シーン17:死神の逆鱗
第一層の神たる『ブラフ』――すなわち、しがないNRの鉄道員として人間界に潜伏している高橋の胃袋は、今まさに千切れるほどの激痛に見舞われていた。
「嘘だろ……なんで……っ!」
誰もいない駅の裏通路を、高橋はなりふり構わず全力疾走していた。息は上がり、額からは脂汗が滝のように流れ落ちている。すれ違う同僚たちが「高橋さん、どうしたんですか?」と驚いた顔を向けてくるが、それに応える余裕など微塵もなかった。
神としての卓越した知覚が、最悪の事態を告げていた。
たった今、この現世から一つの魂が切り離され、次元の壁を越えてミラージュ・エデンへと渡航した痕跡を察知したのだ。
それだけなら、ただのイレギュラーな事象に過ぎない。問題は、その魂の「色」と「波長」だ。間違いない。あれは優子だ。高橋が目の中に入れても痛くないほど溺愛している最愛の妹、優子の魂だった。
「あいつ、自分の魂を追いに行くって……まさか本気でエデンに向かったのか!?」
心臓が早鐘を打ち、視界がぐらぐらと揺れる。
優子は、失われた自身の半身とも言える魂を探していた。だが、生身の人間が自らの意志で異世界へ渡ることなど不可能だ。誰かが意図的に彼女の魂を現世から切り離し、エデンへと送り出したとしか考えられない。
そして、そんなデタラメな真似ができる規格外の存在を、高橋は一人しか知らなかった。
『死神』――神崎恭。
他でもない高橋自身が、彼の異常な素質を見抜き、天獄に幽閉されている女神ベルゼに情報を流して協力者に仕立て上げた「完璧な手駒」だ。
本来なら神崎は、エデンという理不尽な盤面に干渉するための、高橋たち神にとって都合の良いジョーカーとなるはずだった。
「あの野郎……まさか俺の妹を送りやがったのか!?」
神としての威厳も、盤面をコントロールする黒幕としての余裕も、今の高橋には欠片も残っていなかった。あるのは、ただただ妹の安否を気遣ってパニックに陥る「シスコンの兄」としての激しい焦燥感だけだ。
バンッ!!
スタッフルームの重い扉を、高橋は肩からぶつかるようにして勢いよく押し開けた。
室内には、ちょうど乗務を終えて帰り支度をしている神崎がいた。パイプ椅子に腰掛け、自販機で買った紙コップのコーヒーを静かにすすっている。
「神崎!!」
鼓膜を破らんばかりの絶叫と共に、高橋は神崎に飛びかかった。
「うわっ、高橋先輩? どうしたんですか、そんな血相変えて」
神崎は驚いたように目を丸くしたが、その声のトーンはどこまでも平坦で、焦りなど微塵も感じられなかった。
「とぼけるな! お前、まさか……優子をエデンに送ったのか!?」
高橋は神崎の肩をガシッと掴み、前後に揺さぶりながら問い詰める。目は血走り、息は荒い。もしここで「違う」と言われれば、優子の魂は完全にロストしてしまったことになる。そんな事は絶対に認める事は出来ない。
神崎は、掴まれた肩に視線を落とし、それからゆっくりと高橋の顔を見上げた。
周囲には、まだ数人の同僚が残っている。神崎は小さく息を吐くと、周囲に聞こえないように声を潜め、至極当然のことのようにサラリと告げた。
「ああ。優子さんなら俺が送っておきましたよ。彼女が自分の意志で行きたいって言うから、手伝っただけです」
「なっ……!」
高橋の呼吸が止まった。
頭の中で、何かがガラガラと音を立てて崩れ去っていく。
よりによって、自分が用意した最高の手駒が、自分の最愛の妹を盤上に引きずり込んだのだ。神の采配としては、これ以上ないほどの痛恨のミス、いや、致命的な大ポカである。
「お前……っ、よりによって優子を……!」
「文句を言われる筋合いはありませんよ。彼女は自分の魂を取り戻すために覚悟を決めてた。俺は彼女の背中を押しただけです」
淡々と告げる神崎の言葉は正論であったが、高橋の心には全く響かなかった。
優子がエデンでどれほど危険な目に遭うか。あっちの世界の理不尽さを、神である高橋は誰よりも知っているのだ。
「あいつは……優子は昔から、思い詰めると無茶ばかりするんだ! あんな物騒な場所で一人でなんて……っ!」
胃酸が逆流し、キリキリとした痛みが腹部を駆け巡る。
高橋は神としての冷静さを完全に失い、すがるような目で神崎を見た。今、エデンの状況に直接干渉できるのは、目の前にいるこの男しかいない。
