シーン3:暗き霧の樹海
商業都市連合アルディシアの喧騒を背に、西へ進むこと数日。
私たち『アニマの器』の五人は、辺境樹海国グラニアとの国境に広がる大樹海の入り口へと足を踏み入れていた。
(……おかしい。森の匂いが、あの頃と全然違う)
先頭を歩きながら、私は小剣の柄を強く握りしめた。
半年前、現世の駅のホームから飛び込んでこの世界に漂着した私にとって、グラニアの樹海はすべての始まりの場所だった。湿った土と豊かな草木の匂い。そして、右も左も分からず怯えていた私に、魔物の生態や森での歩き方、生き抜くための術を一つひとつ教えてくれたガルド先輩の豪快な笑い声。
ここで新しく生まれ変わろうと誓った、大切な思い出の場所のはずだった。
けれど今、樹海を包んでいるのは、視界を白く閉ざす不自然な濃霧と、肌を刺すような冷たい静寂だった。鳥のさえずりも、小動物の気配もない。
代わりに、木々の樹皮や垂れ下がる蔦の隙間に、見覚えのある「黒紫の細い糸」がうっすらと張り巡らされているのが見えた。
(朋美ちゃんの糸……。ガルド先輩は、この奥で……っ)
ルミナスの廃聖堂で、朋美ちゃんに首筋へ糸を突き立てられ、涙を流しながら私たちに刃を向けてきた悠希と莉子の姿が脳裏によぎる。
今この瞬間も、ガルド先輩や行方不明になったAランクの人たちが、あの冷たい糸に心と身体を縛り上げられているのかもしれない。そもそも、朋美ちゃんがこのグラニアの樹海に網を張ったのは、私をおびき寄せるためだ。私があの時、現世で朋美ちゃんから逃げるように電車へ飛び込んだせいで、この世界の無関係な人たちや大切な恩人までが巻き込まれている。
早く見つけなきゃ。私が、一刻も早くガルド先輩を助け出さなきゃ。
焦燥感が胸の奥からせり上がり、いつもなら森の風に溶け込むはずの自分の呼吸が、わずかに浅く、速くなっていくのを感じていた。
――ガサッ!!
「っ、来るわ!」
前方の霧を突き破り、巨木の間から数頭の魔獣――『森顎熊』が飛び出してきた。
だが、その様子は尋常ではない。全身の血管が黒紫色に浮き上がり、瞳は血のように赤く濁って理性を失っている。毛皮の隙間には、樹海の木々から伸びる黒紫の糸が幾重にも絡みついていた。
「『マリオネットの呪い』ね……! 私が前で止める!」
後衛の夏芽ちゃんや莉子に指示を出すよりも早く、私は地面を蹴っていた。
固有能力【透明な拒絶】を展開し、自身の姿と足音を空間から消し去る。そのまま先頭の熊の懐へと滑り込み、首元の急所へ小剣を突き立てた。
一頭目を沈め、すぐさま二頭目の背後へ回り込もうと跳躍した――その瞬間だった。
(――あっ!?)
早く突破しなければと先を急ぐあまり、足元の確認が疎かになっていた。
着地しようとした地面の落ち葉の下に、極細の黒紫の糸が網目状に張り巡らされているのに気づいた時には、すでに体勢が崩れていた。空中で無理に身を捻るが、背後から三頭目の熊の巨大な爪が迫る。
「瑞希ッ! 下がれ!」
鋭い声と共に、横合いから飛び込んできた冬夜が、私の襟首を掴んで後方へと引き剥がした。
直後、冬夜の左の義手から赤熱の火炎と紫電が迸り、迫っていた熊の巨体を地面の罠の糸ごと豪快に吹き飛ばした。
ドガァンッ! と轟音が響き、続いて悠希の大剣と、夏芽ちゃん、莉子の連携魔術が残る個体を正確に仕留めきる。
「はぁ、はぁ……っ」
再び静寂が戻った森の中で、私は小剣を握りしめたまま、自分の足元を見つめて唇を噛んだ。
罠を見落とすなんて、普段の私なら絶対にあり得ないミスだ。
◆
「……よし、周囲の魔獣は片付いたな。少しここで息を整えるぞ」
冬夜の判断で、私たちは糸の気配がない巨大な岩陰に身を寄せ、小休止をとることになった。
私は岩壁に背を預けながら、小剣の刃についた汚れを布で拭う。早く先へ進まなければならないのに、自分の不甲斐ないミスのせいで足を止めてしまったことが悔しくてたまらなかった。
