幕間11:神々の反省
カチャリ、と玄関の鍵が閉まる音が、静まり返ったワンルームの部屋にやけに大きく響いた。
神崎恭の自室。普段なら仕事の疲れを癒やすはずのその空間は、今夜ばかりは逃げ場のない取調室と化していた。
「……で。いつまでそこに突っ立ってるんですか、高橋先輩。いえ、神界の監視者『ブラフ』様」
恭は上着をハンガーにかけながら、冷え切った声で言った。
部屋の真ん中で胃を押さえながら立ち尽くしていた高橋尚人――神たるブラフは、ビクッと肩を跳ねさせた。普段、職場で後輩の恭をからかいながら缶コーヒーを奢っていた余裕など、今の彼には微塵もない。
「いや、その……神崎。まずは落ち着いてだな……」
「落ち着きないのは貴方の方ですよ。ほら、そこに座ってください。あ、もちろん『正座』でお願いしますね」
「……はい」
恭の絶対零度の三白眼に射抜かれ、神界屈指の実力者であるはずのブラフは、フローリングの床に寸分の狂いもない綺麗な正座で腰を下ろした。膝の上に揃えて置かれた両手が、小刻みに震えている。
恭はパイプ椅子を引っ張り出してブラフの目の前にドカリと座ると、虚空へ向かって冷たく声を投げた。
「それと、上で盗み聞きしてるあんたもだ、ベルゼ。いつまでも声だけで隠れてんじゃねえよ。引きずり出すぞ」
恭が意識を集中させると、何もない空間に半透明の『観測窓』がバチリと音を立てて強制展開された。
転移者たちの能力を次々と取り込み、世界のシステムとのパスが異常なまでに太くなった今の恭にとって、念話の回線を逆探知して「天獄」の視覚情報を強引にモニターへ映し出すことなど造作もなかった。
『う、うギャッ!? な、なんじゃ、急にこちらの映像を繋ぐでないわ!?』
空間に浮かび上がった観測窓の向こう側――薄暗い天獄の中心で、幽閉されている女神ベルゼの姿がくっきりと映し出される。
もちろん、その映像は目の前にいるブラフにも丸見えだ。 いつもなら「我を崇めよ!」と尊大に胸を張るはずの女神だが、今の彼女は完全に目を泳がせ、画面の向こうでブラフの隣に並ぶようにして、ちょこんと正座の姿勢をとっていた。
地上の床で胃を押さえて正座する男神と、観測窓の向こうで縮こまって正座する女神。 神界の威厳など欠片もない「神々のダブル正座」を見下ろし、恭は深々とため息をついた。
「まったく……揃いも揃って、俺をいいように手のひらで転がしてくれたよな」
恭は足を組み、手元のブラックコーヒーを一口啜った。
「まず、答え合わせからいこうか。高橋先輩……あんたが俺の【死神】としての素質に目をつけ、天獄にいるベルゼに情報を流して俺と契約させた。目的は、俺を『魂の射出装置』として利用し、エデンに人間を送り込んで盤面を引っかき回すこと。そして天獄からベルゼを引きずり出すことだ。……違いないな?」
「……ああ、その通りだ。すまない」
『ま、待て恭! 騙すつもりではなかったのじゃ! ただ、最初からすべてを話せばお主が警戒して契約に乗らんと思ってじゃな……!』
必死に弁明するベルゼを、恭はジロリと睨みつけて黙らせた。
「黙れポンコツ女神。お前の浅知恵がどれだけ破綻してたかは、こないだ言ってやった通りだ。……俺が今日、あんたたち二人に全部吐いてもらうのは、この狂った『世界の構造』と、美憂を巻き込んだ『フィスト』の正体についてだ」
恭の言葉に、ブラフとベルゼは顔を見合わせた。 もはや隠し通せる段階ではない。
何より、最愛の妹である優子――女神サラがエデンへ飛んでしまった今、恭の協力なしには彼女の安全すら確保できないのだ。 ブラフは観念したように一度目を閉じ、神としての重々しい口調で語り始めた。
