幕間6:運命に翻弄される男
雨が、窓ガラスを幾筋も滑り落ちていく。
如月美憂が姿を消してから、ちょうど一ヶ月の月日が流れていた。
薄暗い部屋の中、神崎恭はスマートフォンの画面をただ無表情に見つめていた。トークアプリに並ぶ無数のメッセージに、「既読」の文字がつくことは二度とない。
『どこにいる』
『無事なら連絡をくれ』
『警察なんて関係ない、俺が何とかするから』
どれだけ言葉を連ねても、返信はない。彼女自身が呪いに恭を巻き込まないために端末を破壊し、完全に繋がりを絶ってしまったことを、彼はすでに直感で理解していた。
「……待っているだけで帰ってくるような状況じゃないことくらい、分かってるさ」
恭はスマートフォンを机に放り投げた。
この一ヶ月、彼はただ指をくわえて絶望していたわけではない。だが、恭自身に裏社会の情報を暴き出すようなハッカーとしての技術はない。だからこそ、彼は『意外な協力者』を頼ったのだ。
『――お前が頼んできた、童里夢ツーリストの元社員、足立理沙の件だがな』
数日前、職場の休憩室でコーヒーを啜りながら、高橋先輩は周囲を警戒しつつ分厚いデータファイルの入ったUSBを恭に渡してきた。普段はただの面倒見のいい先輩駅員にしか見えないこの男が、なぜこれほど情報収集やハッキングにおいてプロ顔負けの技術を持っているのか、恭はあえて深くは聞かなかった。
『足立本人は、会社の社長との不倫がバレてすでに会社を飛んでる。だが、彼女が使っていた社用端末のログから、失踪直前の美憂ちゃんとの最後のやり取りが復元できたよ。……【あのバス事故の真犯人は、他にいる】。それが美憂ちゃんの遺した最後の言葉だ』
「……高橋先輩。あなたは、本当に何者なんですか?」
『ただの趣味だよ。気にするな。それより……その真犯人らしき男の裏アカウントと隠しクラウドも、ついでに割っておいたぞ』
高橋が「趣味」で引きずり出したその隠しデータ。そこに記されていたのは、人気教師・松岡雅紀の異常な性癖と、藤原姉妹の死体を美しく保存しようとする狂気の計画。
そして、自分のアリバイ作りのために利用している女子高生・伊藤南への、吐き気がするほどの侮蔑だった。
【伊藤南。都合よく証言を変えてくれた、利用価値のある愚鈍な女。目障りなストーカーのゴミだが、アリバイが証明されるまでは生かしておいてやる】
美憂に連続殺人の濡れ衣を着せ、人生を奪った。
恭の瞳に、絶対零度の殺意が宿った。
松岡を法で裁く気など毛頭ない。
恭はそこから二週間の時間をかけ、松岡を狂信的に愛する伊藤南に接触し、高橋が暴いたその『隠しデータ』を意図的に、少しずつリークしていったのだ。
盲目的な恋心は、裏切られ、見下されていたと知った瞬間に最も凶悪な殺意へと反転する。恭は、彼女の狂気を利用して松岡を排除する罠を張り巡らせた。
◆
そして2週間後のある日、冷たい雨の降る駅のホーム。
人混みの影に溶け込んだ恭は、感情のない視線で『結果』を見届けていた。
黄色い線の内側に立つ松岡の背後に、フラフラとした足取りで近づいていく伊藤南。彼女の瞳には、かつての憧れや愛情は微塵もなく、ただ真っ黒な殺意だけが渦巻いている。
南が両手を伸ばし、松岡の背中を線路へと力任せに突き飛ばした瞬間。
恭の耳に、松岡の含み笑いと『――なるほど。あなたでしたか』という納得の言葉が微かに響いた。
直後、轟音を立てて進入してきた電車が、男の身体を粉砕する。 悲鳴と怒号が響き渡るホームの喧騒の中、恭は傘もささずに静かに踵を返した。 血痕ひとつ残さず、松岡の存在はこの世界から掻き消された。
恭の【死神】の権能によって、あの男は異世界へと強制的に弾き出されたのだ。
『――ククッ。また一人、送りおったな、恭よ。しかし、乗っていない電車にも幻影電車を発動出来るようになるとはのぅ。器用な奴よ。』
雨音に紛れるように、脳内に直接重低音が響いた。天獄に囚われし神、ベルゼの声だ。