「瑞希ちゃん、はいこれ。温かいお茶だよ。少し飲んで落ち着いて」
「先陣を切ってくれてありがとうね、瑞希ちゃん。怪我はなかった?」
夏芽ちゃんが水筒から湯気の立つカップを差し出し、悠希と莉子が私の両隣に座って優しく背中をさすってくれた。
「あ……ありがとう、三人とも。ごめんね、私がさっき足元の糸を見落としたせいで……」
「謝ることなんてないわよ。この霧だもの、視界も悪いし仕方がないわ」
悠希が微笑んでくれるけれど、私の胸のつかえは取れない。
すると、少し離れた場所で周囲を警戒していた冬夜がこちらへ歩いてきて、私の目の前にどっしりと胡座をかいて座った。
「おい、瑞希」
低く、落ち着いた声だった。冬夜は私の目をまっすぐに見つめて言った。
「一人で背負い込みすぎだ」
「え……?」
「樹海に入ってから、お前の歩調も呼吸もずっと浮ついてる。ガルドって師匠を助けたい気持ちも、朋美の野郎を止めたい気持ちも分かる。俺たちだって同じだ。……だが、そうやって『自分のせいだから自分が何とかしなきゃ』って焦った殺気を撒き散らしてたら、相手の思うツボだぞ」
図星を突かれ、私は息を呑んだ。
冬夜は左の義手を軽く握りしめ、少しだけ苦笑いを浮かべる。
「俺も昔、夏芽を探すことばかりに必死になって、周りが見えずに一人で突っ走ってた時期があるからよく分かるんだよ。焦って視野が狭くなってる時は、どれだけ強い力を持ってても簡単に足元を掬われる」
「そうだよ、瑞希ちゃん!」
隣にいた夏芽ちゃんが、私のカップを持つ手を両手でぎゅっと包み込んだ。
「ルミナスの聖堂で、朋美ちゃんに追い詰められた時……冬夜お兄ちゃんと私が瑞希ちゃんに言ったこと、覚えてる? 瑞希ちゃんが自分を責める必要なんてどこにもないんだよ。それに、瑞希ちゃんはいつもAランクのエースとして私たちを引っ張って、守ってくれたじゃない。だから……苦しい時は、もっと私たちを頼ってよ!」
「夏芽ちゃん……」
「そうよ。私たちも、もう守られるだけの足手まといじゃないわ」
「朋美さんの糸の怖さは、私たちが一番よく知ってる。だからこそ、五人全員で力を合わせなきゃ!」
悠希と莉子も、力強い瞳で頷いてくれた。
手から伝わる夏芽ちゃんの温もりと、みんなの真っ直ぐな言葉。それらが、私の胸の中で冷たく固まっていた「焦り」という名の塊を、じんわりと溶かしていくのが分かった。
(……そっか。私、また一人で抱え込んでたんだ)
Aランクに上がったことや、自分の過去の因縁だからという理由で、無意識のうちに「私がみんなを守って、私が一人で解決しなきゃ」と強がっていたのだ。
けれど、私の隣には、同じように傷を抱えながらも一緒に死線を越えてきた、こんなにも頼もしい仲間たちがいる。
私はゆっくりと目を閉じ、肺の中の空気をすべて吐き出すように深く息をついた。
再び目を開けた時、視界を覆っていた焦燥のモヤは消え去り、驚くほど頭の中が澄み渡っていた。ガチガチに力んでいた肩からスッと力が抜け、樹海を流れる風の音や、遠くに張り巡らされた糸の微かな魔力の揺らぎまでが、手に取るように鮮明に感じ取れる。
もう、逃げ出したい気弱な私じゃない。
一人で全部を背負って空回りする私でもない。みんなと背中を預け合って戦う、『アニマの器』の岡田瑞希だ。
「……うん。ありがとう、みんな。……私、もう大丈夫」
私はカップの温かいお茶を飲み干すと、立ち上がって小剣を腰に差し直した。
「ここから先は、私が糸の気配を完全に読み取って安全なルートを案内するわ。足止めや露払いは、みんなにお願いしていい?」
「おう、任せとけ。お前は一番得意なことに集中しろ」
「うんっ! 後衛の守りはバッチリ任せて!」
冬夜がニヤリと笑い、夏芽ちゃんたちも笑顔で立ち上がる。
本来の冷静さと、仲間への確かな信頼を取り戻した私たちは、ガルド先輩と朋美ちゃんが待つ樹海の奥へと、迷いのない足取りで再び踏み出した。