「……わかった。すべて話そう。まず、ベルゼが前に『世界は5つに分かれている』と言ったそうだが、正確にはこうだ。世界は上層領域である『2層世界』と、下層領域である『1層世界』の二段階に分かれている」
恭は黙って耳を傾ける。
「2層世界には、僕やベルゼ、サラがいた【神界】と、過激派たちが巣食う【冥界】。そして、1層と2層の狭間にある巨大な門――お前たちが『月』と呼んでいる【天獄】の3つが存在する。そして下層である1層世界には、表の世界であるこの地球【原典世界】と、裏の鏡像世界である【ミラージュ・エデン】の2つがある。これで合計5つだ」
「神界、冥界、天獄。そしてオリジンとエデン、か」
「そうだ。だが、およそ千年前……世界はもともと『一つ』だったんだよ」
ブラフの口から語られたのは、神話よりも古い、世界の成り立ちの記憶だった。
「かつて、権力や思想の違いによる内部抗争に加え、外宇宙からの侵略戦争が起きた。その果てしない戦いで酷使され、消耗しきった人間たちの魂は、いつしか『二つに分割してしまう』という異常な副産物を生み出したんだ。特に、最前線で外宇宙の脅威と戦っていた『英雄』と呼ばれる者たちほど、魂の分割が顕著に進んでしまった」
「英雄の魂が、二つに割れた……?」
「ああ。当時の統治者は彼らを元に戻そうと研究を重ねたが、それには途方もない歳月がかかることが判明した。しかもその間にも魂の分割は広がり続け、ついには分割された魂の扱いを巡って世界が真っ二つに割れたんだ。『分割された魂は保護すべきだ』と主張する保守派と、『世界のエネルギー資源として有効活用すべきだ』と主張する過激派にな」
『保守派が我ら【神界】となり、過激派が【冥界】となったのじゃ』
ベルゼが画面の向こうで正座を崩さぬまま、重苦しく言葉を継いだ。
『このままでは世界そのものが崩壊すると判断した統治者は、苦肉の策として世界を分断した。争いの火種である「分割された弱い魂」を2層世界から逃がし、新しく創った1層世界――オリジンとミラージュ・エデンに別々に隔離して保護したのじゃ。それが、お主らに課せられた【魂の呪縛】の正体じゃよ』
「【魂の呪縛】……。俺が鉄道の仕事を辞めようとすると息が詰まる、この強制力のことか」
「そうだ」とブラフが頷く。
「分割された魂を保護するため、一方の世界では『記憶と能力』を封印して異能を使えない平和な世界とし、もう一方の世界では『本来の強大な能力(英雄の力)』を制限して閉じ込めた。さらに、万が一にも二つの魂が再び出会って統合し、2層世界へ反乱を起こすことがないよう、統治者は絶対的なルールを作った。それが――統合が起きた際、記憶を持たない『オリジン側の魂』が必ず主導権を握り、エデン側の魂を上書きするという【魂の理】だ」
恭の脳裏に、エデンの禁書庫で冬夜たちが読んでいた文献の一節が蘇る。
『魂の器(肉体)ごと境界を越えし者の存在。交わらぬはずの二つの線が同じ世界で重なる時、理は崩壊し――』
そこで、恭はふと一つの疑問に思い至り、目の前で正座するブラフを鋭く見据えた。
「……待てよ。俺の能力が【魂の呪縛】によって引き出されたかつての英雄の力だというなら……当然、エデン側には『俺自身の魂の片割れ(同位体)』も存在するってことだよな?」
その問いに、ブラフとベルゼの肩が同時にピクリと震えた。
「どうなんだ、先輩。あんた、俺の同位体がエデンのどこで何をしてるか知ってるのか?」
「……いや、そこまでは僕も把握できていないんだ」
ブラフは冷や汗を拭いながら、真剣な表情で首を振った。
