シーン16:冥界の彼を求めて
深夜の駅のホームには、肌を刺すような冷たい冬の風が吹き抜けていた。
最終電車はとうに過ぎ去り、頭上にある古びた電光掲示板の表示は黒く沈み、完全な沈黙を守っている。終電後の静まり返った構内は、まるで巨大なコンクリートの墓標のようだ。人影の完全に消えた静寂の中、高橋優子は黄色い点字ブロックの内側にただ一人立ち、暗闇の奥へと続く無限の線路を静かに見つめていた。
吐く息は白く、瞬く間に夜の冷気へと溶けていく。
恐怖はない。迷いもなかった。
胸の奥底で静かに、けれどマグマのように激しく燃え続ける炎だけが、彼女の細い足をこの場所に縫い留めている。
(光彦くん……)
ゆっくりと瞳を閉じれば、彼の不器用で、けれど誰よりも優しい笑顔が脳裏に鮮明に浮かび上がる。
出会ったばかりの頃、彼はいつも少し距離を置きながら、それでもさりげなく優子を気遣ってくれていた。ふとした瞬間に彼が見せた、どこか寂しげで、それでいて真っ直ぐな瞳。一緒に過ごした何気ない時間――例えば、冷たい風の吹く公園のベンチで、彼が黙って温かい缶コーヒーを手渡してくれたあの夜。彼の指先が僅かに触れた時の、あの不器用な温もり。何を守るべきか悩み、それでも懸命に足掻こうとしていた彼の背中。
自分がいかに彼に惹かれ、彼という存在が自分の中でどれほど大きなものになっていたか。
彼を理不尽な形で喪った今になって、心臓を直接鷲掴みにされるような鋭い痛みを伴って自覚させられていた。
『――彼は、冥界の人間だ』
兄である尚人――いや、神であるブラフから冷たく告げられた言葉が、ヒュルリと鳴る風の音に混じって耳の奥で蘇る。
冥界。
神であった頃の自分自身の記憶は、未だひどく曖昧で、分厚い霧に覆われているかのように霞が掛かっている。神々が語る世界の理も、冥界という言葉から連想される恐ろしく冷酷なイメージも、今の優子にとっては単なる知識の欠片に過ぎない。
事故の直後、優子は兄によって意識を失わされ、気づいた時にはその場から連れ去られた後だった。
そして何より、その無機質な言葉と、優子の知る『後藤光彦』という青年が持つ温かさは、どうしても結びつかなかった。
私に向けて差し出された、あのゴツゴツとした手の温もり。
不器用に言葉を選びながら、それでも誠実に思いを伝えようとしてくれた彼の声。
もし彼が冥界の人間だというなら、自分の持っている「冥界」という世界の知識そのものが間違っているとしか思えない。いや、そんなことはどうでもよかった。
(彼が冥界の住人だろうと、どこの世界の人間だろうと……そんなの、今の私には関係ない)
ただ、彼に惹かれていた。彼の隣にいる時間が愛おしかった。彼を喪いたくなかった。
もしこの狂った世界の盤面の上で、神々の身勝手な思惑が彼を理不尽な死へと追いやったのだとすれば。
(私が、彼を助け出す。絶対に連れ戻す)
そのための覚悟は、とうの昔に決まっていた。
かつて、かけがえのない友であるベルゼを救いたいという、ただその感情だけで、絶対に越えられないとされる『二層と一層の壁』を越えるため、自らの魂を強制的に『分割』してこの現世へと身を投げた。
あの時の、身を引き裂かれるような魂の激痛は今でも覚えている。
しかし、その代償として生み出されてしまった、もう半分の自分。それが今、向こう側で独り歩きしている。
あの時、強引に分割してしまった自分の魂を回収し、すべての因果にケリをつける。
でなければ、光彦を真の意味で救うことなどできないのだ。
兄である尚人に頼ることはできない。彼にこの計画を知られれば、その強大な力で必ず止められるだろう。だからこそ、彼女は死神の権能を持つ神崎恭に接触し、己の命すらチップとして差し出す覚悟で事実を突きつけ、この強引な次元干渉の手段を手配させたのだ。
『後悔するかも知れないぞ、優子さん』
昨日の去り際に見せた、恭の冷ややかな、しかしどこか憐れむような視線を思い出す。だが、後悔などするはずがなかった。
ゴォォォォ……ッ。
遠くの暗闇から、大気を震わせる低い摩擦音が近づいてくる。
やがて、通過する回送電車の暴力的なまでに眩しいヘッドライトが、冷え切ったホームのコンクリートと、優子の華奢な姿を白く照らし出した。
轟音と共に迫り来る光の奔流。
その運転席の窓の向こうに、死神の目を持つ神崎恭の気配が確かにあった。
彼もまた、この狂った事象の共犯者だ。
(行くわよ、光彦くん。もう二度と、あなたを独りにはしない)
優子は短く、鋭く息を吐き出すと、猛スピードで迫り来る数千トンの鉄の塊に向かって、一切の躊躇なく、鳥が羽ばたくような軽やかさで身を投げた。
激突の瞬間。
身体が物理的に砕け散る圧倒的な痛みが走るよりも早く、空間そのものが異様に歪み、ねじ曲がった。鼓膜を打つのは衝突の轟音ではなく、世界が裏返るような奇妙で冒涜的な不協和音。
恭の権能【幻影電車】が発動し、人身事故という悲惨な事象を限定的に書き換え、優子の肉体を物理的な破壊から切り離していく。
光とノイズの渦。万華鏡のように砕け散る現実の景色。
その圧倒的な奔流に飲み込まれながら、優子は静かに瞳を閉じた。
次に目を開ける時、そこはもう見慣れた平和な日常ではない。分かたれた魂と、神々と冥界の因果が複雑に交錯する血塗られた鏡像世界だ。
光彦への深い愛情と、決して揺るがない鋼の決意を胸に抱いたまま、高橋優子の姿は深夜のホームから完全に消失し、次元の狭間へと溶けていった。




