シーン13:神崎恭の失態
冷たい雨音だけが、静まり返った廃工場に虚しく響いていた。 俺の腕の中には、魂を根こそぎ引き抜かれ、糸の切れた人形のようにぐったりと脱力した如月美憂の身体がある。かすかな呼吸と脈拍だけはあるものの、その瞳が俺を見つめ返すことはもうない。
「……あ、あぁ……」
喉の奥から、自分でも聞いたことがないような低く掠れた声が漏れた。 半年間、必死にその背中を追い続けてきた。 ようやく見つけ出し、震える彼女の肩を抱き寄せ、すべての誤解と呪縛を解いて「俺のところへ帰ってこい」と手を伸ばした――まさにその瞬間だったのだ。
「ぐっ……! くそ、くそっ、くそぉぉぉぉっ!!」
胸の奥底で、どす黒いマグマのような怒りと自己嫌悪が爆発した。 俺は美憂の身体をそっと乾いたコンクリートの床へ横たえると、立ち上がりざま、傍らにあった錆びついた巨大な鉄骨の柱へ向かって、雷炎と空間切断の魔力を乗せた右拳を力任せに叩き込んだ。
――ズガァァァァァンッ!!
鼓膜を破る轟音とともに、分厚いH鋼の鉄骨が紙くずのようにねじ曲がって吹き飛び、廃工場の壁面を内側から粉々に粉砕した。
それでも、腹の底からせり上がってくる吐き気のような激怒は収まらない。
「俺の、失態だ……! 俺が調子に乗って、あの道化野郎に勝った気になったせいだ!! 時間停止のクールタイムも計算に入れず、奴が左腕を切り捨ててまで美憂を狙う可能性を予測できなかった……! あと一歩で手が届いたのに、俺の慢心で、目の前で美憂を奪われたんだぞ……ッ!!」
ギリ、と奥歯を強く噛み締めすぎて、歯茎から血の味が広がる。 神の権能を手に入れ、複数の異能を束ねてオリジンの制限すら食い破ったところで、一番守りたかった女ひとり守れなければ、ただの無能と同じじゃないか。 制御を失った俺の【死神】の魔力が黒い嵐となって廃工場の内部に吹き荒れ、床のコンクリートが次々とひび割れていく。
「――落ち着け、神崎ッ!!」
暴走しかけた俺の肩を、背後から駆け寄ってきた高橋先輩――ブラフが両手で強く鷲掴みにした。 神としての重く冷徹な神気が俺の魔力の暴発を上から抑え込み、先輩の鋭い声が俺の鼓膜を真っ直ぐに打つ。
「自分を責めて暴れている暇があるか! 美憂ちゃんの肉体はまだ生きている、後藤光彦と同じ仮死状態だ! ここで一番の要であるお前が冷静さを失えば、エデンへ飛ばされた彼女の魂も、天獄に落ちた彼女の同位体も、すべてメフィストの思う壺になるんだぞ!!」
「……っ、ハァ、ハァ……っ!」
先輩の言葉が、沸騰していた俺の脳髄に冷水を浴びせたように染み渡る。 怒りを消す必要はない。だが、外へ撒き散らすな。この煮えたぎる殺意も、己の失態への悔恨も、すべてあの道化野郎の首をねじ切るための冷たい刃へと圧縮しろ。
数秒後、俺が再び目を開けた時、周囲に吹き荒れていた魔力の嵐はピタリと消え失せ、氷のような絶対零度の静寂が戻っていた。
「……すみません、先輩。少し頭が冷えました」
「ああ。……まずは美憂ちゃんの身体を、僕の地下管理室にあるカプセルへ運ぼう。光彦の隣で保存しておけば、肉体が衰弱することはない」
「お願いします。それと並行して、天獄の二人へ緊急連絡を入れます」
俺はコートを脱いで美憂の冷たい身体に優しく掛け、彼女を背負い上げると、空間に『観測窓』を強制展開して天獄の最奥へと回線を繋いだ。
◆
『――恭!? どうしたのじゃ、さきほど通信を切ったばかりであろう! 美憂は見つかったのか!?』
画面の向こうで、五人のエデンの少女たちを保護していたベルゼと光彦が、俺たちのただならぬ雰囲気を見て一斉に顔を強張らせた。 俺は廃工場からブラフ先輩の車へと歩きながら、感情を排した声で事実を簡潔に告げた。
「俺のミスだ。現場でメフィストと鉢合わせになり、奴を追い詰めた土壇場で、オリジナルの【刈り取る者】で美憂の魂を直接刈り取られた」
『『なっ……!?』』
ベルゼと光彦が同時に息を呑む。
「美憂の魂はそのままミラージュ・エデンへ飛ばされ、向こうにいる美憂の『同位体』の肉体へとポゼッションさせられた。……つまり、玉突きで器を押し出された『エデン側の美憂の同位体の魂』が、今まさにそっちの天獄へと吸い込まれているはずだ!」
「えっ!? エデン側の美憂さんの魂が、この天獄に……!?」
「それだけじゃない、光彦。俺に左腕を切り落とされたメフィストは、計画を『ソウルイーター計画・改』へと変更し、そのエデン側の美憂の魂と、天獄の奥に隠れている十年前の生き残りの魂たちを全部まとめて回収するために、今そっちの天獄へ向かった!」
