シーン5:本気になった親友(とも)
「う、嘘よ……嘘よ嘘よ!! Aランクを三人も用意したのに……私の最高のお人形たちを、また壊したのね……ッ!!」
石柱の上で、佐伯朋美の可憐な顔が怒りと焦燥に歪んだ。
世界でも指折りの実力者である三人のAランク冒険者を同時に操るため、朋美はすでに膨大な魔力を消費していた。それをすべて断ち切られた反動が彼女の魔力回路を逆流し、その唇から一筋の血が垂れ落ちる。
「ハァッ、ハァッ……! どうして……どうしてなのよ、瑞希! 私はただ、あなたと一緒にいたいだけなのに……! なんでいつも、他の人ばかり見て私から逃げるのよ!!」
叫びとともに、朋美の全身から黒紫色の魔力が渦を巻いて噴き上がった。
その瞬間――ミシリ、と骨と甲殻が軋む異様な音が広場に響き渡った。
「……っ!?」
冬夜たちが息を呑む前で、朋美が纏っていた黒いドレスの裾が内側から引き裂かれるように膨張した。
人間の二本の素足を形作っていた【人化(偽装)】の魔術。追い詰められた朋美には、もはやその不自然な偽装に魔力を割いている余裕すら残されていなかった。全ての魔力を戦闘と糸の操作へ振り分けた結果、抑え込まれていた本来の肉体――黒く硬質な甲殻に覆われた、八本の巨大な蜘蛛の脚と不気味な腹部が露わになったのだ。
「あ……っ、見ないで……! 見ないでよ、こんな醜い姿……っ!!」
人間に戻ろうとして地下室で血を吐きながら隠し続けた、大嫌いな化け物の姿。それを一番見られたくなかった瑞希の前で晒してしまった羞恥と絶望が、朋美の理性を完全に焼き切った。
「全部あなたのせいよ、瑞希!! あなたが私を置いていくから、私はこんな化け物になってまであなたを追いかけるしかなかったんじゃない!! もうどうでもいいわ……綺麗に飾る余裕なんていらない、私の全部を使って、あなたをここで絡め取ってあげる!!」
ドォンッ! と石柱を八本の蜘蛛の脚で砕きながら、アラクネの本性を現した朋美が広場の中央へと飛び降りた。
人化の維持に回していた魔力がすべて【執着の網】へと注ぎ込まれ、樹海の木々に張り巡らされていた無数の黒紫の糸が、生き物のように一斉にうねり出す。
「くそっ、さっきまでとは魔力の密度が違うぞ! 悠希、夏芽、前に――」
消耗した身体を押して冬夜が前に出ようとした、その時だった。
スッ、と横に伸ばされた瑞希の小剣が、冬夜の行く手を遮った。
「……待って、冬夜。手を出さないで」
「瑞希……? おい、相手は本気の化け物だぞ。一人でやる気か!」
「うん。さっきは『みんなを頼る』って言ったばかりだけど……ごめん、これだけは私一人でやらせて」
瑞希は振り返らず、目の前で荒い息を吐きながら八本の脚を蠢かせる幼馴染だけをまっすぐに見据えていた。
「ガルド先輩たちを助けるのは、みんなの力を借りた。……でも、朋美ちゃんとの問題は、私が現世に置いてきた私自身の宿題なの。私が一人で向き合わなきゃ、朋美ちゃんはいつまで経ってもあの雨のホームから抜け出せないから」
その静かで揺るぎない声に、冬夜は言葉を飲み込んだ。
瑞希の瞳にあるのは、先ほどまでの焦りでも自己犠牲でもない。かつての親友の狂気も悲しみもすべて正面から受け止め、自分の手で決着をつけるという、一人の対等な人間の覚悟だった。
「……わかった。手出しは無用だ、みんな下がれ!」
冬夜が左の義手を下ろし、夏芽、悠希、莉子を連れて広場の縁へと後退する。
「瑞希ちゃん……!」
「負けるなよ、瑞希! お前たちの喧嘩だ、思いっきりぶつかってこい!」
仲間の声を背中に受け、瑞希は一歩、前へと踏み出した。
それを見た朋美の瞳が、歓喜と怒りに大きく見開かれる。
「ふふ……あははははっ! そうよ、それでいいのよ瑞希! 邪魔者は誰もいない、私とあなた、二人きりね!!」
朋美が両腕を振り上げた瞬間、地面と木々から無数の黒紫の糸が槍の穂先のように束ねられ、四方八方から瑞希ひとりをめがけて殺到した。
「来なさいよ、瑞希ぃぃっ!!」
「――行くわよ、朋美ちゃん!!」
瑞希は地面を蹴り、【透明な拒絶】を展開して姿を消した。
だが、今の朋美には隠密など通用しない。朋美は自分の周囲全方位に極細の感知糸を張り巡らせ、空気のわずかな振動や糸に触れた感触だけで、不可視の瑞希の位置を正確に捉えていたのだ。
「そこよッ! 『黒縛の荊』!!」
バシュバシュバシュッ!!
