シーン11:道化師の仮面~前編~
冷たい秋の雨が、錆びついたトタン屋根を激しく叩き続けていた。 都内の湾岸エリアから少し外れた、再開発から取り残された広大な廃工場地帯。ひび割れたアスファルトの隙間から雑草が伸び、割れた窓ガラスが夜の闇に向かって不気味な口を開けている。
「――この奥の棟だ、神崎。間違いない、空間バイパスの歪みと複数の魔力波長がここから漏れている」
先導して廃工場の敷地内へと足を踏み入れた高橋先輩――神界の監視者たる『ブラフ』が、雨音に掻き消されないよう低く鋭い声で告げた。 俺は黒いコートの襟を立て、濡れた前髪を掻き上げながら、目の前にそびえる巨大な廃工場の鉄扉を見据えた。
美憂が俺の前から姿を消して、半年。 警察からは連続殺人犯として追われ、誰にも助けを求められないまま、たった一人でこの冷たい闇の中を彷徨い続けていたのかと思うと、胸の奥がギリギリと音を立てて軋んだ。
「先輩は、入り口の周囲を固めておいてください。中にいるのが美憂一人なら、俺が説得します」
「……わかった。だが気をつけろよ、神崎。今の彼女は、後藤光彦の魂を取り込んで複数の異能を宿した状態だ。精神がどれほど摩耗しているかも分からない」
「ええ。分かっています」
短く答えると、俺は錆びついた重い鉄扉に手をかけ、静かに押し開けた。
ギィィィ……と鈍い金属音が暗闇に反響する。 廃工場の内部は、外の雨音がくぐもって聞こえるほど広大で、放置された大型機械の残骸が墓標のように立ち並んでいた。天井の破れた箇所から幾筋もの雨水が滝のように流れ落ち、コンクリートの床にいくつもの黒い水たまりを作っている。
そして、その空間の中央。 天井から降り注ぐ雨粒すら届かない薄暗い鉄骨の陰に、ぽつんと佇む一つの小さな人影があった。
「……美憂」
俺の口から、自然と彼女の名前がこぼれ落ちた。
ピクリ、とその細い肩が激しく跳ねる。
ゆっくりとこちらを振り返ったその顔を見た瞬間、俺は息を呑んだ。
かつてバスガイドの制服に身を包み、『初めて一人でマイクを握ることになったよ!』と太陽みたいに眩しい笑顔を見せてくれていた美憂の面影は、そこにはなかった。 雨と泥に汚れたコート。痩せこけて青白く透き通った頬。そして何より、その瞳には深い隈が刻まれ、底なしの孤独と罪悪感にすり減らされた、今にも壊れてしまいそうなガラス細工のような危うさが宿っていた。
「……う、そ……。恭、くん……?」
かすれた、震える声。
美憂の瞳が大きく見開かれ、信じられないものを見るように俺の姿を映し出す。
一歩、俺が足を踏み出した瞬間――美憂は弾かれたように後ずさり、悲鳴のような声を張り上げた。
「こ、来ないでっ!! 来ちゃダメ、恭くん!!」
「美憂、落ち着け。俺は――」
「近づかないでって言ってるでしょ!? なんで……なんでこんな場所が分かったの!? 私のところになんて来ちゃダメなのに……っ!」
パニックに陥った美憂が、自分の胸元へと右手を強く押し当てた。 次の瞬間、彼女の身体からどす黒い銀色の光が溢れ出し、身の丈を超える長柄と禍々しい三日月型の刃を持つ大鎌――【刈り取る者】が実体化した。 それだけではない。彼女の周囲の空間が歪み、佐伯朋美の能力である黒紫の極細の糸『執着の網』が蜘蛛の巣のように張り巡らされ、床の水たまりからは佐々木夏芽の能力である『水と土の魔力』が鋭い岩の槍となって隆起した。
「私はね、恭くん……! ニュースで言われてる通りの、人殺しの化け物なの!! この手で何人もの命を奪って、昨日だって、何の罪もない男の人を斬り殺した……! もう、恭くんが知ってる私じゃないの! だから、早く逃げてよぉっ!!」
