る白い『光』と、右手に渦巻く深い『闇』を、ただ虚ろな瞳で見つめ続けていた。
痛くない。苦しくない。 昨日まで私の肉体を内側から食い破ろうと暴れ狂っていた複数の異能の過負荷は、あの後藤光彦という青年の魂を刈り取った瞬間から、嘘のようにピタリと静まり返っていた。 けれど、肉体の激痛が消えたことで、かえって自分が犯した罪のおぞましさが鮮明な輪郭を持って私を責め立てる。
(私……また、何の罪もない人を殺しちゃった……)
高橋優子を庇って立ち塞がり、血反吐を吐きながらも「指一本触れさせない」と叫んでいたあの人の姿が、瞼の裏に焼き付いて離れない。
最初の大惨事となったバスツアーで、死にかけていた夏芽ちゃんをどうしても助けたくて初めて【刈り取る者】を使ってしまったあの日から、私の歯車は完全に狂ってしまった。
松岡が引き起こした二度目のバスジャック事故では、潰れた車体の下敷きになって悶え苦しむ藤原姉妹や佐伯朋美ちゃんを苦痛から解放したくて大鎌を振るい、それを目撃した伊藤南の嘘の証言によって、私は日本中から追われる「大量殺人鬼」になった。 そして、暴走する器の痛みに耐えかねてフィストの甘言に乗せられ、南を刈り取り、ついにはまったく無関係だった後藤さんの命までこの手で奪ってしまったのだ。
(恭くんに……会いたい。恭くんの声を聞いて、あの温かい胸の中で思いっきり泣きたい……)
胸の奥からせり上がってくるのは、喉が張り裂けそうなほどの恋しさだった。 でも、それだけは絶対に許されない。私はもう、恭くんが愛してくれた無実の如月美憂じゃない。他人の魂を喰らって生き延びる、血塗られた化け物だ。こんな私に関われば、真っ直ぐで優しい恭くんの人生までめちゃくちゃに壊してしまう。 だから私はスマートフォンを砕き、一人きりになる道を選んだはずだった。
――ギィィィ……ッ。
不意に、廃工場の重い鉄扉が開く鈍い金属音が響いた。
誰かが、入ってきた。警察だろうか、それとも私を嗅ぎつけた別の誰かだろうか。
どちらにせよ、近づけるわけにはいかない。そう思って鉄骨の陰から顔を上げた瞬間――私の呼吸は、完全に止まった。
「……美憂」
雨上がりの湿った空気の中、黒いコートを纏ってそこに立っていたのは。 夢の中でさえ何度も名前を呼び、もう二度と会えないと諦めていた、世界で一番愛しい人――神崎恭くんだった。
「……う、そ……。恭、くん……?」
どうして。なんでここが分かったの。 嬉しいはずなのに、会いたくてたまらなかったはずなのに、頭の中が真っ白なパニックに塗り潰される。 ダメだ。今の私を見られたくない。人殺しの化け物になった私のそばに、恭くんを近づけちゃいけない!
「こ、来ないでっ!! 来ちゃダメ、恭くん!!」
私は悲鳴のように叫びながら後ずさり、自分の胸元から黒銀の大鎌――【刈り取る者】を引きずり出した。 恭くんを傷つけたいわけじゃない。ただ、「私はもうあなたが知っている美憂じゃない、恐ろしい怪物なんだ」と見せつけて、彼をここから追い払わなければという一心だった。
「私はね、恭くん……! ニュースで言われてる通りの、人殺しの化け物なの!! この手で何人もの命を奪って、昨日だって、何の罪もない男の人を斬り殺した……! もう、恭くんが知ってる私じゃないの! だから、早く逃げてよぉっ!!」
ボロボロと溢れ出る涙で視界が滲む中、私は周囲に張り巡らせた黒紫の糸と、水と土の岩槍を、恭くんの足元を威嚇するように解き放った。 お願い、怖がって。私なんかを見限って、安全な場所へ逃げて――!