瑞希が踏み込んだ空間へ、鋼鉄以上の硬度を持つ黒い糸の束が棘のように突き刺さる。
瑞希は姿を現しながら小剣を閃かせ、【領域の切断】で迫り来る糸の束を次々と切り裂いていく。
「なんで斬るのよ! なんで私の糸を拒絶するのよ!!」
朋美が八本の蜘蛛の脚で大地を蹴り、目にも留まらぬ速度で瑞希の懐へと肉薄した。
人化を解いたアラクネの身体能力はすさまじい。鋭い鎌のような前脚が振り下ろされ、同時に指先から放たれた粘着質の糸が瑞希の足元を絡め取ろうと迫る。
ガキィィンッ!!
瑞希は小剣で蜘蛛の前脚を受け止めながら、空間を歪める【次元の刺突】で距離を詰めて反撃を繰り出す。
しかし、朋美は自分の肩口が浅く斬られるのも構わず、その場で独楽のように八本の脚を回転させ、暴風のような糸の斬撃を周囲へ撒き散らした。
「くっ……!」
瑞希の頬や腕を鋭い糸がかすめ、鮮血が飛び散る。
後方へ跳び退いた瑞希を休ませることなく、朋美はさらに魔力を引き上げ、広場の空全体を覆うほどの巨大な『黒紫の蜘蛛の巣』を頭上に編み上げた。
「私がどんな思いであなたを守ってきたと思ってるの!? 学校でみんながあなたを笑っていた時、隣にいてあげたのは私だけじゃない!! なのに、あなたは勝手に電車に飛び込んで、勝手にこっちの世界で強くなって、私なんかもういらないって顔をして……っ!!」
朋美の瞳から、血の混じった涙がボロボロとこぼれ落ちる。
それは悪魔の咆哮などではなく、置いていかれた子供の、あまりにも不器用で歪みきった泣き声だった。
「私はね、瑞希……! あなたが私以外の誰かと笑うのが、私を置いてどこかへ行っちゃうのが、死ぬほど怖かったのよ!! だから、二度と歩けないように、二度と私から目を離せないように、ここで全部縛り上げてあげる! 『絶望の繭』――ッ!!」
ゴオォォォォッ!!
頭上を覆っていた巨大な黒紫の蜘蛛の巣が、ドーム状の檻となって一気に収縮し、瑞希の頭上へと降り注いだ。
逃げ場はどこにもない。幾重にも編み込まれた高密度の魔力の網は、通常の【領域の切断】では到底斬りきれないほどの質量を持っていた。
(……そうだったんだね、朋美ちゃん)
迫り来る黒い網の奔流を見上げながら、瑞希は静かに息を吸い込んだ。
現世でのいじめが朋美ちゃんの仕組んだものだったのかどうか、今の瑞希にはもうどうでもよかった。ただ、完璧に見えていた幼馴染が、本当は誰よりも孤独を恐れ、自分を失う恐怖に震えていたという不器用な本音だけが、痛いほど胸に伝わってきたのだ。
「ごめんね、朋美ちゃん。現世での私は弱くて、あなたに甘えて、最後には勝手に逃げてあなたを一人にした!」
瑞希は両手で小剣の柄を強く握りしめ、腰を低く落とした。
全身の魔力回路が限界まで脈動する。小剣の刀身が、空間そのものを削り取るような青白い光の膜に包まれ、周囲の景色がガラス細工のようにピキピキとひび割れ始めた。
「でもね、もうあの頃の歪んだ私たちには戻らない! あなたを縛り付けているその寂しさも、私の弱さも、ここで全部――私が断ち切る!!」
頭上の黒い網が瑞希を呑み込もうとした、その瞬間。
瑞希は地面を蹴り、落ちてくる網の中心――そしてその奥にいる朋美の懐へ向かって、一直線に跳躍した。
「【次元領域の切断】――ッ!!」
閃光が、樹海の闇を真っ二つに裂いた。
瑞希が振るった小剣の軌跡に沿って、空間そのものが黒く断裂する。
それは単なる点や線の攻撃ではない。朋美が広場全体に展開していた「支配の領域」そのものを、次元ごと根こそぎ切り離す一撃だった。
――パァァァァンッ!!
空間が弾けるような澄んだ音が、樹海全体に響き渡った。
瑞希を押し潰そうとしていた巨大な黒紫の蜘蛛の巣が、まるで最初から存在しなかったかのように真っ二つに割れ、光の粒子となって霧散していく。
さらにその斬撃の余波は、朋美の身体には傷ひとつつけぬまま、彼女の魔力回路から溢れ出していたすべての呪いの糸と、樹海を覆っていた無数の網を、根元から同時に断ち切った。
「……え……? あ……ぁ……?」
すべての糸を失い、魔力が完全に尽き果てた朋美の身体から、フッと力が抜けた。
霧が晴れ、青い月の光が差し込む広場の中央へ、アラクネの姿の朋美が、糸の切れた人形のようにドサリと崩れ落ちた。