『な、なんじゃと!? メフィストの奴が、直接この天獄へ戻ってきておるじゃと!?』
画面の向こうでベルゼが顔色を変え、背後にいたルナたち五人の少女が恐怖に肩を寄せ合った。 絶体絶命の危機。だが、そこで光彦が鋭く思考を巡らせたように、冷静に口を開いた。
「待ってください、神崎さん。メフィストが左腕を失って消耗してるなら、いくら奴でも天獄に着いてすぐには動けないはずっす。まず傷の処置と、広大な天獄の外郭に落ちた『エデン側の美憂さんの魂』の座標特定、それに十年前の生き残りたちが隠れてるあの黒い霧の障壁を破るための準備が必要になる」
『うむ、光彦の言う通りじゃ! それにこの天獄には、我が張っておる神気の干渉領域もある。手負いのメフィストが万全の態勢を整えてこちらの防衛線を完全に食い破るまでには、しばらくの猶予があるはずじゃ!』
「……どれくらい持たせられる?」
俺の問いに、ベルゼと光彦が素早く視線を交わし、光彦が指を立てて答えた。
「俺が外郭に隠れてる十年前の魂たち――レジスタンスの連中と上手く合流して防衛網を張り、ベルゼ様の神気と俺の古代魔法でゲート内の座標を撹乱すれば……最大で『一週間(七日間)』は稼げる計算っすね。逆に言えば、一週間が限界っす。それ以上になれば、傷を癒やしたメフィストに障壁ごと力づくで突破されて、天獄にいる魂は全員奴に回収されます!」
タイムリミットは、一週間。
あらゆる盤面が崩壊するか、すべてをひっくり返すかの、最悪で最後の七日間だ。
「一週間か……。わかった、俺も今から地上を離れ、直接この身で『天獄』へ乗り込む!」
隣を歩いていたブラフ先輩が、決然とした声で宣言した。
「美憂ちゃんもメフィストもオリジンから消えた以上、監視者である僕がこれ以上地上に留まる理由はない。僕が直接天獄へ突入して、光彦くんたちと合流してメフィストを討つ! ……ただし、本来一層世界の監視者として縛られている僕が、正規の手順を無視して下から天獄のゲートをこじ開けて侵入するには、術式の構築と座標の同調でどうしても数日はかかる!」
『ブラフが直接天獄へ来てくれるか! ならば、それまで我と光彦でなんとしても持ちこたえてみせるわ!』
「そういうことなら、神崎さん!」
画面の向こうから、半透明の光彦が真っ直ぐに俺の目を見据え、力強く拳を握ってみせた。
「エデン側の美憂さんの魂も、ルナちゃんたちも、十年前の被害者の人たちも……この天獄にいる全員の命は、俺が命に代えても――あ、もう死んでるんすけど、とにかく魂に代えても絶対に『7日間』守り抜いてみせます! 約束っすよ! だから神崎さんは、その一週間のうちにエデンへ飛ばされた美憂さんを必ず見つけ出して、こっちへ助けに来てください!」
「……ああ。約束だ、光彦。天獄の防衛は、お前とベルゼ、それにブラフ先輩に任せる」
俺が深く頷くと、通信が切れ、俺とブラフ先輩は美憂の身体を車に乗せて地下の管理施設へと急行した。
◆
三十分後。地下管理室の冷たいカプセルの中に、後藤光彦と並ぶようにして美憂の身体が収容された。 ガラス越しに眠る美憂の穏やかな寝顔を見届けた後、俺は管理室のモニターの前に立ち、先輩と向き合った。
「さて、ここからが俺の戦いだ。俺も今からミラージュ・エデンへ渡り、同位体の身体に入った美憂を探し出して保護する」
「だが、神崎。どうやって自分がエデンへ行くつもりだ? お前の【幻影電車】は、他人を轢いて転移させる能力だろう?」
「これまでの戦いで、俺の【死神】の権能の本質は完全に掴めましたよ。俺の力は『能力の付与と吸収』、そしてその改変だ。俺自身が乗っている電車そのものに、瑞希の『空間遮断』と優子さんの『光と闇の古代魔法』、さらに松岡の『時間跳躍』を複合して付与すれば、俺自身を乗せたまま次元の壁を突破する方舟に変えられる」
移動手段に問題はない。 だが、高橋先輩はそこで難しい顔をして腕を組んだ。
「渡航ができるとしても、もう一つ大きな問題があるぞ。ミラージュ・エデンは六つの大国が広がる広大な世界だ。しかも美憂ちゃんは、お前が転移させた人間じゃないから、お前の『観測窓』で直接居場所を特定することができない。たった一週間の制限時間の中で、どうやってあの広い世界から美憂ちゃんを見つけ出し、さらに天獄への突破口を開くつもりだ?」
「確かに、俺一人で闇雲にエデンを探し回れば、一週間なんてあっという間に過ぎて詰みですね」
