シーン1:善意の仮面と企みと
薄暗い洞窟の中に、パチパチと爆ぜる焚き火の音が響いていた。
「……来ないで」
炎を挟んだ向かい側。宮本玲奈は血に汚れた衣服のまま、愛娘の愛奈を背中に庇うようにして壁際にうずくまっていた。その右手には、昨夜の森で巨獣を両断した、赤黒い陽炎を纏う包丁がぎゅっと握りしめられている。
極限の恐怖と絶望の中で、一度はこの青年の胸で泣き崩れた玲奈だったが、夜が明けていくらかの冷静さを取り戻したことで、母親としての防衛本能で青年を警戒していた。見知らぬ異世界の森、得体の知れない化け物、そして目の前にいる見知らぬ男。
自らに向かって刃先を向ける玲奈に対し、松岡雅紀はゆっくりと両手を顔の高さまで上げ、敵意がないことを示すように静かに微笑んだ。
「落ち着いてください。あなたたちを害するつもりはありませんよ。……私も、あなたたちと同じ被害者なのですから」
「被害者……?」
「ええ。あなた方より少し前……三ヶ月ほど前ですかね。東京の駅のホームで事故に巻き込まれ、気づけばこの不可思議な世界に放り出されていたのです」
松岡の口から自然にこぼれ出た『東京』『駅のホーム』という現世の単語に、玲奈の瞳が僅かに揺れる。
「元の世界へ戻る術を探し、一人でこの過酷な世界を旅していました。……私はあっちの世界で高校の教師をしていてね。教え子たちを残したまま、こんなところで命を落とすわけにはいかない。そう思って、必死に生き延びてきたのです」
自嘲気味に息を吐き、痛ましげに目を伏せる松岡。 彼が語る後悔も、駅のホームでの事故も、教師として生徒を見ていたことも、すべてが彼自身の『真実の実体験』だ。だからこそ、その言葉には一切の嘘の響きがなく、玲奈の胸に重く、真っ直ぐに突き刺さる。
「ですが、帰る方法は見つからず、日々はただ孤独で……。だからこそ、同じ日本から来たあなた方に出会えて、実は私も深く安堵しているのですよ」
知的で物腰の柔らかい大人の男がふと見せた、同じ「現世からの迷い人」としての弱さと、三ヶ月間一人で戦い抜いてきたという悲哀。それが、玲奈の張り詰めていた警戒心の糸を、内側からそっと解きほぐし始める。
「先生……だったんですか。一人で、ずっと……」
「ええ。ですから、怯える母子を前にして見ぬふりなどできません。……それに、愛奈ちゃんは実に素晴らしい才能を秘めている」
松岡の視線が、玲奈の背中に隠れる愛奈へと向けられた。 小学三年生の愛奈は、大人の会話など耳に入っていないかのように、無心でスケッチブックに黒いクレヨンを擦りつけていた。描かれているのは、昨夜の森で巨獣を握り潰した『顔の潰れた黒い化け物』だ。
常人であれば気味悪がって遠ざけるようなその異様な絵を、松岡は決して否定しなかった。それどころか、焚き火越しに身を乗り出し、心底感心したように目を細めた。
「愛奈ちゃん。君の心の中には、実に頼もしい『お友達』が住んでいるようだね」
「……」
「ただ、この森には他にも多くの脅威が存在しています。お母さんをしっかりと守るためには、もう少し……速く、そして鋭い『お友達』が必要かもしれませんね」
「……もっと、はやい……?」
現世の理不尽な暴力によって感情が抜け落ちていた愛奈の瞳に、かすかな焦点が結ばれた。
「そうですね。例えば……風の如く疾駆する長い脚と、あらゆるものを断ち切る鋭い爪を持ったお友達。愛奈ちゃんなら、彼らを描くことができますか?」
優しい『先生』の提案。 その言葉を聞いた瞬間、愛奈の無機質だった表情に、微かな熱が宿った。
自分の世界(絵)を否定せず、知的な興味を持って踏み込んでくれた大人。
