シーン13:日常の終焉
「いやあ、最後の展開は読めなかったな。まさかあそこであの伏線が回収されるなんてさ」
夜の冷たい空気が頬を撫でる中、隣を歩く後藤光彦が、楽しげに笑いながら映画の感想を熱弁している。
その屈託のない笑顔を見ながら、私は「ふふっ、そうですね」と曖昧に相槌を打った。
私の胸の奥には、ずっと昔から、ぽっかりと空いた正体不明の「穴」がある。
自分が何者なのか、本当は何をしなければならなかったのか。何か、絶対に忘れてはいけない大切な約束があったはずなのに、その輪郭すら思い出せない。まるで分厚いガラス越しに自分の人生を眺めているような、宙ぶらりんな虚無感。
それがいつから始まったのかすら、私にはわからなかった。
けれど、この隣人である後藤さんと過ごす時間は、不思議と居心地が良かった。
彼はどこか飄々としていて、お世辞にも隙がないとは言えないけれど、
「この世界って、案外悪くないよね」と心底楽しそうに笑う。その楽天的な温かさに触れていると、私の中にある得体の知れない寒さが、少しだけ和らぐような気がした。
「優子さん、寒くない? もしよかったら、これ……」
「あっ、大丈夫です。ありがとうございます、後藤さん」
彼が巻いていたマフラーを差し出そうとして、私が遠慮して笑い合う。
ほんの少しだけ距離が縮まったような、そんな穏やかな帰り道。このまま、普通の日常が続いていくのだと、そう思っていた。
――突然、周囲の空気が異様にねっとりとしたものに変わった。
「え……?」
街灯の明かりが、チカチカと不自然に明滅する。
夜風とは違う、ぞくりとするような不穏な気配。鉄錆のような血の匂いが鼻を突いた。
「……ッ、優子さん、下がって!!」
それまで人の良さそうな笑顔を浮かべていた後藤さんが、鋭い声で叫んだ。
彼が私を庇うように一歩前に出た直後。目の前の空間が、ぐにゃりと歪んだ。
『――見つけた』
歪みの中から現れたのは、一人の若い女性だった。
身の丈ほどもある禍々しい黒銀の大鎌を片手に引きずっている。虚ろで焦点の合っていない瞳は、明確な殺意だけを宿して私を真っ直ぐに射抜いていた。
「誰だ、お前……! なんで優子さんを狙う!?」
後藤さんが鋭い声で詰問する。その声色は、私の知る「隣人の後藤さん」のものではなかった。歴戦の戦士のような、重く冷たい響き。
「ふふっ……あはははっ! なんで、だって……?」
女性は壊れたおもちゃのように首を傾げ、不気味な笑い声を上げた。
「フィストが言ってたの。その女を殺せば、全部終わるって……私の家族の仇も、全部、全部……だから、死んで?」
正気じゃない。
圧倒的な異常性に私が息を呑むより早く、後藤さんが動いた。彼は私の前に立ち塞がりながら、素早く両手で印のようなものを結ぶ。
「させない……! 【光条】……ッ!」
後藤さんの叫びとともに、彼の手のひらから眩い光の束が放たれた。
一直線に女性へと迫る光。しかし、その輝きはひどく細く、弱々しい。女性は大鎌の柄で、まるで虫でも払うかのようにその光をあっさりと弾き飛ばしてしまった。
「くそッ……! やっぱりこの世界じゃ、制限がキツすぎる……!」
「光……? 今の、なに……後藤、さん……?」
私の知る現実の法則を無視した光景に、思考が追いつかない。私が混乱する間にも、女性は狂気をはらんだ笑みを深めた。
「あはは! なぁにそれ、弱ぁい! 私の『集めた力』を見せてあげる……!」
女性が大鎌を振るうと、何もない空間から巨大な水の塊と、鋭く尖った岩の槍が無数に出現した。あり得ない。手品でも幻覚でもない、現実には絶対に存在しないはずの超常の力が、嵐のように私たちへと襲いかかる。