ボロボロと大粒の涙をこぼしながら、美憂が大鎌を振りかざす。 俺を傷つけるためではない。自分を「恐ろしい化け物」として見せつけ、無関係な一般人であるはずの俺を恐怖で追い払うための、必死で不器用な威嚇だった。
ゴオォォォッ!! 美憂の周囲から、黒紫の糸の束と、水と土の槍の群れが、俺の足元や顔のすぐ横を掠めるような軌道で一斉に放たれた。 普通の人間なら、その超常の暴威を前にして腰を抜かし、悲鳴を上げて逃げ出すはずの場面だ。
だが――俺は一歩も引かず、ただ静かに右手を前へと翳した。
「……そんな不器用な威嚇で、俺が逃げ出すと思ったかよ」
俺の体内を巡る【死神】の権能が脈動する。 エデンへ送った岡田瑞希からフィードバックされた空間干渉の力――【領域の切断】と、宮本玲奈から得た赤黒い刃のオーラが俺の指先に重なる。 俺が軽く手を一閃した瞬間、空間そのものがヒュンと澄んだ音を立てて裂け、迫っていた黒紫の糸も、隆起した岩の槍も、俺に触れることすらできず紙くずのように両断されて霧散した。
「え……!? う、うそ……私の力、が……!?」
目を剥く美憂。 彼女は動揺に息を乱しながら、「な、なら、これで……! 危ないから、本当に離れてってば!!」と叫び、左手に白い『光』を、右手に深い『闇』の古代魔法を宿して、地面を抉るような衝撃波として解き放った。
俺はそれに対し、美憂とは左右が全く逆の――右手に白い『光』を、左手に深い『闇』の古代魔法を灯し、正面から真っ向にぶつけた。
――ズドォォォォンッ!!
光と闇、相反する二つの古代魔法が廃工場の中心で激突し、互いの波長を完璧に相殺し合って、眩い光の粒子となって空中に消滅していく。 爆風の中でコートの裾を揺らしながら、俺は無傷のまま、呆然と立ち尽くす美憂の目の前へとゆっくりと歩み寄った。
「な、なんで……? なんで恭くんが、私と同じ『光と闇』の力を……!? それに、今の空間を斬る力は……いったい、どういうことなの……!?」
大鎌を握る美憂の手が、ガタガタと小刻みに震えている。
俺は彼女が大鎌を構える間合いの中へと躊躇なく踏み込み、逃げようとする彼女の華奢な両肩を、両手でしっかりと掴んで引き寄せた。
「恭、くん……っ!?」
「言っただろ、電話のメッセージでも。『警察なんて関係ない、俺が何とかするから』ってな」
俺はすぐ目の前で涙に濡れる美憂の瞳を、まっすぐに見据えた。
「お前が俺を巻き込むまいとしてスマホを壊したことも、一人で全部背負い込んでいたことも分かってる。……だがな、美憂。俺もただの一般人じゃない。お前と同じように、神様から厄介な能力――【死神】の権能を授かった能力者だ」
「恭くんも……能力者……?」
「ああ。だから、俺はお前の周りで起きたことも、向こうの世界――『ミラージュ・エデン』で起きていることも、全部この目で見て知ってるんだよ」
俺の言葉に、美憂の呼吸が止まった。
俺は震える彼女の肩を掴む手に、少しだけ力を込めた。
「最初のバスツアーの事故の時、お前が目の前で死にかけていた女の子――佐々木夏芽をどうしても死なせたくなくて、助けるために初めてその力を使ったことも知ってる。そして、お前が指名手配されることになったあのトンネルの事故だ。あれはお前が乗客を殺したんじゃない、松岡雅紀がナイフで暴れて引き起こしたバスジャック事件だろ」
「……っ! なんで、それを……! 生存者の女の子が、警察に私が殺したって……!」
「お前は潰れたバスの下敷きになって激痛に苦しんでいた藤原姉妹や佐伯朋美たちを、苦しみから救うためにその大鎌を使っただけだ。伊藤南が松岡を庇って嘘の証言をしたことも、俺と高橋先輩で裏を取って全部突き止めた。……安心しろ、美憂。お前が最初の事故で救った夏芽も、二度目のバスで送った藤原姉妹たちも、みんな向こうの世界でちゃんと生きてる。それどころか、藤原姉妹たちは『美憂さんは殺人鬼なんかじゃない、私たちを救ってくれた恩人だ』って、お前に感謝して今も戦ってるぞ」
