シーン15:蛇の覚醒
「違う……! 人化が勝手に……! ねぇ、助けて……っ!」
ネルガルの暗い森の中、伊藤南は泥だらけの地面でのたうち回っていた。
自分の腰から下が、巨大で醜悪な蛇の胴体へと変貌している。人間の姿を保つための【人化の魔法】が剥ぎ取られ、本来のラミアの姿を晒してしまったメーリアの肉体。しかし、その中に宿る南の魂は、この異常な事態を処理しきれず完全に悲鳴を上げていた。
「メーリア……! おい、しっかりしろ!」
心配して駆け寄ろうとする仲間たちの声が、水底から響くように遠ざかっていく。
背後の暗がりから討ち出てきた魔獣の獰猛な唸り声すら、今の南の耳には届いていなかった。
パニックと極限の恐怖から逃避するように、南の意識は急速に冷たく暗い深淵――現世での凄惨な記憶へと沈み込んでいく。
◆
――あのバスツアーの事故から生還してからの数週間。南は、歪んだ優越感と幸福の中にいた。
『先生が暴れたんじゃない。……バスガイドの女が狂って、ナイフを振り回したんです』
警察の聴取に対し、南は涙を流しながらそう嘘の証言をした。
愛する松岡雅紀を守るためなら、自分の人生がどうなろうと構わなかった。あの地獄のような車内で松岡が狂ったようにナイフを振るっていた事実を胸の奥に閉じ込め、彼を完璧な被害者としてかばい抜いたのだ。
(先生の本当の姿を知っているのは、世界で私だけ。先生を守ってあげたのも私だけ)
私たちは秘密を共有した共犯者になれた。いつか先生は、私だけのものになる。
そんな盲目的な恋心に酔いしれていた南の夢は、ある雨の夜、唐突に粉砕された。
『あんたが自分の人生を台無しにしてまで庇ってる男の、本当の頭の中だ。……よく読んでみな』
接触してきた素性も知れない『黒いコートの男』。
彼が突きつけてきた松岡の隠しデータに記されていたのは、藤原姉妹の死体を美しく保存しようとする異常な愛執と、南に対する吐き気がするほどの侮蔑だった。
【伊藤南。都合よく証言を変えてくれた、利用価値のある愚鈍な女。目障りなストーカーのゴミだが、アリバイが証明されるまでは生かしておいてやる】
私がすべてを賭けて守り抜いた愛は、ただの「ゴミの身の程知らずな勘違い」だった。
私は、あの男にとって都合のいい手駒でしかなかったのだ。
絶望と、激しい憎悪が南の精神を完全に破壊した。
気づけば彼女は、雨の駅のホームで松岡の背中を、接近する電車の前へと力任せに突き飛ばしていた。
『――なるほど。あなたでしたか』
突き落とされた瞬間、松岡がこちらを見上げて浮かべた、あのすべてを嘲笑うかのような狂った笑顔。
電車が男の体を粉砕する凄まじい音と衝撃。人を殺した恐怖に発狂しそうになりながら、南は暗い高架下へと逃げ込んだ。
そして、そこに立っていたのだ。自分が濡れ衣を着せ、人生を奪ったはずの女が。
『あなたは、ここで生きるべき人間じゃない』
絶望の色に染まった瞳をしたバスガイド、如月美憂。
彼女が振り下ろした黒銀の大鎌が胸をすり抜けた瞬間、南の魂は肉体から根こそぎ引きずり出され、絶対的な死の闇へと突き落とされた――。
◆
「アァァァァァァァァッ!!」
凄絶な記憶のフラッシュバックから引き戻され、南は森の中で絶叫した。
そうだ。私は死んだ。あの女に殺されて、この訳の分からない世界へ飛ばされて、こんな醜い化け物の肉体になってしまったのだ。
「グルルルルルッ!!」
不意に、背後から生臭い息が吹き付けた。
南の流す血と涙の匂いを嗅ぎつけ、暗がりから飛び出してきた巨大な四つ足の魔獣。それは無防備に泣き叫ぶ南の喉元へ、容赦なく牙を突き立てようと迫る。
「危ないッ、メーリア!!」
剣士の仲間が助けに入ろうとした――しかし、その必要はなかった。
『シャァァァッ!!』
南の口から、人間のものではない鋭い威嚇音が漏れた。
恐怖で竦んでいたはずの身体が、バネのように弾け飛ぶ。人間の絶望を上書きするように、ラミアという冷血種の『本能』が、南の狂った精神を急速に塗り潰していく。
迫り来る獣に対し、南は地を這う巨大な蛇の尾を鞭のようにうねらせた。
「ギャッ!?」
信じられない速度と膂力で魔獣の胴体に巻きつくと、そのままギリギリと骨を軋ませて締め上げる。獣の断末魔の悲鳴に、南はうっとりと目を細めた。
肉が潰れ、温かい血が全身の鱗を濡らしていく。その感触が、不思議と心地よかった。
(……ああ、そうか)
獣の首筋に牙を立て、血を啜りながら南の口角が歪に吊り上がる。
もう、美しい人間の姿なんて必要ない。私はゴミでいい。化け物でいい。
その時、メーリアの記憶の残滓が不意に南の脳裏に浮上した。
『北の方に、別の世界から来た人間がいる』という、野営地で聞いたばかりの噂話。
別の、世界。私と同じように、現世からここへ来た人間。
その言葉が、南の狂った精神の中で、ひとつのどす黒い妄想へと結実する。
「……先生?」
あの雨のホームで、私が突き落とした先生。もしかしたら、先生もこの世界のどこかにいるのかもしれない。私をこんな姿に変えてまで生かした運命が、先生と私を離れ離れにするはずがない。
南の瞳孔が、爬虫類特有の縦の亀裂へと細く絞り込まれる。
這いつくばってでも見つけ出して、この長い体で骨の髄まで締め上げて、私が全部飲み込んであげる。今度こそ、永遠に私の中へ。
「待っていてね、先生……ふふ、あははははっ」
血に塗れた口元を歪め、狂気に満ちた笑い声を上げる南。そのおぞましい姿に、仲間たちは言葉を失って後ずさった。
「メーリア……? お前、本当にメーリアなのか……!?」
「どこへ行くつもりなの!? 正気に戻って、メーリア!!」
ハーピーの少女が泣きそうな声で呼びかけ、剣士の男が南の腕を掴もうと手を伸ばす。
しかし南は、その手を蛇の尾で容赦なく、骨が砕けるほどの力で弾き飛ばした。
「ガアッ!?」
「私を……その気色悪い名前で呼ぶな」
冷血な爬虫類の瞳で仲間たちをねめつけ、南は冷酷に吐き捨てた。
もはや彼女の中に、人間としての迷いも怯えも存在しない。




