シーン2:実験の萌芽
それから1ヶ月程の月日が流れた。
かつては絶望と警戒心に満ちていた宮本母子と松岡の共同生活は、外見上は奇妙なほど平穏な「家族の営み」として定着していた。しかし、その実態は世界の理を歪める為の兵士育成実験場だった。
風の抜ける静かな洞窟の広場。
「――そこ。重心が浮いていますよ、お母さん」
「っ……!」
松岡の静かな声に導かれ、宮本玲奈は鋭く足を踏み込んだ。
手にした包丁が、一瞬の音もなく虚空を切り裂く。狙った的は、松岡が樹皮で器用にこしらえた「急所を模した木の人形」の頸動脈だった。
かつてはスーパーのパート主婦としてただ日常を生きるだけの女性だった玲奈の手つきには、もはや迷いも怯えもない。
愛する娘を守るため、そして唯一の救世主である「先生」の期待に応えるため、彼女の肉体と精神は冷徹な処刑人へと変貌を遂げていた。
何度か森の魔獣や不意の野盗をその手で屠ってきた玲奈の衣服には、何度洗っても落ちない薄汚れた血のシミが染みついている。だが、彼女の瞳にあるのは後悔ではなく、娘を脅かすすべてを排除するという暗い狂気だけだった。
少し離れた場所で、その光景を無機質な瞳で見つめる少女がいた。
小学三年生の宮本愛奈。
彼女の足元には、数冊の分厚いスケッチブックが散らばっている。そのページをめくれば、そこに描かれているのはもはや絵などではない。エデンの魔力を極限まで圧縮し、異形の肉体と殺傷本能を持たせた『お友達』たちの呪わしい記録だった。
「愛奈ちゃん。今日も素晴らしい出来栄えですね」
玲奈への指導を終えた松岡が、愛奈の肩に優しく手を置いた。
愛奈は、あの日見せた無邪気な笑顔のまま、クレヨンで塗りたくった新しいページを松岡に差し出す。そこに描かれていたのは、幾重もの装甲を纏い、影から影へと音もなく跳躍する異形の肉食獣だった。
「せんせい……これ、もっと、はやいよ。すぐ、やっつけられる」
「ええ、よくできました。君の想像力は、この世界を塗り替えるほどに美しい」
松岡に褒められた愛奈が満足そうに目を細める。
愛奈が無邪気に「お絵かき遊び」を繰り返すたび、彼女の体内で膨大な魔術回路が拡張され、その具現化スキルはエデンの生態系を脅かすほどの脅威として急成長を遂げていた。
母親が牙を研ぎ、娘が魔を孕む。
松岡の思惑通り、母子は彼が望む完璧な『殺戮の道具』として形作られつつあった。
◆
夜帳が下り、洞窟の外に冷たい月光が投げ出される頃。
母子が疲労から深い眠りに落ちたのを確認し、松岡は焚き火の微かな明かりだけを頼りに、一人ノートにペンを走らせていた。
周囲を包む静寂の中で、彼の瞳に宿っていた「優しい教師」の仮面がすっと剥がれ落ち、探求者の冷酷な光が浮かび上がる。
(……順調だな。愛奈の魔力適性は予想を遥かに超えている。玲奈の殺傷技術も、駒としては十分に機能するレベルだ)
ノートの端に、愛奈が描いた怪物のスケッチが雑に描き写されている。
松岡はそれをペン先で軽く叩きながら、静かに思考を巡らせた。
彼がこの母子を囲い込み、過激な戦闘兵器として育成しているのは、単に「神々を虐殺する手駒」が欲しいからだけではない。
(……興味深いのは、この世界における「魂の理」だ)
我々のように、肉体ごと世界を跨いで転移してくると、この世界には『元の世界の魂』と『この世界に元からある魂』の二つが同時に存在する形になる。俺たちはそれを『同位体』と呼んでいるが……。
(もし、この宮本親子の魂の片割れ――エデン側の同位体を探し出し、意図的に接触させて『合わさった』時、一体何が起きるのか)
オリジン側の強固な魂が、もう一方を強制的に上書きし、統合されるその瞬間。どのような因果の歪みが生まれ、どれほどの魔力が爆発するのか。
ただの迷い人ではない。オリジンから肉体ごと放り出されたこの母子という本来この世界には存在しないはずの『特異点』を利用すれば、エデンの理そのものを内部から突き崩す「決定的な実験データ」が手に入るはずだ。
(……この母子の同位体を、エデンのどこかで探し出す必要があるな。理の崩壊を確かめるための、最初の生体実験として)
静まり返った洞窟の奥で、愛奈の寝息と、玲奈がうなされる微かな声が響く。
その姿を慈しむような目で一瞥し、松岡はノートに落としていたペンを止めることなく、真新しいページへと手を滑らせた。
宮本親子の同位体探しと、魂の統合実験。それはあくまで、彼が為すべき大いなる目的のための前段階に過ぎない。
インクが紙を擦る微かな音だけが、冷え切った夜の空気に溶けていく。彼の思考は、目の前の「実験体」から、彼自身がかつて原典世界にいた理由――その過去の因縁へと静かに移行していった。