先輩の指摘を受け、俺は顎に手を当てて思考を巡らせた。 美憂に直接『観測窓』は繋がらない。だが――俺には、エデン側にすでに配置してある「最高の手札」があるじゃないか。
「……いや、待てよ。先輩。美憂自身の場所は分からなくても、俺がこれまで送った連中――佐々木冬夜や岡田瑞希たちの居場所なら、俺の『観測窓』が繋がっているからエデンに行っても一発で分かるはずだ」
「佐々木冬夜たち……? ああ、お前が最初に送った少年たちのパーティか」
「ええ。あいつら『アニマの器』は今、瑞希が世界で十四人目の『Sランク冒険者』に昇格して、全大陸のギルドの情報網と禁書庫へのアクセス権を手に入れているんです。しかもその中には、美憂の【刈り取る者】でエデンへ送られ、美憂と魂のバイパスで繋がっている夏芽や藤原姉妹もいる!」
俺の頭の中で、バラバラだった盤面のピースが、一発逆転の極大プランとして急速に組み上がっていく。
「俺がエデンへ飛んだら、まず『観測窓』の座標を辿って冬夜たち『アニマの器』と直接合流します。Sランクになったあいつらの情報網と、夏芽たちが持つ美憂とのバイパスの共鳴を使えば、エデンのどこに美憂が転生したか必ず割り出せる!」
「なるほど……! それなら最短で美憂ちゃんを見つけ出せるな!」
「それだけじゃありませんよ、先輩。冬夜たちもまた、天獄に囚われているルナやエリスたちの『元の魂』を救い出す方法を探している。つまり、俺とあいつらの最終目的地は完全に同じ――あの空に浮かぶ『月(天獄)』なんです」
俺の口元に、シニカルで獰猛な笑みが浮かんだ。
「だったら、俺一人で戦う必要なんてどこにもない。エデンで美憂を保護したら、Sランクパーティになった冬夜たち『アニマの器』を丸ごと俺の計画に巻き込んで、俺の【幻影電車】に全員乗せて、エデン側から天獄のメフィストの喉元へ直接突入してやりますよ!」
「なっ……!? 異世界の冒険者パーティを電車に乗せて、天獄へ直接殴り込む気か!? お前、どこまでデタラメな計画を立てるんだ……!」
呆気にとられて目を剥くブラフ先輩に、俺は背を向けて管理室の出口へと歩き出した。
「神様が作ったふざけた盤面をひっくり返すには、これくらい派手な方がいいでしょう。……美憂の身体と、そっちからの天獄突入は任せましたよ、高橋先輩」
「……ああ、分かった。あと、優子の事も頼むな。必ず生きて天獄で合流するぞ、神崎!」
◆
深夜二時。すべての終電が走り去り、完全な静寂に包まれた車両基地の引き込み線。 雨上がりの冷たい夜風が吹き抜ける線路の前に、俺は一人で立っていた。
夜空を見上げれば、分厚い雲の隙間から、天獄である『黄色い月』が不気味な光を放って地上を見下ろしている。 あの月の内側で、いま光彦とベルゼがメフィストの魔の手から魂たちを守るための、最悪の一週間を始めようとしているのだ。
「……待たせたな。ここからは、俺が直接盤面を動かす」
俺は深く息を吸い込み、自身の魂の奥底に眠る【死神】の権能を、かつてない規模で全開放した。 目の前の引き込み線に停車していた無人の回送車両。その鉄の車体に向かって、俺は右手の『白い光』と左手の『黒い闇』、そして空間干渉と時間跳躍のすべての魔力を一気に注ぎ込み、強制的な「能力付与と改変」を実行する。
――バヂィィィィィッ!!
夜の車両基地に、青白い燐光と漆黒の稲妻が迸った。 無機質なステンレスの車両がミシミシと音を立てて変質し、光と闇のオーラを纏った幻想的かつ禍々しい次元の列車――真なる【幻影電車】へと姿を変えていく。
プシュウゥゥ……と、白い蒸気の代わりに輝く魔力の霧を吐き出しながら、無人の列車のドアが俺の前で静かに開いた。
俺は空間の隅に小さな『観測窓』を開き、ミラージュ・エデンの商業都市アルディシアで作戦会議をしている佐々木冬夜たちの姿を一度だけ確認すると、迷うことなく列車のステップへと足を踏み入れた。
「待ってろよ、美憂。……どこへ飛ばされようと、俺が必ず迎えに行く」
ドアが閉まり、警笛が夜の闇を高らかに切り裂いた。 ガタン、ゴトン――と重厚な駆動音を響かせながら走り出した幻影電車は、瞬く間に光速へと加速し、物理的な線路を離れて空間の裂け目へと突入していく。
万華鏡のように砕け散る原典世界の景色を背に、最凶の【死神】・神崎恭を乗せた列車は、すべての因縁が交錯する鏡像世界『ミラージュ・エデン』へと向けて、次元の壁を突破していった。