「……見てたのか、ベルゼ。美憂を殺人鬼に仕立て上げた『引き金』を片付けたよ」
『見事な手際じゃが……分かっておろう? あやつを排除したところで、事態の根本的な解決にはならんぞ』
「ああ、分かってる。本当の元凶は……美憂を操り、あんたを封印した宿敵、『フィスト』だ」
雨の中を歩きながら、恭は小さく息を吐いた。 松岡はただの狂った人間に過ぎない。
だが、美憂の背後には神の力が絡み、彼女自身が『刈り取る者』として人の魂を奪う存在に堕ちてしまっている。その絶望を前にしても、恭の瞳は少しの揺らぎも見せていなかった。
『フィストの力に触れた美憂を止めるのは、容易ではないぞ』
「……上等だ。俺が必ず、あいつを引きずり下ろして美憂を取り戻す」
美憂を陥れた男は排除した。だが、胸の内の虚無感が晴れることはない。
雨の夜の闇へ溶け込んでいく恭の背中には、ただ愛する者を取り戻すためならば、神を敵に回すことも、悪に染まることも厭わないという、昏く冷たい覚悟が纏わりついていた。
◆
数日後の、深夜。
線路の中央に立ち尽くす二つの人影。疲れ切った女と、スケッチブックを抱えた幼い少女。
現世の絶望に押し潰され、自ら命を絶とうとする母子。 猛スピードで接近する電車のヘッドライトが二人を白く照らし出し、凄惨な衝突音が響き渡る――はずだった。
だが、電車が通過した後の線路には、血の一滴すら残されてはいなかった。
少し離れた暗がりの中、恭は作業端末の画面を見つめていた。 【位相転移反応:確定】のログを確認し、ふう、と小さく息を吐く。
『……またやりおったな、恭。しかも今度は、お主が視認すらしていない遠くの電車じゃぞ』
呆れと戦慄の入り交じったベルゼの声が脳内に響く。
「ああ。俺が乗ってる電車ばかりで神隠しが起きてたら、さすがに会社や警察に怪しまれるからな」
『だからと言って、遠隔で任意の電車を【幻影電車】に変えるなど……神の権能を勝手気ままにカスタマイズしおって』
ベルゼの言う通りだった。先月、異世界へ送り込んだ者たちからの能力のフィードバックにより、恭の知覚は拡張されていた。
自分の目で捉えずとも一定範囲の空間を立体的に把握し、遠くの電車すらも己の意志ひとつでミラージュ・トレインへと変質させられるようになっていたのだ。
『本来、人間が対象を別世界へ転移させるなど、魂と肉体に崩壊レベルの負荷がかかるはずじゃ。……それなのに、お主は平然とやってのける。まったく、底知れぬ能力じゃな』
「褒め言葉として受け取っておくよ。……まあ、あの子たちが向こうでどうなるかは分からないがな」
恭は端末を閉じ、踏切の向こう側を見つめた。 現世の泥の中で消えるはずだった母子を逃がしたことが、果たして本当の救済になるのか。
「今度は……救われてほしいな」
空見上げ、静かな祈りを呟き、恭は夜の闇の中へと歩き出した。
◆
翌日、非番だった恭が自室のマンションを出ようとした時だった。
ふと脳裏に蘇ったのは、ひと月ほど前、職場の休憩室で高橋先輩と交わした会話だ。
『――お前の住んでいるマンションな。俺の妹が引っ越してくるんだよ。塞ぎ込みがちで一人暮らしを始めるからさ、もし見かけたら気にかけてやってくれ』
当時は美憂のことで頭がいっぱいで聞き流していたその言葉を、恭は廊下で思い出すことになった。
少し離れた部屋の前。
まさにその妹――高橋優子が、隣の部屋の住人と挨拶を交わしている光景が目に留まった。 隣人の青年は、後藤光彦と名乗っていた。
(……あの女性が、高橋先輩の妹さんか)
恭が足を止めた瞬間、脳内でベルゼの声がピリッと緊張感を帯びた。
『……おい、恭。いま視界の端に映った、あの隣人の男……後藤光彦とやらのほうじゃ』
「後藤がどうかしたのか?」
『あれは……ただの人間ではない。おそらく、冥界からこの世界へと紛れ込んだ、得体の知れない何かじゃな。警戒しろよ?』