「ただ、間違いなくミラージュ・エデンのどこかに存在しているはずだ。かつて【死神】と呼ばれ恐れられた規格外の英雄の半身だからな。……おそらく、向こうの世界でも相当な実力者、それこそ世界の頂点に近いような異常な存在になっている可能性が高い。もしお前自身がエデンに渡り、そいつと接触して『統合』を果たすようなことがあれば……一体どんなバケモノが生まれるか、神である僕たちにすら予測がつかないんだよ」
『うむ……。ただでさえ今の恭は、片割れの状態でありながらオリジンの制限を食い破りつつある。これでエデンにいるもう一人の【死神】とひとつに重なれば、世界のシステムそのものがどうなるか……』
二柱の神が戦慄を滲ませるのを見て、恭は「なるほどな」と静かに目を細めた。
エデンにいる、もう一人の自分。そいつがどんな奴かは知らないが、いずれ向こう側へ乗り込むことになれば、嫌でも向き合うことになるだろう。
「俺の同位体のことはひとまず置いておくとして……次は、10年前の事件と『フィスト』についてだ。後藤の奴が言ってたぞ。『2層世界の連中が絡んだ10年前の大規模な事件』ってな。あれで美憂は家族を失ってるんだ。フィストとどう繋がってる?」
恭が問い詰めると、ブラフは苦々しげに顔を歪めた。
「……千年の時が経ち、冥界でも穏健派が増えてはいたんだ。後藤光彦も、実は冥界の穏健派が作った『冥界管理委員会』から調査のために派遣された青年だった。だが、一部の過激派は諦めていなかった。その筆頭が、神界に『フィスト』という偽名で潜り込んでいた男――冥界のトリックスター、『メフィスト』だ」
「……メフィスト?」
初めて聞くその名前に、恭は眉をひそめた。
「ああ。フィストの本来の姿であり、真の名だ。あいつは10年前、僕たちの仲間であるベルゼを罠に嵌めて天獄に封印し、彼女の特殊な力を人柱にして、1層と2層を隔てるゲートを強引にこじ開けたんだ。そしてオリジンに降り立ち、分割された魂を『資源』として回収するための実験として、無差別な大量虐殺を引き起こした」
「なっ……!?」
「……そうだ。10年前、如月美憂の両親と妹を惨殺した張本人こそが、その『メフィスト』なんだよ」
ブラフの沈痛な声に、室内の空気がミシリと音を立てて凍りついた。
だが、ブラフが語る残酷な真実はそれだけでは終わらなかった。
「そしてあいつは……家族を殺されて絶望していた美憂ちゃんの前に、今度は神『フィスト』の仮面を被って現れた。『お前の家族の魂を奪った悪魔メフィストに復讐したければ、この力を使え』と唆して、彼女に【刈り取る者】を授けたんだ」
恭の手の中で、コーヒーの紙コップがグシャリと潰れた。
「……待てよ。じゃああの野郎は、自分で美憂の家族を惨殺しておきながら、別人のフリをして美憂に近づき、『犯人に復讐させてやる』って騙して手駒にしたのか!?」
『そ、そういうことになるのぅ……。奴は美憂が背負ったトラウマも復讐心も、すべて自分の実験の道具として弄んでおるのじゃ。しかも恭、急がねばならん。奴が美憂に授けた【刈り取る者】には、本人にも伏せられた残酷な制限がある。人間の器が耐えられる他者の魂は「7人」までじゃ。それを超えれば、美憂の自我は完全に崩壊し、暴走する化け物と化して命を落とす!』
「7人まで、だと……!?」
『うむ。先日、後藤光彦という冥界の青年の魂を刈り取ったことで、すでに6人目じゃ。あと一人でも魂を刈り取れば、美憂はもう元には戻れん! フィスト――いや、メフィストの奴は最初から、7人目を刈り取らせて美憂を暴走させ、使い潰すつもりなのじゃ!』
ベルゼの切迫した言葉に、恭の全身から、物理的な錯覚を起こすほどのドス黒い殺気が立ち昇った。 どこまでも悪辣で、救いようのない外道。美憂がどれほど苦しみ、恭にすら全てを隠して孤独に罪を重ねてきたか。それをすべて自作自演のマッチポンプで仕組んでいたのが、フィスト――メフィストだというのだ。
