シーン5:後藤光彦という男
冷たい夜風が吹き抜ける、都内の高層ビルの屋上。
眼下には、この世界の象徴とも言える無数の人工的な光の海が広がっている。その光景を、一人の男は感情の読めない静かな瞳で見下ろしていた。
『――相変わらず、その窮屈な場所でご苦労なことじゃな。……ブラフ』
ふと、男の脳内に直接、重厚でありながらもどこか親しげな女性の声が響いた。
天獄に囚われし神――ベルゼの声だ。
「誰かが見張っていないとね。それに、君をそこから引きずり出すための仕込みも進めている。【死神】の力は、確実に君へ繋がっているよ」
『うむ、少しずつじゃがな。……それより、サラはどうしておる? わしを探すためにあんな無茶をして……本当に馬鹿な娘じゃ』
「彼女は今、何も知らず穏やかに過ごしているよ。私が近くで守っているからね。フィストの奴らには、指一本触れさせないさ」
ブラフと呼ばれる男の瞳に、微かな熱が宿る。
自分自身の魂を割り、すべての記憶を封じてまでこの世界へ降りてきた愛おしい存在。彼女の平穏を守ることこそが、今の彼にとってのすべてだった。
『そうか……じゃが、最近そっちで妙な気配を感じるんじゃ。いつもの連中とは違う、異質な何かが動いておらんか?』
「ああ。こちらでも少し動きを感知している。10年前の歪みを嗅ぎ回っている者がいるようだね。あっち(2層世界)の気配だが……残念ながら目的も正体も、まだ掴めていないんだ」
『その得体の知れぬ輩が、うっかりサラに行き着くやもしれん。警戒するに越したことはないぞ』
ベルゼの忠告に、ブラフは屋上の手すりに置いた手にギリッと力を込めた。
「分かっている。相手が何者であれ、サラの周囲を嗅ぎ回るなら……たとえ今の制限された状態であっても、私が確実に排除する」
『熱くならんでくれよ。お主が表立って動けば、監視者としての立場が危うくなるじゃろう。わしを助けるのも、サラを守るのも、すべてはお主の冷静さにかかっておるんじゃからな』
「……肝に銘じておこう。彼女が思い出す前に、すべて終わらせる」
通信が途絶え、屋上に再び静寂が戻る。
ブラフは冷たい夜空を見上げ、盤面を荒らそうとする見えざるイレギュラーへ向け、静かな殺意を研ぎ澄ませていた。
◆
――数日後の、よく晴れた昼下がり。
恭や優子が暮らすマンションの近くの商店街で、後藤光彦はホクホク顔でコンビニの袋をぶら下げていた。
「いやぁ〜、こっちのジャンクフードは最高だね! あっちの連中にも食わせてやりたいよ、マジで」
袋の中に入っているのは、新作のポテトチップスと、甘ったるい缶コーヒー。
本来ならば『10年前の事件による次元の歪み』を調査するという大義名分のもと、2層世界からこの世界へ降り立ってきたはずの彼。だが、その頭の中に生真面目な調査任務など微塵もなかった。
(調査なんて適当にでっち上げとけばいいっしょ。保守派だ過激派だって、あっちの世界は息息苦しくてやってらんないし。やっぱこの世界は娯楽があって最高だね〜)
軽快な足取りでマンションへ戻ってきた後藤。
だが、エントランスに入ろうとした瞬間、彼の足がピタリと止まった。
郵便受けの前に、少し影のある横顔をした美しい女性――高橋優子の姿があったからだ。
「あ……優子さん……!」
後藤の胸の奥で、ドクンという人間らしい大きな音が鳴った。
先日、このマンションに引っ越してきた彼女を見た瞬間から、後藤の目は完全に釘付けになっていた。
(ああ、今日もなんて綺麗なんだ……。やっぱりどこか遠くを見てるっていうか、悲しそうな目をしている。俺が、あの瞳を笑顔に変えてあげたい……!)
2層世界では恐れられる異端の存在である彼が、今はただの恋する青年に成り下がっている。
後藤はコホンと一つ咳払いをして表情を作り、コンビニ袋を後ろ手に隠しながら、極めて自然な爽やかさを装って優子へ近づいた。
「あ、優子さん! 奇遇っすね。お出かけ帰りですか?」
「あ……後藤さん。こんにちは。ええ、少し買い出しに」
優子が軽く会釈をして微笑む。その儚げな笑顔に、後藤は心の中でガッツポーズをキメた。
「あの、もしよかったら荷物持ちますよ! 結構重そうだし」
「いえ、そんな、悪いですよ……」
「全然! 俺、力だけは無駄に有り余ってるんで! それに、隣人同士、助け合いってことで!」
半ば強引に、けれど嫌味のない笑顔で優子の買い物袋を受け取る後藤。
その瞬間、マンションの陰に潜んでいた野良猫が、後藤の奥底から無意識に漏れ出た異質の気配を察知し、毛を逆立てて「フシャーッ!」と威嚇して逃げていった。
「あら、猫ちゃん……どうしたのかしら」
「あはは、俺、動物に嫌われやすい体質なんすかねー?」
誤魔化すように後頭部を掻く。
(やれやれ。あとでちゅ〜るでも買って媚び売っとこ)
荷物を持ち、優子と並んで階段を上っていった。