愛奈は赤いクレヨンと黒いクレヨンを両手に握り、新しいページにガリガリと凄まじい筆圧で『新しいお友達』を描き殴り始めた。
紙面から、ドロリとした濃密な魔力が溢れだし、大気を不気味に震わせる。
(……実に素晴らしい)
松岡は、歓喜に震えそうになる口元をスマートに抑え込んだ。
この世界の魔術回路は、魔力を練り、使えば使うほどに拡張され、強化されていく。
愛奈がこうして無邪気な『お絵かき遊び』を繰り返すだけで、彼女の規格外の潜在能力は最適化され、際限なく凶悪な魔術兵器へと育っていくのだ。
「……できた」
やがて、スケッチブックから顔を上げた愛奈が、自分が描き上げた悍ましい殺戮怪物の絵を松岡へ向けた。その口元には、現世で心を壊して以来、一度も浮かべることのなかった『無邪気な笑顔』が咲いていた。
「見事ですね……。よく描けました、愛奈ちゃん。素晴らしい才能だ」
「えへへ……。せんせい、あのね、つぎはね……」
愛奈が松岡の袖を小さな手で掴み、嬉しそうに次のページを開く。 その光景を見た玲奈は、包丁を持つ手を震わせ、ポロポロと大粒の涙をこぼした。
現世で、あの男の暴力と理不尽に押し潰され、感情を失ってしまった娘。自分がどれだけ抱きしめても戻らなかった愛奈の笑顔を、三ヶ月間この世界を生き抜いてきたというこの知的な青年はいとも簡単に引き出し、救ってくれたのだ。
「……疑って……ごめんなさい……っ。私たちを……どうか、助けてください……っ!」
玲奈は包丁を床に置き、泥に塗れた地面に額を擦りつけて泣き崩れた。 娘の心を救ってくれた恩人。その母性ゆえの盲信が、松岡に対する最後の警戒心を完全に打ち砕いた瞬間だった。
「顔を上げてください。私たちは同じ日本から流れ着いた、いわば同士ではありませんか」
松岡は優しく玲奈の肩を抱き起こし、柔和な笑みを浮かべたまま、そっと耳元で囁いた。
「ただ……愛奈ちゃんの力は確かに強力ですが、彼女はまだ幼い。行使の際にはどうしても一瞬の隙が生じてしまいます。……彼女を守る『盾』となれるのは、お母さん、あなたしかいないのですよ」
「私……。でも、私にはこんな包丁しか……」
「ええ、十分です。私がこの三ヶ月で培った、刃物の正しい『使い方』をあなたに授けましょう」
松岡は玲奈の手を包み込むように握り、その赤黒いオーラを放つ包丁の柄をしっかりと握らせた。
「いいですか。魔獣であれ人間であれ、生き物である以上は必ず構造上の『急所』が存在します。頸動脈、下顎の裏、膝裏の腱、そして脊髄……」
松岡が淡々と説いたのは、身を守るための護身術などではない。 いかに少ない力で、いかに効率よく、確実に相手の命を奪うか。エデンの理を知り尽くした彼だからこそ教えられる、純度百パーセントの『サバイバル術』だった。
「愛奈ちゃんに迫る脅威に対しては、威嚇など無用です。……相手に触れられるより先に、確実にお命をいただく。それがあなたの役割です。……できますね?」
「……はい。愛奈を守るためなら……私、なんだってします」
玲奈の瞳から恐怖が消え、娘を守るための暗く冷たい覚悟が宿る。
洞窟の奥深く。 一人は、スケッチブックに向かって無邪気な笑顔で凶悪な怪物を生み出し続ける幼い娘。 一人は、焚き火の影に向かって、虚無の瞳で包丁の刺突を淡々と繰り返す母親。
その歪極まる光景を見下ろしながら、松岡雅紀は闇の中で一人、誰にも見えない暗黒の微笑を深く、深く刻み込んだ。
(……実に他愛のない。愛する者のためであれば、人間はかくも容易く狂気に身を委ねられる……)
娘は無限の魔力を放つ砲台へ。母はそれに群がる敵を刈り取る完璧な暗殺者へ。 松岡の目的である『神々の虐殺』。そのための最悪で最高の『生きた駒』の育成が確実に進みはじめていた。