「しかも、それだけじゃない」
ブラフは胃の痛みに顔をしかめながら、さらに事実を付け加えた。
「そもそも10年前、メフィストがオリジンへ繋がる次元の穴を見つけられたのには原因がある。ベルゼが消えた直後、親友であるサラ……つまり優子が、僕の制止も聞かずにベルゼを探そうとして、自分の魂を強引に二つに割って1層世界へ飛び込んだんだ。その時に開いた次元の綻びを、メフィストに利用された」
「……優子さんが?」
「ああ。当時の大量虐殺は僕が鎮圧し、以来、僕は統治者の命でオリジンの監視者としてここに駐在している。記憶を失って『高橋優子』になった妹を守りながら、ベルゼを救い出すために、かつての英雄の中でも規格外の力を持つお前――【死神】の権能をベルゼに繋いだんだ」
ブラフは深く頭を下げ、床に手をついた。
「お前を巻き込んだことも、美憂ちゃんの件を把握していながら監視者としての立場を優先して手をこまねいていたことも、本当にすまないと思っている! だが、優子がエデンに行ってしまった今、あいつは向こうにいる『自分の魂の片割れ』を探し出すつもりだ! 頼む神崎、お前の観測窓で優子を見守ってやってくれ!」
『わ、我からも頼む! サラは昔から思い詰めると周りが見えなくなる馬鹿な娘なのじゃ! 我のためにあんな無茶をして……どうか、あやつを助けてやってくれ!』
床で頭を下げるブラフと、画面の向こうで頭を下げるベルゼ。
二柱の神が、一人の人間の前に完全にひれ伏していた。
恭はしばらくの間、氷のような無表情で二人を見下ろしていたが、やがて潰れた紙コップをゴミ箱へ放り投げ、大きく息を吐き出した。
「……まあ、いいさ。あんたたちがどれだけポンコツで、自分勝手な神様かってことはよく分かった」
恭は立ち上がり、窓の外に広がる深夜の東京の街並み――そして、夜空に浮かぶ黄色い『月(天獄)』を見上げた。
「だが、おかげで盤面のルールと、やるべきことの『優先順位』がはっきりした」
恭は振り返り、正座したまま見上げてくる二柱の神に向かって、冷徹な指を突きつけた。
「俺が今すぐエデンに乗り込むことはない。最優先は、このオリジンで限界寸前の美憂を見つけ出し、7人目を刈り取る前に俺の手で止めることだ。エデンに飛んだ優子さんの動向や、向こうで目覚めるであろう能力については、この部屋から『観測窓』でしっかり追ってやる」
「高橋先輩、あんたはオリジンの監視者としての情報網をフル稼働させて、今すぐ美憂の潜伏先を割り出せ。ベルゼ、お前は天獄からメフィストの気配とエデンの動きを徹底的に探れ。……美憂との決着をつけたら、次は俺自身がエデンへ乗り込んで、向こうの盤面も、俺の同位体も、メフィストの計画も全部まとめてぶっ潰す」
恭の口元に、シニカルで獰猛な笑みが浮かぶ。
「あんたたち神様のちっぽけな計画なんて知ったことか。俺の目的は最初から一つだけだ。――美憂を縛り付けている呪いをぶっ壊して、俺の隣に連れ戻す。そして、俺の女をコケにしてくれたメフィストの野郎の首を、俺の手で直接ねじ切ってやる」
恭の瞳の奥で、オリジンの制限すら食い破る【死神】の権能が不気味に脈動する。
「高橋先輩、ベルゼ。俺の駒としてせいぜい働いてもらうぞ。……神々の反省会はここまでだ。ここからは、俺のやり方で盤面を全部ひっくり返す」
神の思惑を超え、世界の理すらも踏み台にする最凶の介入者。
静かな部屋の中で宣言された死神の反撃を前に、二柱の神はただ、背筋を震わせて頷くことしかできなかった。
(第4章・完)




