シーン8:傀儡の軌跡
冷たい雨が降り続く東京の片隅。薄汚れた廃ビルの空き部屋には、窓枠を叩く雨音だけが虚しく響いていた。
如月美憂は、自分の左手に宿る白い『光』と、右手に渦巻く深い『闇』の魔力を交互に見つめながら、ゆっくりと立ち上がった。
後藤光彦という青年の完全な魂を取り込んだことで、あれほど全身を軋ませていた異能の過負荷はピタリと収まり、頭の中も恐ろしいほどクリアに澄み渡っている。
だからこそ、「自分がまた無関係な人間の命を奪ってしまった」という事実の重みが、何の麻痺もなしに生々しく胸に突き刺さっていた。
「……私は、もう普通には戻れないんだね」
美憂の乾いた呟きに、窓際の影に佇む仮面の神――フィストが、道化師のように芝居がかった仕草で首を横に振った。
『そんな悲しいことを言わないでくれよ、美憂。すべては君の家族を奪った悪魔メフィストを討ち、奪われた魂を取り戻すための尊い犠牲だ。ここで君が立ち止まってしまえば、身代わりになったあの青年の死まで本当に無意味になってしまう』
「…………」
『君の器は完全に安定した。……次は僕がまた、メフィストに繋がる確実な標的を見繕っておくよ。それまで、警察や邪魔者の目につかない場所で静かに牙を研いでおきなさい』
優しく、けれど決して逃げることを許さない甘い毒のような言葉。
美憂は何も答えず、ずぶ濡れのコートのフードを目深に被り直すと、足音も立てずに廃ビルの暗い階段へと姿を消していった。
◆
美憂の気配が夜の雨音に完全に溶けて消えた後。
誰もいなくなった空き部屋で、フィスト――冥界のトリックスターたる『メフィスト』は、被っていた道化師の仮面の下で酷薄な笑みを浮かべた。
『……ククッ、本当に素直で扱いやすいよ、君は』
窓の外に広がる原典世界の夜景を見下ろしながら、メフィストは静かに息を吐く。
十年前、女神サラが魂を割って一層世界へ飛び込んだ際に生じた「次元の綻び」を利用して、彼はこのオリジンへと降り立つことに成功した。
だが、そんな彼にも越えられない壁があった。
オリジンへ渡ることはできても、もう一つの鏡像世界である『ミラージュ・エデン』へ直接干渉する手段を持たず、そこへ通じるゲートを開けることもできなかったのである。
(エデン側に眠る魂へ干渉するには、どうしても向こう側と繋ぐ「回収装置」が必要だった。……そのために創り出した【刈り取る者】が、ここまで見事に機能してくれるとはね)
メフィストの脳裏に、十年前の実験の記憶がよぎる。
当時、大虐殺によって集めたオリジンの異なる魂同士を強制的に繋ぎ合わせ、彼は最初の試験品である『魂キメラ・プロトタイプ』を造り出した。
(能力を封じられたオリジンの魂同士をいくらつぎはぎしたところで、異能ひとつ使えない、ただ複数の記憶と人格が軋み合うだけの失敗作にしかならなかった。……あんなガラクタ、早々に廃棄して正解だったよ)
廃棄されたそのプロトタイプが死にきれずにオリジンの闇を彷徨い、自分を造り出して捨てた創造主への復讐の機会を窺いながら、神崎恭に接触していたことなど、メフィストは知る由もない。
『さあ、器も補強されたことだ。……僕の【ソウルイーター計画】は、極めて順調に進んでいるよ』
誰もいない暗い部屋に満足げな独り言を残し、メフィストの姿は夜の闇へと陽炎のように溶けて消えていった。
◆
――その頃。一層世界と二層世界の狭間に位置する巨大な門、【天獄】。
光すら届かない暗黒の空間には、エデンで肉体を奪われ、理の外側へと弾き出された魂たちが、青白い燐光を放つ人魂のように無数に漂っていた。
「もしもーし? ……あれ、ここどこっすかね?」
自分の言葉が暗い空間に虚しく反響するのを聞きながら、半透明の魂の姿となった後藤光彦は、宙に浮いたままポリポリと頬を掻いた。