「頼む、神崎! お前が送ったなら『観測窓』で向こうの足跡を追えるだろ!? 向こうでの優子を、サラとしての活動をサポートしてやってくれ! この通りだ!」
高橋は神崎の前で深く頭を下げ、懇願した。
自分が神であることも忘れ、なりふり構わず彼の能力にすがりついたのだ。これで少しでも優子の生存確率が上がるなら、土下座でも何でもする覚悟だった。
しかし――。
その瞬間、スタッフルームの空気が、急激に冷え込んだ。
先程まで感じていた日常のぬるい空気が一瞬にして凍りつき、肌を刺すような鋭いプレッシャーが空間を支配する。
「……先輩」
頭上から降ってきた神崎の声は、同僚に向ける後輩のそれではなくなっていた。
底知れない深淵を覗き込むような、冷徹で、絶対的な【死神】の声。
「今、なんて言いました?」
ビクッ、と高橋の肩が跳ねた。
ゆっくりと顔を上げると、神崎が氷のように冷たい目で高橋を見下ろしていた。紙コップを持つ手は微動だにせず、ただ静かな殺気だけが高橋の全身に突き刺さってくる。
「『観測窓』……。俺が転移させた人間の足跡を追えるシステムのことですね」
「あ……」
「なぜ『ただの会社の先輩』が、俺の能力の詳細をそこまで正確に知っているんですか?」
致命的な失言。
高橋は、自分の放った言葉の重大さにようやく気がつき、全身の毛穴から冷や汗が噴き出すのを感じた。
元々、高橋が知っていたのは神崎が異世界へ魂を転移させる能力を持っていることだけだった。だが、彼の異世界の力が段々と増してきていること。
そして『観測窓』の存在については、天獄のベルゼからペラペラと情報が漏らされており、高橋はそれを把握していたのだ。
焦りのあまり、その神崎の権能の深淵を、無意識のうちに口走ってしまった。
「そ、それは……その……」
言い訳を探そうと必死に思考を回転させるが、パニック状態の脳は全く働いてくれない。
神であるブラフとしての知能が、恐怖と胃痛の前に完全に沈黙していた。
神崎は静かに、しかし逃げ道を塞ぐような圧倒的な圧を放ちながら、さらに言葉を続ける。
「……なるほど。天獄のベルゼから聞いたんですね。幽閉されてるあいつが、地上のましてや、一般人に俺の情報をペラペラと漏らしていたわけだ。そもそも、ただの先輩がそんなことを知るはずがない。……優子さんが言ってた通りですね」
神崎の口元が、わずかに歪む。
それは、獲物を完全に罠に嵌めた捕食者の、シニカルで残酷な笑みだった。
「アンタが、俺をこの盤面に引きずり込んだ『神様』ってわけだ」
その言葉が決定打となった。
高橋は息を呑み、一歩、後ずさる。
自分が完璧にコントロールしていると思い込んでいた手駒。しかし現実は違った。いつの間にか、神である自分自身の喉元に、死神の刃が突きつけられていたのだ。
愛する美憂を理不尽な運命から奪い返すためなら、神であろうと女神であろうと利用し尽くす。目の前にいるのは、神の采配すら喰い破る、そういう次元の覚悟を決めた怪物なのだ。
「……っ」
高橋は声を出せなかった。激しい胃痛が彼を責め立て、反論する気力すら根こそぎ奪っていく。
「先輩のご要望通り、優子さんのサポートは引き受けますよ。俺も向こうの状況は把握しておきたいですからね。まぁサポートと言っても監視しかできませんけどね」
神崎は、怯える高橋に向けて、まるでとどめを刺すように優しく微笑んだ。
「ただ……ここで話すのはまずいですね。先輩、今日この後空いてますか? 仕事が終わったら、ちょっと俺の部屋に寄ってください」
それは招待ではない。強制的な連行命令だった。
「アンタが俺の何をどこまで知っているのか。美憂の背後で糸を引いてる『フィスト』をどうやってぶっ潰すのか。……上(天獄)にいる女神様も巻き込んで、全部吐いてもらいますよ。じっくりとね」
逃げ場は、どこにもなかった。
自分が与えた手札で、逆に自分の首を絞められることになろうとは。
「あ、ああ……わかった……行くよ……」
高橋は胃を押さえながら、絶望的な声で頷くしかなかった。
これから神崎の部屋で、通信越しに呼び出されるであろうベルゼと共に、どんな尋問(正座)が待っているのか。想像しただけで、高橋の胃袋は限界を超え、今にも破裂しそうだった。
神の誤算は、死神の逆鱗に触れた。
重い足取りで退勤の準備を始める高橋の背中を、神崎恭はただ冷ややかに見つめ続けていた




