シーン14:奪われた日常
「――でさ、最近ギルドの通信核で変な噂が回ってるの知ってるか? 北のルミナス方面に、『違う世界から来た』って噂の凄腕の冒険者が現れたらしいぜ」
パチパチと爆ぜる焚き火の向こうで、人族の剣士が干し肉を齧りながら面白おかしく語る。
ここは旧魔導領域ネルガルの荒涼とした夜、街道から少し外れた野営地。ラミア(蛇人族)の女冒険者・メーリアは、自慢の艶やかな長い蛇の尾を丸めて座り、呆れたようにため息をついた。
「またそんな物騒な噂を信じてるの? ネルガルなんて腕自慢の荒くれ者が集まる無法地帯なんだから、凄腕なんて掃いて捨てるほどいるでしょ。それより、明日の討伐依頼の段取りはどうなってるのよ」
「まあまあ、メーリア。噂話くらい良いじゃない。私たちのパーティも、いつか総本部で大きな依頼を受けて、こんな物騒な魔導汚染地域から抜け出したいわよね」
有翼族の仲間の少女が、背中の羽をパタパタと揺らしながら笑う。 メーリアは「調子がいいんだから」と苦笑しつつ、温かいスープを啜った。種族の壁を越えて結成されたこのパーティは居心地が良く、メーリアはこの騒がしくも平穏な冒険者としての日常を心から愛していた。
明日は街へ戻って、仲間たちと報酬の酒を飲む。 そんな、どこにでもあるささやかな未来を思い描いていた――まさにその瞬間だった。
「……っ!?」
メーリアの胸の奥で、ドクン、と世界がひっくり返るような異音が響いた。 心臓の鼓動ではない。もっと深い場所、魂の根幹を直接、巨大な刃で抉り取られたような、絶対的な死の気配。
「メーリア? どうしたの、急に顔色を悪くして……」
仲間の声が、遠く、水の中に沈んだようにくぐもって聞こえる。
(なに……これ……痛い、熱い……っ! 私の中に、何か黒くて、重たいものが……!)
空間が歪み、頭の中に『自分のものではない記憶』が津波のように流れ込んでくる。 雨の降る高架下。黒いコートの男。突き飛ばした男の背中。そして、真っ黒な絶望の瞳をした女が振り下ろす、禍々しい黒銀の大鎌。 どろどろとした嫉妬と、自己否定と、どす黒い執念の塊のような何か。
(嫌……こないで……! 私の、私の身体……私の居場所よ……っ!)
メーリアの魂が必死に抵抗する。しかし、原典世界から強引にバイパスを繋いできたその魂は、あまりにも重く、醜く、暴力的だった。
メーリアの意識は、自分の肉体という器から無情にも弾き出され、底知れぬ暗闇へと、真っ逆さまに突き落とされていく。
「嫌ぁぁぁぁぁぁっ……!!」
夜の森に、鼓膜を裂くような絶叫が響き渡った。
焚き火のそばで、メーリアの身体がビクンと大きく跳ね、痙攣を引き起こす。その凄まじい魂の衝撃と拒絶反応により、彼女が普段から社会生活のために維持していた【人化の魔法】が耐え切れず、盛大に剥ぎ取られていった。
「メーリア!? おい、どうした!! 敵の奇襲か!?」
「しっかりして、メーリア!!」
仲間たちが血相を変えて駆け寄り、倒れた彼女の肩を強く揺さぶる。 やがて、痙攣がピタリと止まった。 ゆっくりと、泥に塗れた顔が持ち上がる。しかし、仲間を見つめ返したその瞳には、先ほどまでの快活なラミアの面影は微塵も残っていなかった。
「……はぁっ……はぁっ……!?」
伊藤南は、暗い泥の上で激しく息を荒げながら上半身を起こした。
「ここ……どこ……? 私、死んだんじゃ……?」
頭が割れるように痛い。
目から零れ落ちる涙を拭おうとしたが、その手の感覚が奇妙に異なっていることに気づき、南は自分の手元を凝視した。
そこに人間の滑らかな肌はなかった。代わりに覆っていたのは、人化が解けて露わになった、冷たく濡れた、黒光りする無数の鱗だった。
「え……?」
恐怖に駆れて下半身を探る。布の感触はなく、腰から下はうねる巨大な蛇の胴体へと変貌していた。
「嘘……なんなの、これ……!? 私の足は……!? ねぇ、誰か教えてよ……っ!」
完全にパニックに陥り、頭を抱えて泣き叫ぶ南。 そのあまりの変貌ぶりと、発している得体の知れないおぞましい狂気に、駆け寄ってきた仲間たちは恐怖で足元をすくまれた。
「きゃああっ! メーリアの人化が解けて……本来のラミアの姿に戻って暴れ出してる……っ!」
「違う……! 人化が勝手に……! ねぇ、助けて……っ!」
自分の口から出た言葉なのに、自分が自分ではないような感覚。 頭の奥底では、ついさっきまで体験していたはずの「現世での絶望的な記憶」が、不気味なほどに、けれど鮮明に渦巻いている。
(私……あの男に裏切られて、高架下で……あの女の鎌に……)
混乱のあまり正気を失いかけ、うずくまってガタガタと震える南。 そんな彼女の背後で、ネルガルの深い夜の森の闇から、不気味な獣の唸り声が静かに響き渡るのだった。