「優子さん!!」
後藤さんは逃げることも、反撃することもなく、ただ両腕を広げて私に覆いかぶさった。
ドゴォォッ! という鈍い衝撃音。
「ぐ、ぁぁッ……!」
水の塊が彼の肩を砕き、岩の槍がその足と脇腹を無残に貫く。
降り注ぐ理不尽な破壊の連撃を、彼はその身一つで全て受け止めていた。私には傷一つつけさせないという、凄絶なまでの執念。飛び散る血しぶきが、私の頬を赤く汚す。
「後藤さん! もうやめて、逃げて……!」
「だ、めだ……優子さんには……指一本、触れさせない……ッ!」
血反吐を吐きながらも、彼は倒れない。
その姿を見た女性の瞳から、ふっと感情が抜け落ちた。暗く沈んだ、ただ命を【刈り取る者】の虚ろな目。
「邪魔。――刈り取る」
女性が黒銀の大鎌を大きく振りかぶる。
防御すらままならない後藤さんの身体を、その凶刃が音もなく薙ぎ払った。
肉を斬る音はしなかった。けれど、後藤さんの身体の内側から、何か「決定的なもの」が断ち切られたような、おぞましい感覚が響いた。
「が、はッ……あ……」
後藤さんの身体が、糸の切れた人形のように崩れ落ち、血だまりの中へ沈んだ。
鎌を振り抜いた女性は、どさりと倒れた後藤さんを見下ろし――ふいに、手から大鎌を取り落とした。
ガラン、と乾いた音が夜道に響く。
虚ろだった女性の瞳に、急激に焦点が戻っていく。彼女は自分の血塗られた両手と、倒れる後藤さんを交互に見比べた。
「あ……え……? 私、また……?」
先程までの狂気が嘘のように、女性の顔が恐怖に歪む。
「違う……違うの! 私はただ、フィストが……ああぁぁぁぁっ!!」
彼女は自分が犯した事実に耐えきれないように頭を抱え、絶望の悲鳴を上げると、夜の闇の奥へと逃げるように走り去ってしまった。
残されたのは、静寂と、血の匂いだけ。
「後藤さん……嘘、なんで……」
私は血だまりの中へ這いずり、彼の身体を抱き起した。信じられないほど冷たくなっていくその身体が、現実の残酷さを突きつけてくる。
「あー……あ……。せっかく……この暮らし、気に入ってたのにな……」
後藤さんは血まみれの顔で、かすかに笑った。
「喋らないで! 救急車を、今呼びますから……!」
「いいんだ……俺は、元々……ここで終わるような、ただの……」
途切れ途切れの呼吸。何か隠していた任務のことなど、もうどうでもいいと言わんばかりに、彼はただ私だけを見つめていた。
「優子さん……君と過ごしたこの数ヶ月……本当に……楽しかった……」
「後藤さん……! 嫌、嫌です、後藤さん……ッ!」
血に濡れた彼の手が、私の頬にそっと触れる。
「……生きて……」
ふっと、その手から力が抜け、地面へと滑り落ちた。
彼の瞳から光が消え、静止する。
「後藤、さん……? あ、ああぁぁッ!!」
動かなくなった彼を見て、私の世界が完全に崩壊した。
極限の絶望。目の前で自分を庇って命を散らした彼の姿が、私の魂をハンマーで殴りつけたように激しく揺さぶる。
『――ピキリッ』
その瞬間、頭の奥で、何かの分厚い枷が砕け散るような高い音が響いた。
(……助けなきゃ)
脳裏に、強烈な光景がなだれ込んでくる。
銀色の髪。笑い合った記憶。冷たい牢獄。私がこの世界にいる理由。
そうだ、私は……あの子を助けるために、ここに……。
親友である、『ベルゼ』を……ッ!
「あぁぁぁああああああッ!!」
【魂の呪縛】に入った亀裂。
溢れ出す混沌とした記憶の奔流と、眼の前で冷たくなっていく後藤さんの体温。
慟哭する私の叫びだけが、残酷な夜の街に空しく響き渡っていた。