「あ……あぁ……っ……」
美憂の瞳から、堰を切ったようにボロボロと大粒の涙が溢れ出した。 誰も信じてくれないと思っていた真実。自分が救おうとした人たちが、自分のせいで死んだのではなく、異世界で生きて感謝してくれているという事実。それだけで、彼女の張り詰めていた心が音を立てて溶けていくのが分かった。
「でも……っ、でも私は、もう戻れないよ……! 昨日だって、あの高橋優子っていう人を襲おうとして、庇いに入った後藤さんっていう人を……っ!」
「その後藤光彦なら、死んじゃいない」
「え……?」
「あいつは冥界の調査員でな。肉体は高橋先輩が保護してあるし、魂は天獄っていう場所でさっきまで俺と元気に喋ってた。エデンから弾き出された元の持ち主の魂たちも、今はあいつと女神ベルゼが天獄で全部安全に保護してくれてる。お前が取り返しのつかない命を奪った人間なんて、まだ一人もいないんだよ」
美憂が信じられないというように目を見開き、わなわなと唇を震わせる。 だからこそ、俺はここで一番残酷で、一番伝えなければならない真実を告げるべく、声を低く落とした。
「……だから、もうそんな大鎌を振るう必要はない。お前にその【刈り取る者】を渡して、『家族の仇である悪魔メフィストに復讐させてやる』と唆した仮面の神――『フィスト』の言葉は、最初から全部嘘だ」
「……嘘、って……どういう、こと……?」
「目を覚ませ、美憂。お前に復讐の力を貸すふりをして近づいたその『フィスト』こそが……十年前にお前の両親と亜夢ちゃんを惨殺した張本人、『メフィスト』本人なんだよ!」
雷に打たれたかのように、美憂の身体がビクンと硬直した。
「う、そ……。フィストが……メフィスト、本人……? じゃあ、私は……お母さんや亜夢を殺した犯人に騙されて、あいつのために……っ!?」
「そうだ。あいつはお前の復讐心と優しさを利用して、自分の実験のために魂を集めさせていただけだ。……もういいんだ、美憂。全部俺が代わってやる。俺のところへ、帰ってこい」
俺が右手を伸ばし、美憂の手から力を失って落ちかけた大鎌を取り上げようとした――まさに、その瞬間だった。
『――パチ、パチ、パチ、パチ……ッ!』
冷たい雨音と静寂を切り裂いて、廃工場の高い天井の梁の上から、乾いた拍手の音が軽やかに響き渡った。
「……ッ!?」
俺は即座に美憂を背後に庇い、鋭く天井を睨み上げた。 同時に、工場の入り口を見張っていたはずのブラフ先輩が、「神崎、上だ! 気配を完全に消して潜んでいやがった……!」と険しい声で駆け込んでくる。
暗い鉄骨の梁の上。そこに、道化師のような奇妙な仮面を被った男が、足を組んで楽しそうに座っていた。
『いやあ、素晴らしい! 実にお涙頂戴で、感動的な種明かしじゃないか! まさか天獄のベルゼだけじゃなく、冥界のネズミ(光彦)まで使って僕の計画の裏を暴いていたとはね。正直、人間風情がここまで辿り着くとは思っていなかったよ』
「……貴様が、フィスト――いや、メフィストか」
俺が低く唸ると、男はくすくすと笑いながら立ち上がり、重力など存在しないかのようにふわりと俺たちの数メートル前へと舞い降りた。
「どうして、ここに俺たちが来ると分かった……! 気配は完全に絶って接近したはずだぞ!」
ブラフ先輩が神気を迸らせて睨みつけると、メフィストは心底おかしそうに肩をすくめてみせた。
