シーン3:没落貴族の独白
インクが紙を擦る微かな音だけが、冷え切った夜の空気に溶けていく。
松岡雅紀の思考は、目の前の「実験体」から、彼自身の魂に刻まれた過去の因縁――原典世界に滞在していた理由へと静かに移行していた。
松岡のルーツは、地球ではなくこの多層世界の『2層』に位置する上位領域にある。
およそ千年前、世界が原典とそれ以外に分かたれて以来、長きにわたり高貴なる血筋として名を馳せた2層世界の貴族。それが彼の一族だった。
しかし、栄華は永くは続かなかった。家は没落し、彼が物心つく頃には、かつての威光など見る影もなく失われていた。
『――我ら一族を、再び2層の座へ』
幼い頃から両親に呪いのように刷り込まれた、一族の悲願。
その達成のため、10代の松岡は両親が命がけで行使した『秘術』によって、1層の壁を越え、オリジンへと単身送り込まれた。
使命は一つ。オリジンに存在する自身の同位体(魂の片割れ)を見つけ出し、千年もの間、何人たりとも不可侵であった世界の理を破壊して完全な統合を果たすこと。術の代償として両親は生死不明となったが、松岡は己の使命を果たすべく、オリジンで自身と同一の魂を持つ同位体を探し当てた。
しかし、そこで彼は『絶対の法則』という巨大な壁に直面する。
(……世界が分かたれてから一千年。オリジンの魂が常に優位に立つという、理不尽極まりない神の定めたルール。あれのせいで、私は長きにわたり屈辱に塗れることになった)
本来であればオリジンの記憶が優先されるところを、エデン側の魂の記憶が色濃く発現した『異端』として生を受けた松岡であっても、千年の歴史を持つ強固な法則を単独で打ち破ることはできなかった。
魂の完全な統合を果たせば『神としての新たな肉体』を得て、2層への帰還が叶うはずだった。だが、いざ接触すれば、絶対の理によって自ら(エデン側の魂)が吸収される結末が待っていると悟ってしまったのだ。
結局、彼は魂の主導権を掌握することを諦め、「高校教師」という凡庸で退屈な仮面を被り、息を潜めて生きるしかなかった。
その停滞の十数年間。彼を辛うじて支えていたのは、皮肉にも貴族時代から魂に深く刻み込まれていた絶対的な支配欲という【魂の呪縛】だった。
他者の命を奪い、物言わぬ『美しい死体』として自らの支配下に置く。連続殺人鬼としての彼の異常な狂行は、千年の理に縛られ、使命を果たせない無力感と支配欲が暴発した結果の、歪んだ代償行為に過ぎなかったのだ。
(あの日……私は教え子に背中を押され、図らずも生身のままこの故郷へ弾き出された)
ノートの余白に、幾何学的な術式の図を無意識に描き込みながら、松岡の瞳が暗く沈む。
エデンへ帰還した今、彼が為すべきことは「再びオリジンへ渡り、今度こそ理を破壊して統合を果たすこと」だ。
だが、かつて両親が用いた正攻法は、もう使えない。
没落した実家はとうの昔に他者の手に渡り、解体されている。何より、あの時両親が命を散らして行使した秘術の資料はすべて、危険な『禁書』としてこの世界の管理者たちに回収され、歴史の闇に葬り去られてしまった。
(失われた秘術を追い求めるのは愚の骨頂だ。ならば、別の手段で次元の壁に穴を穿ち、オリジンへの道標をこじ開けるしかない)
松岡の視線が、再び洞窟の奥で眠る宮本母子へと向けられる。
オリジンから肉体ごと転移してきた彼女たちと、この世界に眠る彼女たちの同位体。それらが強制的に接触・統合を起こしたとき生じるであろう、未曾有の魔力爆発と千年の法則の崩壊。
(あの母子を利用し、理の綻びという名の『扉』を創り出す。その扉を抜け、私は再びオリジンへと至り……私を縛り付けた神々を、その法則ごと蹂躙する)
神という絶対者たちの死顔を己のコレクションに加え、一族の悲願である2層世界への返り咲きを果たす。
それこそが、松岡雅紀という男の真の目的だった。
「……待っていろ、忌まわしき神々よ」
松岡の口から、氷のように冷たく、ひどく理知的な呟きがこぼれ落ちる。
彼はペンを置き、静かにノートを閉じた。
一千年の時を超えた貴族の呪縛と、狂気に満ちた知性が生み出す最悪の陰謀が、異世界エデンの暗闇の中で静かに、だが確実に根を張り始めていた。