けれど。
「……そんな不器用な威嚇で、俺が逃げ出すと思ったかよ」
恭くんは一歩も引かなかった。 それどころか、彼が右手を軽く一閃した瞬間、私が放った呪いの糸も岩の槍も、空間ごと真っ二つに切り裂かれて霧散してしまったのだ。 動揺した私が咄嗟に放った左手の『光』と右手の『闇』の衝撃波すらも、恭くんは私とは左右が全く逆の――右手の『光』と左手の『闇』の魔力で真正面から相殺し、爆風の中をまっすぐに歩いてきて、震える私の両肩を力強く抱き寄せた。
「恭、くん……っ!?」
半年ぶりに触れた、恭くんの手の温もり。 振り払わなければと思うのに、その確かな体温に触れた途端、全身から力が抜けて動けなくなる。
『俺もただの一般人じゃない。お前と同じように、神様から厄介な能力――【死神】の権能を授かった能力者だ』
間近で見つめ返す恭くんの瞳は、私を責めるどころか、すべてを包み込むような深い熱を宿していた。
そして彼の口から語られたのは、私が孤独な暗闇の中でずっと誰かに信じてほしかった、救いの言葉だった。
最初の事故で私が夏芽ちゃんを助けようとしたことも。 二度目のトンネルの事故が松岡の仕業で、私が苦しむ藤原姉妹たちを救うために鎌を使い、南に濡れ衣を着せられたことも、恭くんは全部知っていてくれた。 それだけじゃない。私が斬ってしまった夏芽ちゃんも、藤原姉妹も、そして昨日手にかけてしまった後藤光彦さんでさえも、死んで消滅したわけではなく、別の世界や天獄という場所でちゃんと生きているのだと教えてくれたのだ。
(よかった……っ。私、あの人たちを殺してなかった……! 恭くんが、ぜんぶ知っていてくれた……っ!)
胸の奥に張り詰めていた氷が、熱い涙となって次から次へと溢れ出していく。 だが、直後に恭くんが告げた言葉が、私の世界を根底から凍りつかせた。
『目を覚ませ、美憂。お前に復讐の力を貸すふりをして近づいたその「フィスト」こそが……十年前にお前の両親と亜夢ちゃんを惨殺した張本人、「メフィスト」本人なんだよ!』
頭を鈍器で殴られたような衝撃だった。 そして、天井の梁の上から乾いた拍手とともに舞い降りてきたフィストが、道化師の仮面を外し、愉悦に歪んだ美しい素顔を晒してこう言ったのだ。
『――ああ、本当さ。僕が冥界のメフィストであり、君の愛しい家族をあの部屋で惨殺した張本人だよ、美憂』
足元から、地面が崩れ落ちていくようだった。 お母さんと、お父さんと、可愛い妹の亜夢。あの血の海の中で奪われた家族の魂を取り戻すためだけに、私はこの半年間、人殺しの汚名を背負い、全身が引き裂かれる異能の激痛に耐えながら、あいつに言われるがまま大鎌を振るってきたのに。 そのすべてが、家族を殺した犯人自身による悪趣味な道化芝居で、私は仇の手駒として踊らされていただけだったなんて。
「あ……あぁぁ……っ!!」
あまりの惨めさと絶望に膝から崩れ落ちかけた私を、恭くんの腕が強く支え、そのまま私の前へと立ち塞がった。
『お前のふざけた計画も、美憂を弄んだ罪も……ここで全部、俺が精算してやるよ、メフィスト』
そこからの恭くんの姿は、圧倒的だった。 神であるはずのメフィストが放つおぞましい攻撃を、恭くんと、私の前を守ってくれた高橋先輩が完全に防ぎきる。 恭くんは時間を止め、空間を跳躍し、雷と炎、黒い獣、そして空間そのものを断ち切る刃を自在に操って、あのメフィストを息もつかせず一方的に追い詰めていったのだ。
(すごい……。恭くんが、私のために戦ってくれてる……)
傷つき、血を流しながら膝をつくメフィストと、その前に凛と立つ恭くんの頼もしい背中。
ああ、やっと全部終わるんだ。長い悪夢が明けて、私はもう一度、恭くんの隣へ帰れるんだ――そう思った瞬間だった。
『――さあ、僕のオリジナルの大鎌でエデンへと旅立つがいい、美憂!!』
恭くんの刃によって左腕を切り落とされながら、血まみれのメフィストが神気の爆発的な加速による超高速移動で防壁の脇をすり抜け、私の目の前へと肉薄してきたのは。
「え……? あ……」
思考が追いつかない。 メフィストの残った右腕に握られた、私のレプリカよりも遥かに巨大で禍々しいオリジナルの【刈り取る者】が、私の頭上へと振り上げられていた。
『美憂ーーーーーーーッ!!』
背後から、恭くんの魂を振り絞るような絶叫が響く。
振り返れば、恭くんが血相を変えて、私に向かって必死に右手を伸ばして飛び込んでくるところだった。
(恭くん……っ!)