『おや、それはこっちのセリフだよ、神界の監視者「ブラフ」くん。その人間の青年(恭)一人だけならともかく、同じ二層世界の神である君を連れて近づいてこられたら、いくら気配を抑えたところで特有の「神気の匂い」で一発で感づかれるに決まっているじゃないか。同じ二層世界の者が僕のモルモットに近づいてきていると分かれば、警戒して特等席で待ち構えるのは当然だろう?』
「くっ……! 僕の神気が、逆に探知の餌になったというのか……!」
ブラフ先輩が悔しげに歯噛みする。
だが、俺の背後で震えていた美憂は、目の前に立つ道化師の男を凝視し、掠れた声で問いかけた。
「フィスト……っ。いま、恭くんが言ったことは……本当、なの……? あなたが、十年前にお母さんたちを殺した『メフィスト』だなんて……嘘、だよね……?」
すがるような、それでいて絶望に染まった美憂の問い。 それに対し、男はゆっくりと右手を顔の仮面へと添え――パキリ、とそれを取り外した。
仮面の下から現れたのは、氷のように整った美貌と、人間の苦痛や絶望を極上の蜜として味わうような、底知れぬ愉悦に歪んだ真紅の双眸だった。
『――ああ、本当さ。僕が冥界のメフィストであり、君の愛しい家族をあの部屋で惨殺した張本人だよ、美憂』
「あ……あぁぁ……っ!!」
本人の口からあまりにもあっけらかんと告げられた肯定に、美憂がその場に崩れ落ちそうになるのを、俺は左腕で強く抱きとめた。
『ククッ、最高にいい顔をするじゃないか! 自分の家族を殺した仇に復讐するために、その仇本人から渡された玩具を振って、罪のない人間を次々と手にかけながら血の涙を流す……! いやあ、ここ半年間の君の滑稽な足掻きは、本当に最高のエンターテインメントだったよ!』
「……てめえ、よくもその口で……ッ!!」
俺の全身から、オリジンの制限を軋ませるほどのドス黒い殺気が噴き上がる。 だが、メフィストは俺の殺気を受け流しながら、まるで種明かしを楽しむ手品師のように、何もない虚空へと右手を差し入れた。
『それにね、美憂。君がこれまで必死に振るっていたその【刈り取る者】だけど……実はそれ、僕が昔刈り取った神々の魂と能力をストックして造り出した、ただの劣化コピー(レプリカ)なのさ』
ズズズ……と、廃工場の空間そのものが黒く腐食するように歪み、メフィストの手の中から、美憂が持つものよりも遥かに巨大で、おぞましい神々の怨嗟と黒い輝きを放つ『もう一つの大鎌』が引きずり出された。
『神にはエデン側の同位体なんて存在しないからね。このオリジナルの【刈り取る者】で僕が刈り取った神々は、エデンへ送られることなく、すべて僕の「ソウルイーター計画」と、そのレプリカを造るための礎になってもらったというわけさ』
メフィストはオリジナルの黒銀の大鎌をくるりと回して肩に担ぎ、俺とブラフ、そして美憂を見渡して獰猛に微笑んだ。
『だから君のレプリカには「七人まで」という粗悪な上限があった。本当ならあと一人刈り取らせて、君の自我を壊して都合のいい最強の手駒(英雄)に仕上げるつもりだったんだけど…… そこまで全部バレて邪魔が入ったんじゃ、仕方がないね』
不気味な神気と冥界の瘴気が廃工場を満たし、足元の水たまりが黒く沸騰し始める。
「先輩、下がって美憂を守っていてください」
俺は美憂を高橋先輩の背後へと押しやり、一歩前へと踏み出した。 右手には白い光、左手には黒い闇、そしてその奥にはこれまでエデンへ送り出したすべての転移者たちの異能が、今にも爆発せんばかりに渦巻いている。
「お前のふざけた計画も、美憂を弄んだ罪も……ここで全部、俺が精算してやるよ、メフィスト」
雨の廃工場で、オリジナルの【刈り取る者】を手にした悪魔と、世界の理を喰い破る【死神】の視線が、火花を散らして激突した。




