シーン6:再出発の約束
樹海を覆っていた黒紫の網が消え去り、遺跡の広場には静かな夜風が吹き抜けていた。
雲の隙間から差し込む青い月の光が、地面に崩れ落ちた佐伯朋美の姿を白く照らし出している。
「……う……あ……っ……」
魔力を使い果たし、【人化】を維持できなくなった朋美は、黒く硬質な八本の蜘蛛の脚を不器用に折り畳みながら、冷たい石畳の上に突っ伏していた。
瑞希は荒い息を整えると、手にしていた小剣を静かに鞘へと収め、一歩ずつ朋美のもとへと歩み寄った。
「こ、来ないで……っ! 見ないでよ、瑞希……!」
近づく足音に気づいた朋美が、両手で顔を覆うようにして身を縮める。その肩は小刻みに震え、指の隙間からはぽろぽろと涙がこぼれ落ちていた。
「殺しなさいよ……っ。こんな醜い化け物、もう瑞希の隣にはいられないわ……。私、全部壊しちゃった……。瑞希のことも、新しくできたお友達のことも……それに、この身体の元の女の子が『みんなと仲良く生きたい』って願っていた手記の約束も、全部……っ!」
前世からの隙のない優等生として振る舞っていた面影は、そこにはなかった。
ただ、自分の弱さと孤独に押し潰され、大切なものを何一つ守れなかった一人の少女が、泥に塗れて泣きじゃくっているだけだった。
「私……本当はずっと、瑞希が羨ましかったの……。誰にでも素直に笑えて、みんなから愛される瑞希が、いつか私なんかいらなくなって、遠くへ行っちゃうんじゃないかって……それが怖くて、たまらなかったのよ……っ」
絞り出すような独白を、瑞希は黙って聞いていた。
やがて瑞希は、蜘蛛の脚を震わせる朋美の目の前に立ち止まり、その視線と同じ高さになるようにそっと膝をついた。
「……私も、同じだったよ」
「え……?」
顔を上げた朋美の涙に濡れた瞳を、瑞希はまっすぐに見つめえ返した。
「現世での私は、自分が傷つくのが怖くて、何でもできる朋美ちゃんの後ろにずっと隠れてた。いじめられた時も、朋美ちゃんに守ってもらうばかりで、最後は相談もせずに勝手に電車に飛び込んで逃げ出した。……私たちは、お互いに歪んでたんだよ」
瑞希は静かに微笑み、自分の胸に手を当てた。
「朋美ちゃんは私を縛り付けてたし、私も朋美ちゃんに依存して甘えてた。だから……あっちの世界の歪んだ『幼馴染』は、さっきの剣で全部断ち切ったよ」
「瑞希……」
「でもね、朋美ちゃん。私たちは今、この世界でこうして生きてる。もし朋美ちゃんが、犯した罪と向き合って、もう一度自分の足でやり直したいと思ってくれるなら……」
瑞希は、泥と涙で汚れた朋美の手に向かって、自分の右手をそっと差し出した。
「今度は、支配する側とされる側じゃなくて……何でも言い合える、対等な『友達』からやり直そう」
差し出された瑞希の手を見つめ、朋美は息を呑んだ。
自分を化け物だと蔑むことも、裏切りを責め立てることもない、温かくも凛とした掌。朋美の瞳から再び大粒の涙が溢れ出し、彼女はおそるおそる、震える手で瑞希の手を握り返した。
「ごめんなさい……っ、瑞希……! 私、やり直したい……! もう一度、あなたの友達に、なりたいよぉ……っ!」
瑞希の手に額を押し当てて子どものように泣き続ける朋美の背中を、瑞希は優しく撫で続けた。
そこへ、広場の縁で見守っていた冬夜、夏芽、頼そして悠希と莉子の四人がゆっくりと歩み寄ってきた。
朋美がハッとして顔を上げ、自分がルミナスで残酷に操ってしまった双子の姉妹――悠希と莉子の姿を見て、申し訳なさに表情を強張らせる。
「あ、あの……藤原さんたち……私は、あなたたちにひどいことを……」
「ええ、そうね。あの時の恐怖は今でも夢に見るし、今すぐ笑顔で許してあげるなんて綺麗事は言えないわ」
悠希が腕を組み、少し厳しい声で言った。だが、その瞳に憎しみの色はなかった。隣に立つ莉子も、静かに頷いて言葉を継ぐ。
「でも、あなたも私たちと同じ、あのバス事故に巻き込まれて見知らぬ身体になってしまった被害者の一人だもの。……あなたがその身体の元の子の分まで真っ当に生きて、自分の力で罪を償うっていうなら、私たちがこれからのあなたを見ていてあげるわ」
「悠希さん……莉子さん……っ、ありがとうございます……!」
朋美が涙を拭いながら深く頭を下げる。
するとその時、広場の西側でドサリと重たい音が響き、低く豪快な唸り声が上がった。