私も咄嗟に、恭くんの手を掴もうと右手を伸ばした。 あと少し。あとほんの数センチで、恭くんの指先に触れられる――。
――ズキンッ。
だが、二人の指先が触れ合うよりもわずかに早く、メフィストの大鎌の刃が私の胸を音もなくすり抜けた。 肉体の痛みはない。けれど、これまで私が夏芽ちゃんや藤原姉妹たちに味わわせてしまったのと同じ、魂の根幹を肉体から強引に引き剥がされるような、底なしの浮遊感が全身を包み込んだ。
視界が急速に遠のき、万華鏡のように景色が砕け散っていく。 薄れゆく意識の端で、倒れゆく私の身体を必死に抱きとめ、悔しさと怒りに顔を歪めて私の名前を叫び続ける恭くんの顔が見えた。
「……きょう、くん……っ」
届かなかった手。またしても、彼と引き裂かれてしまう残酷な運命。 けれど、次元の渦へと吸い込まれていく私の心には、もう先ほどまでの絶望も孤独もなかった。 だって、恭くんはすべてを知った上で、私を迎えに来てくれたから。私がどこへ飛ばされようと、あの人は絶対に私を見捨てたりしない。
(待ってるから……。どこへ飛ばされても、私は絶対に生き抜いて、恭くんが迎えに来てくれるのを待ってるからね……!)
愛しい人の面影を胸に強く抱きしめたまま、私の意識は深い次元の闇へと落ちていった。
◆
……どれくらいの時間が経ったのだろうか。 冷たい水底から浮かび上がるような感覚とともに、私はゆっくりと重い瞼を開けた。
「……ん……っ……」
鼻腔をくすぐるのは、廃工場の鉄錆と雨の匂いではなく、乾燥した古い羊皮紙と、どこか甘く神秘的な香木の匂いだった。 視界に映ったのは、精巧な魔導紋様が刻まれた黒曜石の高い天井と、淡く輝く魔石のシャンデリア。
(ここ……は……? 私、生きて……?)
ハッとして上半身を起こし、自分の身体を見下ろす。 着ていたはずの汚れたコートはなく、私が身に纏っていたのは、白と黒のフリルが美しくあしらわれたクラシカルな『侍女の制服』だった。 慌てて傍らにあった銀の水差しを手に取り、その磨かれた表面に自分の顔を映してみる。
「……私の、顔……?」
そこに映っていたのは、ブロンドの髪色の一人の若い女性の姿だった。
ただ、その脳裏の奥底には、自分のものではない微かな記憶の断片――この場所が『旧魔導領域ネルガル』の深淵にそびえる古城であり、この身体の持ち主が『マリア』という名の城の侍女であったという知識が、静かに溶け込んでいた。
(これが、私のエデン側の同位体……『マリア』の身体……。メフィストの鎌で斬られて、私はこの子の身体に転生しちゃったんだ……)
自分の左手を握れば白い『光』が、右手を握れば深い『闇』が、そして体内には夏芽ちゃんたちから引き継いだ異能の力が、そのまま消えずに宿っているのを感じる。 私はベッドから降り、重厚なカーテンが引かれた大きなアーチ窓へと歩み寄って、そっと外の景色を見上げた。
荒涼としたネルガルの大地の上、雲ひとつない夜空にぽっかりと浮かんでいたのは――現世の黄色い月ではなく、地上を幻想的に照らし出す巨大な『青い月』だった。
「本当に、来ちゃったんだ……。ここが、恭くんの言っていた『ミラージュ・エデン』……」
その青い月を見つめながら、私が胸の前で強く手を握りしめた、その時だった。
――コン、コン。
静かな部屋の扉が軽くノックされ、外から落ち着き払った、けれどどこか聞き覚えのある凛とした女性の声が響いた。
『マリア、目が覚めたかい? 急に倒れたから心配したよ。……入ってもいいかな?』
「……え?」
ガチャリ、と扉が開く。 長い黒髪を揺らし、魔導師のローブを纏って部屋へと足を踏み入れてきたその城の主――ネルガルの奥地に隠居するSSランクの魔女『九龍』の顔を見た瞬間、私の思考は完全に凍りついた。
「あ……あなた、は……!?」




