シーン5:奪われた人生、ルナの食卓
鏡像世界に流れて着いてから、一週間が過ぎようしていた。
「ルナ、スープ温かいうちに召し上がりなさい。……薬草の仕分け、今日も手伝ってくれてありがとうね」
フェリシア族の母親が、ぎこちない笑みを浮かべてスープの皿を置く。向かいに座る父親も、愛おしさと、その裏に隠しきれない困惑の混ざった複雑な瞳で夏芽を見つめていた。
最初の数日は、高熱から命からがら生還した「愛娘」を二人はただただ抱きしめ、神に感謝していた。だが、日が経つにつれて、食卓を包む空気は目に見えて異質で重苦しいものへと変わっていった。
「ねえ、ルナ。昨日の夜ね、お父さんと話していたのだけど……」
母親が躊躇いがちに口を開く。その手は不安を誤魔化すようにエプロンの端を強く握りしめていた。
「あなた、怪我をした手首に塗る薬、迷わず『シロタエ草』を選んだでしょう? ……ルナは昔から、あの
独特な匂いが大嫌いで、見することすら嫌がっていたのに」
「それに」
父親が重い口を開く。その声は低く、かすかに震えていた。
「先日の庭仕事のときだ。倒れそうになった棚を支えたとき……お前は『土』と『水』のふたつの魔法を同時に使った。……ルナ、お前の魔導適性は『風』だけだったはずだ。高熱を出して倒れる前まで、お前は小さな風すら起こせずに泣いていたじゃないか」
「あ、それは……っ」
夏芽は息を飲み、スープを持つスプーンを握りしめた。 身体に残る「ルナ」の記憶が、両親の言う通りだと告げていた。ルナという少女の嗜好、嫌いな匂い、不器用だった魔法。だが、夏芽がこの肉体の主導権を握って以降、現世から持ち込んだ魂の素養と魔法適性が、無意識のうちに表面化してしまっていたのだ。
「それに……呼び方だよ」
父親が痛みに耐えるように眉間を寄せ、夏芽を鋭く見つめる。
「お前は倒れてから一度も、私のことを『パパ』と重なるように呼ばなくなった。私たちが抱きしめても、どこか恐縮したように身体を強張らせる。……お前は、誰なんだ? 私たちのルナは、どこへ行ったんだ……?」
詰問する声は責め立てるためではなく、狂おしいほどの悲しみと恐怖に満ちていた。 会話を交わすたび、一緒に生活を過ごすたび、「目の前にいるのは自分たちの愛した娘ではない」という疑念が両親の中で確信へと変わっていく。
その残酷な1週間を、夏芽もまた罪悪感に苛まれながら過ごしてきたのだ。
(この人たちは、ルナちゃんを心から愛していた……。なのに私……本当のルナちゃんの身体を、奪っちゃったんだ……)
身体に残るルナの記憶が、両親の差し出す温もりを「愛おしい」と告げている。だからこそ、二人の表情から「娘」への愛が削ぎ落され、恐怖と悲痛へと塗り替わっていく瞬間が、夏芽の胸を鋭く切り刻んだ。
原初世界からの魂の流入は、容赦なく肉体の主導権を上書きする。 元あった「ルナ」の魂が今どうなってしまったのか、どこへ消えてしまったのか、夏芽には分からない。だが、自分という異物が押し入ったことで、あの優しかった少女の命をどこかへ追いやってしまったことだけは、恐ろしいほど肌で理解できてしまう。
「ルナを……っ、ルナを返して……っ!」
ついに耐えきれなくなった母親が、両手で顔を覆い、絞り出すような悲鳴をあげて泣き崩れた。
「お願いだから、私たちのルナを返してちょうだい! その身体も、その記憶も、全部ルナのものなのよ! あなたがどんなに優しくても、ルナのフリをしてくれても……私たちは、本当のルナに会いたいのよぁぁぁっ!」
母親の悲痛な絶叫が、狭い薬草店の食卓に虚しく響き渡る。父親もまた、溢れ出る涙を拭うこともせず、ただ娘の皮を被った「見知らぬ少女」を狂おしそうに見つめていた。
「ごめんなさい……っ! ごめんなさい……っ!」
夏芽はたまらず、ポロポロと涙をこぼしながら深く頭を下げた。涙がテーブルの上に、そして母親の差し出しかけて止まった手の上にぽたぽたと落ちていく。
「私、ルナだけど……ルナじゃないの。ルナちゃんの記憶はある……でも、私じゃないの……! ごめんなさい……私には、探さなきゃいけない、大好きな……世界でたった一人の、お兄ちゃんがいるの……!」
誰かの人生を奪って生き延びてしまった絶望と申し訳なさ。 これ以上、この優しい両親に「娘の偽物」として偽りの希望を与え続けることなど、夏芽にはできなかった。
「ごめんなさい……っ!」
最後に今一度深く謝罪を口にすると、夏芽は弾かれたように薬草店を飛び出した。
「ルナ――ッ!」
背後で父親が叫ぶ声が聞こえたが、それが自分の本当の名前ではないことを、誰よりも夏芽自身が知っていた。
紫がかった見知らぬ空の下、冷たい風が頬を打つ。 「誰かの命」を押し退けて生き延びてしまったという、耐えがたい罪悪感。自分がここに存在することそのものが、あの温かい家族に対する酷い裏切りのように思えた。
(ごめんなさい、ルナちゃん……。ごめんなさい……!)
それでも、立ち止まることはできなかった。 こんな恐ろしい、狂った世界で、たった一人で自分を探しているかもしれない兄・冬夜の姿が脳裏をよぎる。
夏芽はフェリシア族のしなやかな猫耳をキュッと伏せ、溢れ出る涙を腕で力任せに拭うと、見知らぬ街の雑踏の中へ、未熟な第一歩を踏み出した。




