幕間8:この世界の悪意~前編~
恭は手元のコーヒーカップを置き、自らの手のひらを忌々しげに見つめた。
『ふむ。強力な手札が増えたではないか』
「手札が増えた?……冗談じゃない」
「一つの魂が持つ特性は、本来一貫しているはずだと思っていた。だが、今回俺は『時間の操作』と『空間の跳躍』……ベクトルが全く違う二つの能力を、たった一人の人間を飛ばしただけで同時に得たんだぞ。お前が以前、俺に教えてくれた【世界の理】ってやつに反する、あり得ない矛盾だ」
ベルゼの声からからかうような響きが消え、静かな警戒が混じる。
『確かに、一人の人間に複数の異能が宿るなど、1層世界の人間であれば魂の器が保たん。現世の人間であれば尚更じゃな』
「ああ。だから俺は、この『時間操作』の能力を使って、あいつがエデンへ落ちた直後のログを遡って観測してみたんだ。……これを見てくれ」
黒煙を吐き出す巨大な煙突、歯車と蒸気機関が複雑に絡み合う無機質な街並み。エデンに存在する国家の一つ、『鋼鉄機導国ガルガニア』の裏路地である。
映像の中では、現世の衣服を着た松岡が、冷たい鉄の地面に倒れ伏しているところだった。
やがて松岡はゆっくりと身を起こし、周囲の景色を見渡す。
中に入った松岡は、埃を被った作業台へと一直線に向かうと、台の裏に仕掛けられていた隠しレバーを迷いなく引いた。
「……ふざけやがって」
恭は無意識のうちに、テーブルの上のカップを強く握りしめていた。中のコーヒーが僅かに波立ち、縁からこぼれ落ちる。
「隠し棚の仕掛けも、自分専用の道具の隠し場所も、最初からすべて知っている。あそこは偶然見つけた廃屋じゃない。あいつ自身の工房(実家)だ」
「あいつは元々こっちの人間じゃない。過去に何らかの手段でエデンからこちら側へ渡ってきた、正真正銘の『異物』だ」
現世の人間をエデンへ送るためのシステムであるはずの電車が、よりにもよって『エデンの住人を故郷へ強制送還する』というイレギュラーを引き起こした。
だからこそ、因果の処理に過負荷がかかり、恭の身に理を外れた複数の異能が焼き付いてしまったのだろう。
「俺は……とんでもない怪物を、向こうの世界に『帰して』しまったのか?」
恭はギリッと奥歯を噛み鳴らした。冷徹な観測者であるはずの彼が、明確に自らの引き起こした事態の深刻さに動揺している。
嫌な汗を拭いもせず、恭は食い入るように観測窓の時間を進めた。