ベルゼが警戒しているのは、優子ではなく、その隣人である光彦のほうだった。
現実世界という安全圏は、いつの間にかさまざまな異物の交差点と化していた。
「また、神様関連か。面倒なことになってきたな……」
恭は小さく呟き、重苦しい予感を振り払うように踵を返した。
◆
数日後の夕方。
早番だった神崎恭は、自室と同じ階の廊下で、見知った顔とすれ違った。
同じ階の住人で、何度か挨拶を交わしたことのある青年――後藤光彦だ。彼は少し離れた部屋の前、高橋先輩の妹である優子の部屋の隣に出入りしているところだった。
(……あいつ、最近やけにあの部屋のあたりをうろついてるな)
恭が内心で首をかしげていると、光彦のほうが人懐っこそうな笑みを浮かべて近づいてきた。
「あ、神崎さん、お疲れ様です」
「おう、後藤か。お前、最近この階でよく見かけるな」
「いやあ、実はですね……!」
光彦は少し照れくさそうに頬を掻くと、なぜかモジモジと身体を揺らし始めた。
「俺、隣の部屋の高橋さん――優子さんに、一目惚れしちゃいまして……!」
「……は?」
予想の斜め上を行く告白に、恭は思わず間の抜けた声を漏らした。
「いや、マジで可愛いっすよ、あの人! ちょっと影があって、守ってあげたくなるというか……! なんとか仲良くなりたいんですけど、神崎さん、彼女の兄貴と職場が一緒なんですよね? 何か好みのタイプとか知らないっすか!?」
真剣な眼差しで詰め寄ってくる光彦に、恭は盛大に脱力した。
(……こいつ、本当にベルゼが警戒してる冥界の関係者なのか……?)
『ふん、馬鹿め。惚れ薬でも盛られたかのような純情ぶりだが……気をつけるんじゃな、恭。奴は冥界からこの世界へ流れ着いた『特異点』の一人じゃ。その魂の在り方は、世界の理を歪めかねん』
脳内で、ベルゼが鼻白むように吐き捨てる。かつて空挺部隊を率いていた彼女にとっても、かつて裏切ったフィストの影は気にかかるものの、この光彦が持つ冥界の波動はまた別の不気味さを孕んでいた。
「……あいにく、高橋先輩の妹の好みなんて知らねぇよ。だいたい、そんなにベタ惚れなら自分で直接アプローチしろよ」
「うう、それがですね、優子さん、なんだかいつも遠くを見てるというか……時々、すごく切ない目をなさるんで、迂闊に踏み込んで嫌われたら立ち直れなくて……」
光彦が頭を抱えてうなだれたその時、ふと、彼の纏う気配の奥底で、冷徹で深遠な冥界の波動が微かに揺らいだ。
恭がハッとして目を細めると、光彦は気を取り直したように、ふっと穏やかな笑みを浮かべた。
「まあ、俺なりにできる範囲で優子さんを支えてあげたいっすね。……あ、そうそう、神崎さん」
「ん?」
「余計なお世話かもしれないっすけど……最近、あんたの周りもきな臭い風が吹いてるみたいだから、気をつけてくださいよ」
「……どういう意味だ?」
「【2層世界の連中】は、だいたい人の人生や命を踏みにじるのが大好きなんすよ。……そういえば、10年前のあの大規模な事件とか、聞いたことありません? この世界も物騒になったもんですね~」
光彦はそれ以上深くは語らず、意味深な笑みを浮かべて自分の部屋へと引っ込んでいった。
閉まったドアの音を見つめながら、恭は腕を組んで深く息を吐いた。
「おい、ベルゼ。今の……『10年前の事件』って何だか知ってるか?」
恭が脳内で問いかけると、ベルゼの声はわずかに鋭さを帯びた。
『……ほう、お前がそれを気にするか。かつて我が空挺部隊が動いていた頃すら、その裏でうごめく者たちがいたからのぅ……そうか。【2層世界の連中】が絡んでいたとなれば……』
『奴の言葉をすべて鵜呑みにするわけではないが、恭、お前の周りはいよいよただならぬ渦の中心に巻き込まれておるようじゃな』
冥界の変わり者という奇妙なご近所さんを迎え、美憂を追う恭の頭には不穏な予感だけが残った。