周囲に漂う青白い光たちは、突然現れた「人間の形を保ったままの異質な魂」に怯えるように、遠巻きにゆらゆらと揺れている。
「うーん、返事なしか。……ま、そりゃそうか」
お気楽な調子で呟いていた光彦だったが、周囲の空間構造と、そこかしこに漂う魂の波長を観察するうちに、その双眸からいつもの飄々とした色がスッと消え、冥界の調査員としての鋭い光が宿った。
(俺はあの時、優子さんを庇って、あの大鎌を持った女に魂を直接断ち切られた。普通のオリジンの人間なら、そのままエデンに飛ばされて向こうの「同位体」の肉体を乗っ取るはずなんだろうけど……)
光彦は自分の透けた手のひらを見つめる。
(生憎、俺は二層世界(冥界)の住人だ。エデン側に乗っ取るべき同位体の器なんて最初から存在しない。だから行き場を失った俺の魂は、エデンから弾き出された魂が集まるこの場所――『天獄』へ直接吸い込まれたってわけか)
光彦の口元に、皮肉げな苦笑が浮かぶ。
そもそも彼が『冥界管理委員会』の調査員としてオリジンへ派遣されたのは、十年前に起きたオリジン大虐殺の首謀者がメフィストであり、その裏で冥界でも禁忌とされた【ソウルイーター計画】が進められていると睨んでいたからだった。
ジャンクフードを食べ歩き、優子に一目惚れしてアプローチを続けている裏で、彼は密かに十年前の歪みと計画の痕跡を追い続けていたのだ。
「まさか、自分の魂が刈り取られてゲートに吸い込まれたおかげで、奴の『ソウルイーター計画』の集積地に直接訪れることになるとはね。……調査員としては満点なんだか、赤点なんだか」
光彦は肩をすくめると、暗黒の空間のさらに奥深く――天獄の中心部へと視線を向けた。
そこからは、空間をビリビリと震わせるような強大で気高い『神気』の波長が放たれている。
「……お? あっちの奥に、とんでもない大物がいるっぽいぞ」
光彦は漂う魂たちの群れの間をすり抜け、その神気の発生源へと向かってスイーッと空中を泳ぐように進んでいった。
やがて辿り着いた天獄の最奥部。
幾重もの神聖な鎖が張り巡らされた巨大な封印陣の中心に、一人の美しき女神――かつて神界の空挺部隊を束ねていた長、ベルゼが幽閉されていた。
だが、今のベルゼは目を丸くして封印陣の縁まで身を乗り出し、外側から悠々と近づいてきた「半透明の青年の姿」を信じられないものを見るように睨みつけていた。
『……ま、待て! 貴様、なぜ人魂にならずにそのままの意識と姿を保っておる!? いや、それよりもその顔と冥界の波長……!』
ベルゼには、その青年の顔に見覚えがあった。
神崎恭の『観測窓』越しに何度も見ていた隣人であり、地上の監視者であるブラフ(高橋尚人)からも「冥界の穏健派から派遣された調査員」として事前に報告を受けていた男だ。
『貴様、冥界の後藤光彦じゃな!? なぜ貴様の魂が、エデンではなくこの天獄に直接吸い込まれてきておるのじゃ!?』
驚愕に声を張り上げる伝説の女神を前にしても、光彦はまったく臆することなく、いつもの人懐っこい笑みを浮かべて片手をひらひらと振ってみせた。
「よっ、噂のベルゼ様っすね! いや〜、お初にお目にかかります。ブラフの旦那や神崎さんの関係者ってことで合ってます?」
『な、なんじゃその馴れ濡れしい態度は! 我を誰だと心得て――』
「まあまあ、堅いことは抜きにしましょうよ、女神様」
光彦はポリポリと後頭部を掻きながら、封印の鎖のすぐ手前までふわりと近づくと、少しだけ真面目なトーンに声色を変えてニヤリと笑った。
「俺がなんでここに来たのかも含めて、あんたをここに閉じ込めたメフィストの野郎が裏で進めてる『ソウルイーター計画』について……あんたや地上の神崎さんたちに、ちょっと面白い土産話があるんすよ」