「……うーむ、頭が割れそうに痛えな……。おいおい、俺は一体どうなっちまってたんだ……?」
「あっ、ガルド先輩!」
瑞希がぱっと顔を輝かせて振り返る。
そこでは、目を覚ましたガルドが大きな手で後頭部をボリボリと掻きながら、ゆっくりと上体を起こしていた。反対側でも、冬夜の電撃で気絶していたアルディシアのAランク二人――レイヴンとオルガが、呻き声を上げながら意識を取り戻し始めている。
ガルドは立ち上がると、首をコキコキと鳴らしながら周囲を見渡し、瑞希の隣でアラクネの下半身を晒して座り込んでいる朋美の姿に目を留めた。
「ガルド先輩、ご無沙汰しています! お怪我はありませんか!?」
「おう、瑞希。さっき最後に見た太刀筋は夢じゃなかったか。助かったぜ」
ガルドはニッと笑って瑞希の頭を撫でると、そのままドカドカと足音を立てて朋美の目の前へと歩み寄った。
身の丈二メートル近いAランクの巨漢に仁王立ちで見下ろされ、朋美が「ひっ……」と肩をすくめる。瑞希が慌てて「あ、あの、ガルド先輩! この子は私の友達で、もう戦う気はなくて――」と庇おうとしたが、ガルドは片手を上げてそれを制した。
「なるほどな。このアラクネの嬢ちゃんが、俺たちを糸で操ってた張本人ってわけか」
ガルドは顎の髭をジョリジョリと撫でながら、怯える朋美をじっと観察し――やがて、呆れたように鼻を鳴らした。
「ふん。随分と器用な糸の使い方をするじゃねえか。俺たち三人を同時に抑え込むなんざ、魔力の総量も制御のセンスも大したもんだ。……だがな、嬢ちゃん。お前の魔力の使い方は、自分の身体も心もすり減らすだけの素人仕事だ。まるでなってねえ」
「え……?」
「このままアルディシアのギルドに突き出せば、お前は良くて終身刑、悪けりゃ討伐対象として処理されるだろうな。だが、瑞希が命張って止めた友達を、そんな風に終わらせるのも寝覚めが悪い」
ガルドは腰に手を当て、豪快に笑って言い放った。
「よし、決めた。この嬢ちゃんの身柄は、グラニア支部の俺が責任を持って預かる! アルディシアのギルドマスターには、『樹海の奥にいた変異種の魔獣を討伐して事件は解決した』とでも俺から口裏を合わせときゃあいい」
「ガルド先輩……!? ほ、本当ですか!?」
「ああ。ただし、タダで匿うわけじゃねえぞ、嬢ちゃん」
ガルドの鋭くも温かい視線が、朋美を射抜く。
「お前が樹海や街道でかけた迷惑の分は、これからグラニアの街や森を守る仕事でたっぷり働いて返してもらう。人化の魔力制御も、その糸を人を守るために使う技術も、俺が一から骨の髄まで叩き直してやる。……今日からお前は、瑞希と同じ『俺の弟子』だ。覚悟しとけよ!」
予想もしなかった言葉に、朋美は目を丸くした。
自分が傷つけ、人形として利用したはずの男が、自分を罰するどころか「弟子」として受け入れ、生きる場所を与えてくれるというのだ。
瑞希も隣で、「朋美ちゃん、私たち、ガルド先輩の『同門』だね!」と嬉しそうに微笑んでいる。
「……っ、はい……! どんなに厳しくても、頑張ります……! よろしくお願いします、ガルド師匠……っ!」
朋美は涙を拭い、今度は自分の意志で力強く頭を下げた。
そこへ、冬夜が一歩前に出て、朋美に向かって静かに声をかけた。
「おい、佐伯。お前がガルドさんのところで真っ当に『佐伯朋美』として生きるってんなら、俺たちからも一つ約束しといてやるよ」
「佐々木、くん……?」
「俺たち『アニマの器』は今、夏芽や藤原姉妹みたいに、転生のせいで弾き出されちまった『元の持ち主の魂』を救い出す方法を探して旅をしてる。……お前が今使ってるそのアラクネの娘――セシリアの魂も、俺たちが必ず見つけ出して救う方法を手に入れてくる。だからお前は、そっちの師匠の下でしっかり自分の足で立って待ってろ」
冬夜の力強い言葉に、夏芽も「うん! 絶対に救う方法を見つけるからね!」と大きく頷く。
背負っていた最大の罪悪感にすら希望の光を示され、朋美は胸がいっぱいになりながら、「……うん。ありがとう、みんな……。私、グラニアでちゃんと生きて、瑞希に胸を張れる自分になってみせるから……!」と、この世界に来て初めて、心の底からの晴れやかな笑顔を咲かせた。
こうして、現世から続いた瑞希と朋美の長い因縁は終わりを告げ、大樹海に再び穏やかな朝の光が差し込み始めたのだった。




